98.『確かに未来へ紡がれた』


 一瞬だった。

 一瞬、目を離しただけだった。


 正確に数えるなら、きっと3秒にも満たない片時だった。

 なのに、店はなくなっていた。


「――え」


 事態が飲み込めない。

 ほんの今まで、アリスはこの店の中にいて。

 でも、その店はもうなくて。

 飛び出したから、アリスは無事で。

 ――中には、店主がいて。


「あ、あ……」


 よろよろと、その瓦礫に近寄った。

 崩れ去ってはいるけど、その原因さえ分からなくて、予兆さえなくて、もう、意味が分からない。


 バラバラになった木くずが積み上げられている様子は、雑に解体作業でもしたような印象だ。


 なにが、どうして。


「ま、ます――」


 その時、気付いた。

 突然崩れ去った建物は、この店だけじゃない。


 少なくとも、目に見える範囲の建物は全て、その形を失っていた。


「そん、な……」


 ついに膝をついたアリスは、無意識にこの店の痕跡を探す。

 この店がちゃんとあったことを、自分に再認識させるための、痕跡を。


 ――店主がいることの、証明を。


「まだ、どこかに……」


 いるかもしれない。

 偶然、木片と瓦礫が隙間を生み出し、その中に閉じ込められているかもしれない。

 あるいは、アリスと共に店を飛び出していて、巻き込まれていないかもしれない。


 そんな現実逃避をも孕んだ希望的観測に、縋ってしまう。


「いたっ……」


 木片をどけようとして、木くずが指に刺さる。

 それでも構わない。

 アリスは続けた。


「だって、だって……」


 そんなはず、ないのに。

 街はこんなになってしまったけど、店もなくなってしまうかもしれないけど、それでもまだ希望は残されていたはずなのに。


 こんな形で、終わるはずじゃないのに。

 ――分かったって、言ってくれたのに。


「嘘、付かないんじゃなかったんですか」


 溢れる。


「お客様に、がっかりされちゃいますよ」


 止まらない。


「私、まだ死ねないんですよ」


 生きろと、そう言われたから。

 生きててよかったと、そう言われたから。


 人と話をしなさい。

 人に興味を持ちなさい。

 人に優しくしなさい。

 辛くても、苦しくても、それでも生きなさい。


 そう教えられたから、アリスはまだ死ねない。

 その全てを上手くやれているかは分からないが――、


「――マスターのおかげで、私は頑張って生きてます。けっこう大変なんですよ、生きるのって。マスターがいなくなったら、誰に褒めてもらえばいいんですか」


 少なくとも、全力だった。

 疲れてしまうくらいには、本気だった。


 それでも、恩に報いるためにも、アリスは生きた。

 これからも、生きるだろう。


「――ぁ」


 視界の端に、一冊の本が映った。

 汚れていて、しわだらけになって、破れかけてもいる、手綴じの本だ。


 アリスはそれを拾い上げると、表紙に書かれた文字に目を奪われる。


『メモ』


 たった二文字。

 たった二文字だけど、本は分厚かった。


 これは、店主が書き留めた、この店のレシピだ。

 アリスはおそるおそる、ゆっくりとページをめくった。


 そこに記されていたのは、歴史だった。

 店主がどんな人生を歩み、何を想い、どう感じたのか。

 膨大な料理のレシピから、それが伝わってくる。


 アリスの知らないメニューも多かった。

 辞めてしまったのか、あるいはボツになったのか、それは分からない。

 だけどその全てに、店主の想いが込められていた。


 ――そして、最後のページ。

 古ぼけた文字で、こう書いてあった。


『この雑記を未来へ託す』


 ――店主にとって、やはりこの店こそが人生だったのだ。

 アリスはそれを大事に抱えて、立ち上がる。


「――生きなきゃ」


 そしてアリスは、目を開けた。



 生温い風が、ねっとりと頬を撫でる。

 節々からの痛みに不調を感じながら、アリスは地面と平行になった身体を起こした。


「あ、れ……」


 たった今まで崩れ去った店の前にいたはずのアリスは、目の前の景色との齟齬に頭を捻らせる。


 ここは、東門前。

 あれだけごった返していた人の群れは、アリスを除いて全員が地面に伏している。

 その数は、数十――いや、数百人に及ぶかもしれない。

 それだけの人々が、意識を失って眠りこけていた。


 街の上空が光ったのは、その瞬間だった。


「――――」


 目で認識するよりも先に、まるで流星のように何かが降り注いだ。

 それは数十メートル先の地面に突き刺さり、轟音と共に土煙や瓦礫が舞った。


「いてて……」


 それを追うように、小さな人影が降り立つ。


「しぶといね。楽しみがいがあるよ」


「手加減とか、ボク舐められすぎかな?」


「舐めてはないよ。でも手加減しなきゃすぐ死んじゃうでしょ。それはつまらないからさ」


 往来に大穴を開けて叩きつけられた老人が、埃を払いながら立ち上がる。

 それを待つのは、白い少年だ。


「うん? 起きてる子がいるね」


 その言葉には、殺意とか悪意みたいなものが感じられなかった。

 だが、それに捉えられたアリスは、心臓を握られたような圧迫感に苛まれる。


「へぇ……普通の女の子に見えるけど、なんだろ。スキルかな。おはよう」


「ちょっと、余所見してる場合じゃないでしょ。斬っちゃうよ」


「ごめんね、続きをしようか」


 それっきり、少年はアリスに興味をなくしたように、上空へ飛び立っていった。



「大丈夫? 結構強めに頭打ってたけど」


「まぁ、ボクも歳をとったよ、はぁ、はぁ……」


 黒刀で肩を叩く魔王は、ギルドマスターを待っていた。

 折れてしまった剣を持ち前の魔法で再び造り出し、斬りかかってくる時を、待っていた。


 お望み通りと言わんばかりに、ギルドマスターは魔法を使う。

 しかし、枯渇しかけてしまった魔力では、最初の一本ほどの業物を生み出すことは叶わない。


 対して魔王は、傷ひとつない身体でそれを見据えていた。

 ――そう、彼には、傷ひとつない。

 決死の思いで奪った右腕も、かすり傷程度だった脇腹の怪我も、全てが無駄だったように完治している。


「……モンスターと戦う上で、一番嫌いな特性があってね。再生能力はさすがにズルいでしょ」


「それは君たち人間が基準になってるからだろうね。僕たち魔物からすれば、再生能力のない存在の方が劣等種なんだ」


「はぁ、ふざけてるなぁ……」


「まぁまぁ、なにも際限なしに再生できるわけじゃないし、許してよ。お詫びってわけじゃないけど――」


 言いながら、魔王はその黒刀をくるくると回し、空中に突き立てた。

 それにギルドマスターが身構えると――、


「怖がらなくていいよ。ただ置いただけだから。ちょっと気になることもあるし、休憩がてらお話しない?」


「――。却下、かな」


 とうに身体の限界を超えているギルドマスターは、休めるものなら休みたい、とは思った。

 しかし、既に残された時間も少ないことを、彼自身理解している。


【畢生沸血】を使ってしまった以上、あとは命が擦り減り続けるのみ。

 短期決戦以外に、人類が安寧を掴み取る術はない。

 

 それに加えて、先程からの不調もある。

 思うように身体が動かないのだ。

 本来であれば、ここまで息切れすることなどないはずだったのに。


 ともかく、攻撃の手を緩める選択肢はない。

 ギルドマスターは、新品の剣を強く握った。


「ふふ、そろそろ疲れてきたかな?」


「はぁ、君たちのせいで増えた仕事に比べれば、まだまだ、だよ。最近激務でね、はぁ……」


 ギルドマスターの剣を素手でいなしながら、魔王は楽しげに笑った。


「それはごめんね。でも、もう終わるさ」


「そうは、はぁ、ならないよ」


 軽口――と簡単に切り捨てられないような物言いを、それでもギルドマスターは否定する。

 誰が見ても劣勢で、もはや勝機などありはしないように見えても、折れることなどありえない。


 それが立場であり、責任だ。


「立派だとは思うけどね。でも――そろそろ、時間じゃないかな?」


「なに、が……」


「君、もうすぐ消えちゃうもん。この街の人間たちも」


「――――」


 消える。消えるとは、どういうことだろうか。

 死ぬ、ということか。

 だから、それをさせないためにギルドマスターは――、


「消えるんだよ。存在がなくなっちゃうの。――君のレベルは、今いくつなんだろうね?」


「はぁ、まさか……」


「僕の呪いは――『レベルを奪う』ことなんだ。生命の根幹、個としての証。神の領域に干渉できることが、僕が王たる器の証明さ」


 ――レベルを奪う。

 その意味を、ギルドマスターは理解できない。


 魔王の言う通り、レベルというのは神に与えられた不可侵領域で、誰かが介入していいものではない。


 それも、与えるではなく、奪う。

 レベルが奪われた者は、どうなるのか。

 消える、とはなんなのか。

 存在がなくなるなんて、そんな恐ろしいこと、あっていいものか。


「この街の人間は今、僕の呪いの中で夢を見ているはずだよ。消えちゃうまでの短い間だけど――幸せな夢ならいいね」


「はぁ、はぁ……最悪だね、性格」


「まぁね。だからさ、さっき自力で起きてた子が気になるんだけど、あの子は――」


 言葉を出し切る前に、魔王の動きが止まる。

 同時にギルドマスターの意識も、目の前の魔王から外れた。


「――これは」


 凄まじい魔力だった。

 ギルドマスターと、あるいは魔王をも凌駕するほどの、途方もない魔力の奔流が、天に向かって流れ出していく。

 

 ぐるぐると渦巻いて、行き場を探すように街を彷徨っている魔力は、しかしギルドマスターの知る魔力とは、ほんの少しの相違があった。


 得体の知れないそれに、魔王は劇的な反応を見せる。


「――これはちょっとよくないな」


 ギルドマスターを眼中から外し、出処を探るため飛び立とうとした魔王に、鋭い一閃が突き刺さる。


「行かせるわけないでしょ、さすがに。はぁ、はぁ……」


「もう無理するのやめた方がいいんじゃない? 汗すごいよ」


 無視して、ギルドマスターは剣を振る。

 何度も、何度も。

 相も変わらずそれら全てを素手で防ごうとする魔王に、休む暇も与えずに剣を振る。


 確かに、防がれていた。

 正確に剣筋を逸らされ、刃を弾かれ、容易く対応されていた。


 ――なのに魔王の表情からは余裕が消え、剣を振るごとにその右腕から血が噴き出している。


「――弱体化、している……?」


「余計なことに気付かなくていいよ。まだ君よりは強いから」


 気のせいかもしれないが、微かに苛立ちも見え隠れしているように感じた。

 業を煮やした魔王は、ギルドマスターを貫こうと右腕を振り上げる。


「――【迴波】」


「――っ」


 しかし、その隙を見逃すほど、ギルドマスターは遅れをとっていなかった。

 ――ここが、正念場だ。

 

 圧縮された衝撃波が腹を穿ち、魔王はなすがままに吹き飛ぶ。

 ギルドマスターは空を蹴り、体勢を整えさせる間もなく追撃の剣を振るった。

 鮮血が舞い、両腕が落ちる。

 

 限界を超え、血反吐を吐きながら、砕けるほどに歯を食いしばって、ギルドマスターは空を駆ける。

 やがてその勢いは、近衛兵団の本部に突き刺さり、魔王と共に止まった。


「はぁ、ごめん、アベンくん……ボクは責任取れないから、なんとかしてね……」


「かはっ、はぁ……無茶するなぁ、君は」


 その腹に剣を突き立てられた魔王は、美しいほどに純白だった髪を真赤に染め抜いて、濁った瞳でギルドマスターを捉えた。


「で、どうしたら、君は……死ぬのかな……このまま斬り続ければ、死んでくれるの、か……な……」


「あと二万回くらい斬られたらマズいかもしれないね。まぁ、君の方が先に限界を迎えそうだけど」


「そん……なこと……ないさ……ボクは、まだ……」


 ずるりと、剣に込められていた両手の力が抜けた。

 

 近衛兵団本部の外壁、そこに突き刺さった剣は、ギルドマスターの手が外れてもまだ、魔王を貫いて固定している。

 しばらくは魔王も身動きが取れないだろうが、近いうちに再生能力が行使され、解き放たれるだろう。

 それまでに、息の根を止めねば。


 それは理解っているんだけど、ギルドマスターの身体はもう、動かなかった。



 東門。

 渦巻く魔力の中心に、女はいた。


 誰かのために、自分のために、大切な人のために――、


「――まだ生きていたい」


 女は願った。

 希った。


 今日を生きるために。

 明日を信じるために。


「――私は、私たちは、まだ生きていたい。やりたいことがある。逢いたい人がいる。伝えたい想いがある。だから――」


 ――だから、女は願った。


 命を、焦がして。


「――私たちは、『生きる』わ! ねえ、そうでしょ!」


 その瞬間、それは形を持った奇跡となって、街を覆い尽くした。



 魔王は、ゆっくりと目を閉じた。


「こんなので、僕に勝ったつもりかな?」


 目の前にいるであろう人間に、暗闇の中で問いかける。

 その頬には、今この場にそぐわない、笑みが張り付いていた。


「いや、思ってないよ。――ただ、託すのさ」


 同じように、ギルドマスターは頬をあげた。


「託す? 誰に?」


 その問いに、ギルドマスターは少しだけ考えて、しかし迷わずに答えを出す。


「――未来に」


 魔王は満足気に息を吐くと、その男の最期を見送るために目を開いた。


「楽しかったよ。僕の勝ちだけどね」


「引き分けってことにしてくれると嬉しいな」


「だって、これはズルじゃない? 君の力じゃないじゃん」


 街の北側を覆い尽くす結界を見つめながら、魔王は苦笑をこぼした。

 魔法ともスキルとも違う、唯一無二の魔力。


「神聖術か……久しぶりに見たよ。もう完全に叩き潰したと思ったんだけど」


 現代では魔法と神聖術の区別は曖昧で、そうさせたのは魔王だ。

 しかし、実際のところは違う。

 少なくとも、これが魔法の結界であれば、魔王は容易く砕いていただろう。


「2週間弱、ってとこかな。君が魔力を足さなければすぐに出られたんだけどね」


「連携は、冒険者の……お家芸、さ……」


「……まぁ、引き分けってことにしてあげるよ」


「は……光栄、だね……あとは、頼んだよ」


 それを最後に、セドニーシティから魔王以外の生物が消えた。



 ――そして時は現代に戻る。


「時間ぴったりだね。ふふ、待ってたよ、ヒスイ君」


 誰の記憶にも残らない戦士が、未来へ託した思い。

 それを彼は知らない。


 魔王を目の前にしても立ち上がることができず、ただ黙ってその瞳に覗かれる彼は、知らない。


「――ヒスイから離れなさい」


「……私たちが相手」


「ふぅん。君たちは……衛兵じゃないね。この街の冒険者かな?」


 ――だけど、思いは確かに未来へ紡がれた。


 

「いえ――ただ、貴方を倒すだけの者です」

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