あと一ヶ月

 彼女に出会ってから二日、いつものように猫の散歩をして病院の前を通ると、やはりそこには彼女がいた。


「二日ぶりだね。冬樹くん」


「ああ。二日ぶりだな。というか、また抜け出してきたのか」


「いや、今日はちゃんと外出許可はもらったから安心して」


「そうか。なら安心だな。で、何のために外出なんてしてるんだ」


「ええ!?」


 なぜか灯は驚いていた。


「もう。やっぱり君は意地悪い」


 何故か分からないが、灯を怒らせてしまったようだ。

 やはり俺は女の心が分からないな。


「ねえ冬樹くん、私、君と話したいことが山ほどあるんだ。だから私のたわいもない話に付き合ってよ」


「見ての通り猫の散歩だ。だから……って」


 猫は灯に飛び付いた。

 会って数秒で、なぜか俺の猫が灯に懐いてしまった。これではここから遠ざかる理由もない。


「じゃあ話に付き合ってくれる?」


「ああ。断る理由もない」


 渋々、俺は彼女の願いを引き受けた。

 たわいもない話、灯は何一つ嘘をついていなかった。本当にたわいもなく、ただの日常の話。

 灯は膝の上に猫を寝かせて撫でながら、淡々と話し続けていた。


「ねえ、冬樹くんは猫が好きなの?」


「あ、ああ」


 やばい。話聞いていなかった。

 俺の反応で気づいたのか、灯は頬を膨らませて少し目付きを尖らせて睨んできた。とはいっても、誰がどう見ても怖くない、優しい目だ。


「もう、話はちゃんと聞いててよ」


「悪い悪い。次からちゃんと聞くから」


 とそこへ、看護士がやってきた。

 その看護士は二日前に灯を追いかけていた看護士だ。どうしてこんなところに?今回は外出許可はもらったと言っていたが……まさか、


「灯さん、また抜け出して、皆心配してますよ」


「すいません」


 無邪気な笑顔でそう言うと、看護士は慣れているのか、ため息を吐いてそれ以上責めることはなかった。


「おや?この子は?どういう関係?まさか恋人?」


「私の友だーー」


「そこまで親しい関係じゃないです。友達でもないし、何と言うかな……」


 この関係を何と言えば良いのだろうか?

 友達というにはそれほど親しくもないし、それ以外思いつく言葉でも相応しい言葉はないように思うが……。


「もう、また意地悪い」


 なぜかまた灯が頬を膨らませている。

 その様子を、看護士は微笑ましげに見ている。


「そうなんだ。でも雰囲気的にもう友達だと思うけどね」


「そうでしょうか?」


 この関係を友達というのなら、人類皆友達だろう。そういえばそんなことわざもあったっけ。


「灯さん、早く帰りますよ。定期検診があるんですから」


 なるほど。それが嫌で逃げてきたんだな。こいつは。


「ええ。あれだけは嫌だよ、あれだけは」


「そんなこと言わないでください。それよりももう抜け出さないでくださいね」


 やっぱり結局抜け出して来たのか。

 それまでして外に出たい理由が分からない。それほど重病でもないと言っていたし、すぐに死ぬわけではないだろうし……。


「そこの君、どうせなら君も来る?猫は私が預かっておくから」


 看護士はそう言ったが、行く必要がない。体が悪いわけでもないし。


「灯さんも来てほしいよね」


「ででで、できれば来てほしいかな、なんてね。君は家に帰りなよ。私は一人でも十分だから」


 灯が猫の頭から手を離すと、猫は俺のもとに飛んできた。


「じゃあね。冬樹くん」


 灯は看護士と一緒に去っていく。

 俺は猫を抱えたまま、遠ざかる彼女を背中を呆然と眺めていた。

 どうしてこんなにも後悔しているのだろう。一緒に行けば良かったかもしれないのに。どうして俺には、それができない。


 こんなに後悔しているのは、きっと十年前に会った彼女と灯を重ねてしまっているからだ。とっくに死んだはずの彼女のことを灯と重ねてしまっている。

 勇気も度胸も俺にはない。だから病院に背を向け、家に帰る。




 病院へ向かう道中、看護士の雨水うすいは灯へ訊いた。


「ねえ灯さん、あれで良かったの」


「良いんですよ。だって私はもうすぐ死ぬんですから。あと一ヶ月で私は死ぬから……」


 明るい表情だった灯は、少しずつ暗い表情に変わっていく。

 そんな灯を心配し、雨水看護士は言う。


「だから強欲になりなよ。それじゃ君が報われない」


「今日の彼を見て思った。最初は運命を感じたけれど、彼はきっと他人に興味がない。だから私はこのまま一人で死んでやろうと思うんだ」


 灯は無理矢理にでも笑った。

 それが作り笑いであると分かっても、雨水看護士は何も言えなかった。

 強くあろうとする彼女に、もうこれ以上言葉をかけられなかった。だって彼女は必死に堪えていたから。瞳の奥にある涙を。孤独の涙を。

 これ以上言葉をかければ、きっと彼女は泣いてしまう。だから雨水は口を閉じ、静かに車椅子を押す。

 ーーそれでも彼女の背中は押せない。

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