第19話 折りたたみ傘
高橋が変なことを言ったせいだわ。
徐々に雨足が強まり、清水くんに借りた傘に雨粒が当たる音を聞いていたら、この隣に清水くんがいてくれたらって思いがどこからともなく湧いてくる。
もう、清水くんのゴーストがすぐ隣に立っているような気さえしてくる。
分かってるのに。清水くんは彼女のことを忘れられてなんていない。分かってるのに。
むしろ、清水くんがこの傘で一緒に帰りたいのは彼女だ。私じゃない。
実際に、ふたりでこの傘で雨をしのぎながら並んで歩いたことだってあったのかもしれない。
清水くんは、そんな日が戻ってくることを望んでる。
傘の先からポツポツ落ちる水滴を眺める。
この傘、明日の朝すぐに返しに行こう。なんか、私が持っていちゃいけない気がする。
翌朝、「おはようございまーす」と出社してデスクに水筒を置き引き出しにお弁当を入れ、清水くんに借りた折りたたみ傘を手に持ってすぐさま総務を出て営業の部屋をのぞく。
……あ、清水くんがいる。どうしようかしら。
営業さんはなぜか出社が早いから、もう出かけていていないかと思ってやって来たらまさかの在席中。
……何がどうしようなのかしら。清水くんがいなければありがとうございましたってメモでも書いて置いておけばいいやって思ってたのに、いざ顔を見たら何か気の利いたことを言えないかと悩んでしまった。
お礼はシンプルでも心が込められていればいいのよ。ありがとうございました、でいいじゃない。
「おはようございま-す」
と言いながら営業の部屋に入り、清水くんの席にまっすぐに向かった。
「あ、おはようございます」
「おはようございます。これ、ありがとうございました」
「どういたしまして。まさかこんなチャイムも鳴ってないくらいの朝一で返しに来てくれるとは思ってませんでした」
清水くんが笑いながら傘を受け取る。なんでだろう、胸がキュッと苦しくなる。
「なんか、持ってちゃいけない気がして」
「え? なんで?」
なんでかしら……理由はないんだけど。
「なんとなく……」
「なんとなく? どうかしたんですか? 茉悠さん」
ううん、どうもしない。私は一体何に苦しさを感じていたのかしら。
心配そうに見つめる清水くんを見ていたら、こんな優しい子に心配かけちゃダメだな、と思えてきた。
「あ、茉悠さん甘いの食べられます?」
「うん、好きだけど」
「これどうぞ。もらい物で申し訳ない」
私の手にアメとチョコを渡してくれる。
「ありがとう……でも、清水くんは食べないの?」
「本当にすぐでもって言いますね。好きなんでしょ? 食べてくださいよ」
これ以上ないくらいにかわいいワンコスマイルに、心がパッと晴れやかになる。
「ありがとう。昨日、帰り大丈夫だった? 雨」
「アメと雨、みたいな?」
私の手のアメを指差す。
「あ、別にダジャレ言った訳じゃないんだけど」
「渾身のギャグだったらどうしようかと思った」
あはは! と会社では初めて見る豪快に笑ってる清水くんに、1カ月くらい前のあの夜を思い出した。清水くんはどうして私が名前を間違えて覚えていたなんてどうでもいい話をあんなに楽しそうにしてたんだろう。
「ねえ、キヨミ――」
「清水! ミーティング! もう始まってるぞ!」
「あ、はい! すみません!」
え、まだチャイム鳴ってないのに? 清水くんが慌ててノートやらファイルやらをまとめている。
「ごめんなさい、茉悠さん」
「もうミーティング始まってるの?」
「ね。就業規則って何なんすかね」
一瞬、いつもワンコかわいい笑顔の清水くんとは違い、メガネの奥の大きな目が鋭いネコのような無表情になった。
「ごめんなさい、行ってきます!」
「あ、いってらっしゃい」
もう、いつものワンコスマイルだ。
清水くんのスーツ姿を見送りながら、なんだか変わった子だなあ、と思う。
ワンコ系男子なのか俺様男なのか、犬なのかネコなのか。
もっともっと、清水くんと話をしてみたい。楽しみだなあ、交流会。
土曜日、みんな都合いいのかしら。もう、さくらみんなに聞いてくれているかしら。
あ、私もさくらに清水くんがOKなことをまだ言ってないわ。
数分前にこの部屋に入った時は迷いだらけだった私は、アメとチョコを握りしめ、別人じゃないかしらってくらいのウキウキ気分で営業の部屋を出た。
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