第13話 営業新入社員の仕事
やっべー、いきなり寝坊した。新入社員が二日目からギリってどうよ。恵利原部長じゃなくても怒られそう。
階段を上ってすぐ右手の部屋が総務、廊下を進んで隣にある部屋が営業だ。
階段を駆け上がり上り切ると、
あ、水城さん、この時間に出勤なんだ。
「おはようございます!」
「あ、おはようございます」
水城さんは平和の女神のようにおだやかな笑顔で振り向き、総務の部屋に入って行った。
営業の部屋に入ると、
「清水! もう研修始まってるぞ! 何時だと思ってる!」
といきなり怒鳴られてしまった。
いや、8時25分ですけど、始業時間の5分前なんですけど、前。
「すみません!」
たしかにギリなのはダメだとは思うけど、怒鳴られるのは違うと思うんだけど?! でも、俺が寝坊したせいだから、仕方ない。こうして人は仕方ないと諦めるということを覚えていくんだな。俺、大人の階段上ってんな。
この時間に来れば水城さんにあいさつはできるけど、恵利原部長に怒鳴られるのか。
「片橋くん、何時に来たの?」
「俺、念のために30分前に来たのに同じテンションで怒鳴られたんだけど」
「30分前で?!」
5分前なんですよ、前! とか言わなくて良かった。てか、30分前で怒鳴られるんじゃ何分前に来ればいいんだよ?!
始業時間って何のためにあるんだ! 就業規則って何なんだ! 昨日一番初めに読み込まされたのに!
その後は、現場を知るために、と1日ずっと工場だった。なんで製造じゃないのに営業には作業着渡されたんだろう? と正直疑問だったけど、現場を知るってのも営業の仕事なんだな。
ところがなんと、この2日目から3カ月もの間みっちり現場だった。驚きしかなかった。
現場には、毎日午前中に1回は水城さんが来る。郵便の仕分けの担当だそうで、製造課宛の郵便物を持って来ているらしい。
あ、水城さんだ、と水城さんを午後からも見つけるとラッキーボーナスのように思った。午前中にしか現れないはずのキャラだから午後にはレアキャラ、みたいな。
そして、この3か月の間に片橋とふたり俺ら営業だよな、と語り合い、仲良くなった。
さらに俺を驚かせたのが入社から丸っと3か月経った6月の終わりに、
「お前ら、マニュアルは頭に入ってんだろーな!」
と唐突に営業の部屋に呼びだされて恵利原部長に怒鳴られたことだ。
「マニュアル?」
「入社してから3か月も何やってたんだ!」
現場だよ!
こっちが聞きたい! なんで営業なのに3か月も現場しか行ってねえんだよ! 久々に営業の部屋に入ったわ! こっちはもうすでに毎日暑くてしょーがねえのにこの部屋は涼しくていいな!
ダメだ、これでは腰巾着高橋さんに負ける。俺ならやれる、俺は主人に従順な犬だ。今はこの恵利原部長が飼い主なんだ。
「ごめんなさい、マニュアルもらうのを失念していたようです。お手数おかけしますが、いただけますか?」
うるっと擬音が聞こえそうなほどに煩悩を振り払って心を無にして恵利原部長を見つめる。どうだ! 俺の全力の犬っぷりは! 通じるかな。
俺は忘れてなんかないから、普段はまず使わない失念という言葉を使うことで悪いのは俺じゃねえのにって気持ちを押し殺した。
「お……清水、マニュアルもらってないのか?」
「はい。片橋ももらってないですよね?」
「もらってないです」
「高橋! お前マニュアル渡すの忘れてんだろ!」
高橋さんかよ。慌てて高橋さんがマニュアルを渡してくる。
「7月からは営業の研修が始まるから、しっかり頭に叩き込んどけよ」
明日からかよ! 今日1日でこの分厚いマニュアル頭に入れろってのか!
「がんばります!」
「……がんばります!」
体育会系の片橋には、この分厚さが逆にやる気をかき立てるようだ。いい返事をするもんだから、仕方なく俺もやる気あるような返事をしておく。
久しぶりの自分の机で、ひたすらにマニュアルを読み、後から気になりそうなところ、時間ができたら見直しておきたい箇所などにふせんを貼って行く。なんか、重複してる内容も多々ある気がするんだけど、ちゃんと見比べたら違うかもしれないからふせんを貼っておく。
1日しか時間がねえって言うから、小学校でやった辞書にふせんを貼って行く勉強法みたいになってる。
あ、ついにふせんが無くなってしまった。
「高橋さん、ふせん無くなったんですけど、どうしたらいいですか」
「隣の総務の部屋にあるよ。入ってすぐ左側の棚の中から勝手に取っていいから。もし残り少なかったら棚の前に座ってる女に報告しといて」
総務?! 水城さんのいる総務に行けるのか! 他にも用事ないかな?
「恵利原部長、何か総務から取って来る物とかないですか」
「お! 名前はややこしくて気が利かねえくせに気が利くな。あー、ねえな」
ねえのかよ。使えねえ上司だな。
名前関係ないだろうが! 俺名前のこと言われるのが一番ムカつくんだよ。しかもこういう関係ないところでまでいじられるのが!
「片橋、ふせんまだある?」
「あとちょっと」
「じゃあ、ついでに取って来るよ」
「ありがとう、悪いな、清水」
なんのなんの。もし報告するべき女が水城さんだった場合、話をするきっかけになる。俺の名前がキヨミズだって知ってもらう流れになるかもしれない。
話する機会なんかびっくりするくらいないんだもんな。同じ会社なのに。
「失礼しまーす」
と総務の部屋に入って左側を見る。たしかに棚がある。その前に座る人物を見ると、水城さんだ!
何ならふせんの場所を知らないフリして聞こうかな……あ、電話中か。
仕方なく、水城さんに背を向け棚をのぞく。あー、これだけ残ってたら水城さんに報告できないな。仕方ない。このまま戻るか。
「ミズシロ……マツユウ? 少々お待ちください」
水城さんの電話対応の声が聞こえる。え? 水城って、水城さんだろ? なんで待たせてるんだろう。
「頼野さん、ミズシロ マツユウって人います? 聞いたことある気はするんですけど。福岡の方ですかね?」
「それ、
笑いながら頼野さんが答える。
え?! ミズシロさんなんかいないの?!
ミズシロじゃなくて、ミズキだったんだ?!
「あ、そっか。よくミズシロさんと間違われるの忘れてました」
ミズキさんが電話対応に戻る。
え……俺が一番ムカつく、名前の読み間違いすら、ミズキさんにとっては忘れる程度のことなんだ?
中学以降なんか、教科担任制のせいで毎時間「ミズキです」って訂正してただろうに。
あれって、初めは仕方ないと思えるけど毎時間は本当に嫌になってくるし全然読み方覚えない先生もいて、3月になっても間違えられたりすると超腹が立つ。
キヨミズとシミズならまだ、これまでに3回くらい次が後藤や佐藤で
「加藤、シミズ……キヨミズか」
とこちらが訂正する前に気付いてもらえたことがあったけど、ミズキとミズシロじゃあ気付いてもらえたことなんてないだろうに。
すごいなあ、ミズキさんは。
おおらかで、俺なんかとは人としての器が違う。俺も名前間違われるくらいでカリカリしてるようじゃダメだな。
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