第2話 安土城

「こちらこそ、いつも『いいね』付けて頂いてありがとうございます。まだ安土城をご覧になってないなんて、実にうらやましい! 歴史好きなら初めて見たら絶対感動しますよ! ぜひあの感動を生で体験してほしいです」


 この百字足らずの短い返事を、一体僕は今日何回読み返したことだろうか。

 自分の事など存在すら気づいていないはずだと思っていた中納言さんから、返事が来たというだけでも嬉しいのに、「いつも『いいね』付けて頂いてありがとうございます」という返事の「いつも」という三文字に僕は無上の喜びを感じていた。

 これはつまり、僕を「よく『いいね』を付けてくれる人」だと個別に認識してくれているという事じゃないか。


 僕は、じんわりと心の底から湧いてくる安堵感と幸福感に酔いしれながら、ここが正念場だと気を引き締めた。中納言さんはかなりSNS上の愛想のいい人だ。これくらいの形式的な返事程度なら、彼は初見の人にも普通に返している。ここで油断して馴れ馴れしくしたら、フォローを外されたり、最悪嫌われてブロックされたりしてしまう可能性だってまだ十分ありうる。

 僕はまたさんざん推敲を重ねた末に、こんな返信を打った。


「返信ありがとうございます! 実は、安土城はずっと前から行きたいと思っていたのに行けていなかったので、それでは、さっそくですが今週末にでも行ってみようと思います。中納言さんの写真が素晴らしいきっかけになりました。ありがとうございました」


 すると、すぐさま中納言さんから返事が来た。

「私の写真がきっかけとは、本当にうれしいです。感想を楽しみにしています!」

 これはもう、僕は絶対に安土城に行くしかなかった。


 その週の土曜日、僕は朝五時に起きると、今津港から長命寺港行き琵琶湖高速船の始発便に乗った。長命寺港から安土城までは地下鉄で五分程度だ。

 安土城は地下鉄の安土城前駅で降りればすぐなのだが、僕は散歩がてら、一つ前の虎ノ門駅で降りることにした。改札を出て階段を登り、地下鉄出口から外に出ると、まず目に入ったのは新緑が鮮やかな美しい街路樹と、片側三車線の大通りの両脇に並ぶやや古臭い感じのビル群だった。


「あっちが経産省、これが文科省、あそこが厚労省……」

 僕はスマホで出した地図と実際の景色を見比べて圧倒されながら、色々な省庁のビルの名前を確かめながら歩いた。安土区の中でも、虎ノ門から称名寺にかけての地域は、国会議事堂をはじめ多くの官公庁が並ぶ日本の政治の中心地だ。歴史とは関係ないけれど、せっかく安土に来たんだから今日はそっちも見ておきたい。


 織田信長は上洛を果たした後、主に京都の二条新御所に住んで政治を行うようになったので、安土城の戦略的位置づけは徐々に薄くなっていった。

 しかしそれでも、安土城はその後も織田政権の権威の象徴であり、精神的な支柱であり続けた。さらに晩年の織田信長は、公家や社寺からの雑音の多い京都を嫌って安土城に隠居して、そこから二条新御所に住む息子、信忠に指示を出して陰で政治を操るといった体制を取るようになった。


 織田信忠も父が始めたその体制をそのまま継承し、三代目信光に織田家の家督を譲った後は、信光を京都に住まわせ、隠居の信忠が安土城に住んだ。以後、関白を退任した先代の織田家の当主が隠居後に安土に住み、大御所として安土から京都に対して隠然たる影響力を及ぼすというこの方式が定着する。

 そして、安土はその後二百年以上続く安土時代を通じて、「第二の都」「天皇の都に対する武家の都」として政治の中心地であり続けたのである。

 西暦一八一二年の光格維新によって織田政権は倒されたが、政治の中心地としての安土の都市機能は維新新政府にそのまま継承された。京都御所の中に置かれている宮内庁を除けば、国会議事堂や首相官邸、官公庁などの政府機関は全て安土に置かれている。


 官公庁街のビルの隙間から、チラチラと緑の山がのぞいて見える。安土山だ。それと共に、今までビルだらけだった景色の中に、黒々と茂った古い木が鬱蒼と茂る武家屋敷や寺などが少しずつ混ざるようになってきた。安土城の大手門付近は、安土時代から続く歴史的な街並みが残っていて、地区全体が重要文化財に指定されている。自分が徐々にそこに近づいているのだと分かった。

 と、そこで僕は道路の反対側を何気なく見て、そこにあった建物に気づくとすぐに地図を見返した。武家屋敷の巨大な赤い門。旧前田家上屋敷跡、通称「赤門」だ。

「ここが安大か…」


 会津前田藩の広大な屋敷の跡地に建てられたのが、言わずと知れた日本の最高学府、「安大」こと安土大学だ。

 あくまで安大は安土城を見に行くついでに立ち寄っただけなので、僕は赤門から大学の構内に入り、銀杏並木を抜けて安田講堂と三四郎池をざっと見て回ると、そそくさと安大を後にした。どうして他人の大学というのは、出入り自由なのに何となく居心地が悪いのだろう。それが日本一の偏差値を誇るあの安大ともなると、自分が居てはいけない場所のような気分になってしまう。


 安大を抜けると、安土城はすぐそこだ。こげ茶色の板塀で囲まれた武家屋敷が続く通りを抜けると、そこに安土城の大手門があった。

 入り口で入場券を買うと、すぐに急角度の石段が始まる。ほんの数分登っただけで僕は息切れしてしまった。大雨が降って石段が滑りやすくなったら、危ないから登るのを止めようと思うような恐怖を感じる急坂だ。


 中納言さんはこれを日常的に登っているのか! と僕はすぐに彼の凄さを実感したし、何よりもこんな山の上で嬉々として暮らしていたという織田信長は頭がおかしいと思った。当時の人はこの程度の坂なんて苦にもしないほど誰もが健脚だったのか、あるいは下人たちに輿などを担がせて、それに乗って登り下りしていたのかもしれない。


 安土城の大手門から太い石段の道が一直線に伸び、その両脇に家臣の屋敷が並んでいる。最初に見えてきたのが羽柴家と前田家の邸宅だ。

 安土城は小高い丘の上にあり、城内では狭い土地しか確保できない。そのため両家とも城内の邸宅とは別に麓の城下町に広大な本屋敷を持ち、当主は普段そこで生活していた。城内にあるこの邸宅は出張事務所のような位置づけのごく小さなものだが、織田家の権勢を誇示するために建てられた安土城であるだけに、小ぶりであっても各家が贅を競った凝った造りになっている。

 建物は黒の下見板張りに青瓦で、その色合いが天主と統一されている。今ではほとんど剥がれてしまっているが、瓦の縁には金箔が貼られており、当時はさぞ豪奢だったことだろう。


 それにしても、もう少し涼しい季節に来ればよかったと僕は後悔した。ボタボタと汗が顔から落ちてきて、Tシャツはもう水洗いしたかのようにびっしょりだ。僕は休憩がてらスマホで羽柴家屋敷の写真を撮り、発汗のすごさが分かるような腕の写真と一緒に、その場でSNSにアップすることにした。


「ついに来ました安土城!いま、やっと羽柴家邸前に着いたけど、まさかこんな急坂だとは思ってなかった……。いま腕の汗こんな感じ」


 それから険しい道をさらに登ると、それまでまっすぐに伸びていた石段がくねくねと曲がり始める。中納言さん、こんな坂を上り下りしながら、よくもまあ、あれだけ集中して写真撮る体力が残っているよなぁと思う。週末なだけに観光客の数は結構なものだが、皆同じようにヒイヒイと音を上げて、僕と同じように「こんな急坂とは思ってなかった」などと口々に泣き言を言っている。


 初夏の安土山の緑の木々に、瓦の青、漆喰の白、下見板の黒という三色で統一された建物の群れが映えて、心に余裕があればそれらも美しく感じたことだろう。でもその時の僕は、プルプルと震える足をただ上に持ちあげる事にしか意識を配る事ができず、頭を下げて足元の古びた石段をぼんやりと眺めながら歩いていた。


 と、坂道の前方の曲がり角のところで、観光客の人だかりができているのが目に入った。その人だかりのある場所に着いた途端、誰もがパアっと晴れがましい顔になって、写真を撮り始める人、ポカンとだらしなく口を開けたまま斜め上の方を眺めて微動だにしない人、色んな表情の人たちで道がふさがれて、そこだけ人の流れが滞っている。

 疲労で苛立っていた僕は、何だよもう、邪魔なんだよ、と内心で悪態をつきながら、こんな所でモタモタしてないで早く山頂の天主に行こうと、その人だかりの中を抜けようとした。そして何となく人々の視線が向いている方向に目をやると、そこで僕も思わず「あっ」と声を出して、他の人と同じようにそのまま硬直してしまった。


 日本初の五層六階建ての高層建築。

 黒の下見板張りの巨大な三層の入母屋の上に乗せられた、丹塗りの柱の八角堂。

 その上にある廻縁を配した金色の最上層は、麓から見上げると屋根に乗せられた金箔瓦が燦然と輝いて非常に目立つが、ほぼ真下に近いこの場所からだと角度が急すぎて少ししか見えない。


 ああ……。これは毎日でも登りたくなるわぁ……

 僕は中納言さんがここまで安土城にこだわり、さまざまな角度から写真を撮りまくっている理由をやっと理解した。そして、信長に倒され、敗者としてこの城で信長に謁見するためにこの石段を登ってきた大名たちは、この光景できっと心が折れただろうなぁ、なんて事をぼんやりと思っていた。


 と、そこでポケットの中のスマホがブブブと震えた。

 見てみると、先ほどのSNSの僕の投稿に中納言さんから返信が付いていた。


「二の丸の手前、森蘭丸邸のあたりの曲がり角まで頑張れば、疲れも全部吹っ飛びますよ!」


 それは、僕が今いるこの場所だ。

 すごいなこの人。千里眼か。

 僕はすぐさまスマホで天主の写真を撮って中納言さんに返信した。

「ちょうど今そのあたりにいますwww 確かに疲れが全部吹っ飛びました!」

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