第3話 安土城天主

 石段が折れ曲がる所で唐突に姿を現した安土城の天主に、僕は周囲の観光客と一緒になって、阿呆みたいな口を開けてしばらくぼんやりとその姿を眺めていた。


 僕は今まで熊本城と広島城には行ったことがあるし、日本百名城の本などで色々な城の櫓の写真を見てきたけど、安土城の天主はそのどれとも全く違う。五階の望楼の八角形の部分はそこだけ寺院のようだし、戦闘用の建築物である天守閣に鮮やかな丹塗りの柱を使うなんて今まで見たことがない。

 日本中のあらゆる城の建築物とも違うし、さらに言うと寺院建築ともどこか違う。日本の他の建築のどれにも似たものが見当たらない、まさに独創の塊のような奇妙な建物だが、これはこれで絶妙な調和が取れていて類まれな美しさを感じるのが不思議だった。

 そこから先も相変わらず石段は急で、僕はヒイヒイ言いながら登っていったが、それでも天主を一目見てからは、何かに背中を押されているみたいに早く行きたい、あそこにたどり着きたいという気持ちが先に立って、辛さはそれほどでもなかった。


 とうとうたどり着いた天主は、間近で見ると意外と小さいというのが正直な印象だった。それが麓や下から見上げると圧倒的な存在感を発し、実物よりもずっと大きく見えるのだから、これは設計の妙なのかもしれない。


 入場者の行列に並んで天主の中に入った僕は、他の現存している天守閣とは中の様子が全く違う事にまず驚いた。天守閣というのは権勢を示すために外側は美しく作るけれども、あくまで軍事施設であって、戦闘の時以外は倉庫や武器庫として使うのが普通だ。

 だから、天守閣の中は人が暮らす事を本来想定しておらず、柱も床板も白木がむき出しのままの殺風景なものがほとんどだ。天守閣も櫓も、外から眺めるぶんには複雑な造形が美しく面白いけど、中に入ると単調で退屈で、相当の城好きではない普通の観光客は、だいだいどこの城でも退屈そうにしている。


 でも安土城は違う。まず床は板の間ではなく畳が敷いてある。柱は漆でどれも黒く塗られ、今でも艶やかな光沢を保っていてとても美しい。柱と柱の間は金色の襖で区切られ、そこには狩野永徳作の障壁画が描かれている。何枚もの襖を余すところなく大胆に使って描かれた、いかにも狩野永徳といった作風のごつごつとした荒々しい質感の松の絵は、間近で見るとまるでこちらに迫ってくるかのようだ。

 かと思うと隣の部屋の襖には、ややピンク色を帯びた白い牡丹の花が華やかに咲き誇る絵が、やはり何枚もの襖にまたがり空間を贅沢に使って描かれていて、日本のさまざまな花鳥風月を描いた絵が廊下をはさんで両側に次々と展開していくのがとても楽しい。

 残念ながら保存のため実物は博物館で保管されており、城内に飾られている障壁画は全てレプリカだが、それでも往時の雰囲気は十分感じ取れた。


 安土城も軍事施設であるため、外敵との戦いに備えて天主の一階から三階には窓があまり無い。しかし格子窓から外部の光がうまく室内に入るよう上手に工夫されていて、また室内の金の障壁画がほのかに輝いているため、電気の照明がなくてもそれほど暗さは感じない。


 安土城が他の城ともう一つ大きく違っているのは階段だ。城の天守閣や櫓に設置された階段は、防御上の理由からどこもほぼ垂直に近い急角度になっていて、まるで梯子を上る時のように両手も添えないと到底怖くて上り下りできないのが普通だ。

 でも安土城の場合、信長がこの高層建築で実際に生活をしていた事から、利便性を重視して現代の普通の階段とほぼ変わらない角度となっている。ただ、この階段も合戦時には簡単に外せるようになっていて、付け替えるための梯子が用意されていたそうだ。


 三階までは十二畳から三畳まで、様々な広さの部屋がいくつもあり、多彩な画題の障壁画で飾られている。それが四階は一転して殺風景な巨大な屋根裏部屋で、かつては倉庫として使われていた。

 一分の隙も無く完璧に飾り付けられたこの安土城の中で、この屋根裏階だけは梁や板壁がむき出しになっていて、外光もほとんど入らずほぼ真っ暗である。しかも、屋根が巨大なだけに屋根裏の高さも非常に高く、この四階だけは天井の高さが他の階の二倍以上ある。

 現在は来場者の安全のため、ともし火程度の小さな電灯が階段の周囲を黄色く照らしてくれているが、それ以外は当時と同様の真っ暗闇だ。周囲に広がる終わりの見えない漆黒の若干かび臭い空間は、何だか得体の知れない化け物や悪霊がそこに住んでいるような気配が漂っていて恐ろしくなってくる。

 ましてや迷信や悪霊が現実に存在するものとして真剣に語られていた当時、電気もなく手燭の心細い明かりだけを頼りにこの四階を通り抜けて五階から上の望楼に登った人たちの感じた恐怖はどれ程だったろう。

 どうしてこんな、絢爛豪華な安土城らしくない暗く恐ろしい階を作ったのか、最初僕は不思議に思ったが、階段を登って五階に上がった瞬間に設計者の意図を即座に理解した。


 暗く不気味な屋根裏階を、上階からかすかに漏れてくる光の見える方へと少しずつ手探りで歩いていき、階段を登りきった所で僕は「あっ」と硬直してしまった。

 そこは八角形の形をした五階部分で、全周に開放的な華頭窓が何個も配置され、キラキラと日光で輝いていた。真っ暗な屋根裏からいきなりこの光あふれる五階に入ると、暗闇に慣れた目が調節に追い付かず、視界が一瞬真っ白になる。それは僕に、この部屋で何か奇跡が起こったかのような錯覚を起こさせた。


 暗く不気味な四階を抜けた所に突然広がる開放的で明るい五階は、寺の八角堂を模した形状に加えて、内側が金色に塗られた柱の間の壁面には釈迦の説法図と十大弟子の絵が描かれているなど、部屋中が仏教色にあふれている。

 真っ暗で天井が高い四階は、おそらく死から極楽浄土への転生を来訪者に実体験させ、さらに五階から六階の望楼階が天上の別世界だということを印象付けるための演出なのだろう。


 僕はしばらく八角堂をうろうろして、壁画を一つ一つ丹念に眺めながら心を落ち着けていった。この階の階段を登れば次は六階、最上階である。天下人・織田信長の見た景色がそこにあるのだ。

 最上階への階段だけは、おそらくスペースの関係で、他の城と同様に、ほぼ垂直に近い急角度のものになっている。見学を終えて降りてくる観光客と窮屈にすれ違いながら、その階段をゆっくりと登っていった僕は、そしてやっぱり「あっ」と声を出してしまう。

 きっと過去、信長の前に膝を屈した幾多の大名たちがこの城に案内されて、この階段を登り切った所で、僕と全く同じような顔をしていた事だろうと思う。


 三間四方の部屋は金色の柱に縁どられてまばゆく輝き、黒漆の狭間戸は全て開け放たれていて、金色の欄干の奥に初夏のまぶしい青空が広がっていた。

 壁面は三皇五帝、孔門十哲、竹林の七賢などの中国古典に画題を採った狩野永徳の絵で埋め尽くされている。

 それにしても、南蛮趣味が大好きだった信長の割に、最上階の六階は中国古典、五階は仏教典籍、一階から三階は日本の花鳥風月と、壁を飾る絵画のテーマは全て東洋のもので、南蛮の文物が全くと言っていいほど描かれていないのが意外だった。信長も案外根は保守的なところがあって、建築のような末代まで残るものに、南蛮趣味などの流行りのものを下手に取り入れて後世の笑いの種にならないようと思ったのかもしれない。


 僕は狭間戸に近寄り、そこから外を眺めた。眼下には緑濃い安土山と官公庁のビル街が見える。そしてその奥には雄大な琵琶湖が広がっていた。


 これが、天下人の見た景色…

 僕はしばらく呆然と、この金色に輝く安土城最上階でふらふらと当時の雰囲気のようなものを脳内補完して吸収していた。

 信長はしばしば征服した大名をこの安土城天主の最上階に案内しては、自らの権勢を誇示し彼らの抵抗する意欲をへし折っている。小田原の北条氏政、豊後の大友宗麟、土佐の長曾我部元親…。

 呆然とする彼ら地方大名の姿と、その顔を得意げに眺めて意気揚々と城内を案内して回る信長の姿が、僕の目の前にありありと浮かんできた。


 また、今では失われてしまっているが、この最上階の中央には豪華な寝台が置かれ、七十一歳で死去する直前まで、信長はそこで寝る事を好んだという。

 当時の七十代といったら現代の比ではないほどの老人だ。エレベーターもない時代、この安土城の六階まで昇り降りするだけでも老体には堪えるだろう。

 それでも嬉々として、誰よりも高い場所で寝泊まりしたがる信長の姿を想像すると、日本を統一し戦乱を終息させた立派な英雄というよりも、自己顕示欲が並外れて強いだけのただの悪ガキじゃないかと思った。彼はこの部屋で一体、どんな顔で何をして暮らしていたのだろうか。


 そこでふと、あ、と思い出してポケットからスマホを取り出した。

 案の定、スマホの横のランプは点滅していて、開いてみると

「天主の最上階で、思わず『人間五十年~』、って頭の中で歌いませんでしたか?」

という中納言さんからのコメントが来ていた。


 僕は思わず噴き出すと「歌った歌ったwww」と最上階の写真と共に返信した。

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