97.『思いは馬鹿正直に』
最初の一撃からしばらく経っても、決定的となる二撃目はやってこなかった。
それでも、セドニーシティの被害は計り知れないだろう。
火の海が広がり、瓦礫が降る街を、女――アリス・グレーデンはその目に入れながら進んでいく。
時折、巨大な魔力のぶつかり合いが起こり、大気が揺れる。
見上げれば、ふたつの人影が街の上空で戦っていた。
「……あんなの、どうしようもないじゃない」
少なくとも、アリスは戦いを知らない。
つい最近、その命に危機が迫った経験はあるものの、そこで得られたものといえば、自分はひとりでは生きていけないという無力感のみだ。
きっと、アリスだけじゃない。
この街で生きるほとんどの人は、あの戦いに介入できない。
次元と役者が、違うのだ。
「――おい、何してるんだ! 門は逆だ、戻るんじゃない!」
道中、恐らく身を案じてくれたのだろう。
アリスの背中に声をかける者もいたが、それに答える暇もなく、彼女は人の間を縫っていく。
割れるような叫喚に包まれ、ぶつかってくる雑踏を押しのけ、やがてひとつ角を曲がると、途端に人の数は減った。
――辿り着きたい場所まで、あとわずかだ。
アリスは腹の底に力を入れ、グッと息を止め、心臓のある場所を握ってから、全力で走り出した。
■
「はぁ、はぁ……」
膝に手をついて、額から落ちる汗を拭う。
炎に照らされて赤く染まる空の下、その店はいつもと同じようにそこにあった。
この辺りには住宅も少なく、幸い避難は済んでいるのだろう。
遠くの方から聴こえる誰かの叫び声以外は、人の気配を感じられない。
ちょっとばかり現実味がなさすぎて、なんだか夢の中にいるみたいだった。
「……お邪魔します」
ドアを開けると、来店を知らせる鈴が鳴る。
今となってはお客さんなんているはずもないから、その音色も妙に悲しげに思えた。
「――アリス。いらっしゃい」
「――――」
声がした。
心地よく、聞いているだけで全部大丈夫だと思えるような、ひどく安心感のある声が。
アリスは目を見開いて、俯いていた顔を上げる。
「マスター……こちらにいらっしゃったんですね」
「ああ、どうも私は、この店から離れられないようだ」
「守らなければいけないものとは……」
「君の考える通りだろう」
店主はカウンターに立ちながら、煙をたてるカップを啜り、頬を緩めた。
「――この店が、私の人生だった」
「終わるみたいに、言わないでくださいよ」
「ああ……終わらなければ儲け、だな」
「まったくもう……私、まだ死ねないんですから」
回想されるのは、命を落としかけた日のことだ。
結局、アリスは自分で自分を助けることが出来なかった。
直接的には救ってくれた青年の、精神的には店主からの教えのおかげで、アリスはまだ生きている。
店主がいなければ心が折れて死んでいたし、青年がいなければ身体が持たずに死んでいたし――そもそも、店主が拾ってくれなければ、アリスの人生はそこで終わっていた。
「その、救ってくれた彼と出会ったのもこのお店ですし。私にとっても、このお店は人生ってことです。――本当に、そうです」
「――なにか飲むかな?」
「じゃあ、ヌルリイカサンドとコーシーを」
「珍しい。どちらも、好きというほどではなかったと思ったが」
「なんとなく、です」
軽食の調理を待ちながら、アリスは客席に座った。
あれだけ毎日忙しなかった窓の外は、今では人っ子一人いない閑散とした往来となっている。
頻繁に聞こえる轟音と、その度に高ぶる悲鳴の群れのおかげで、寂しくなることはなかったが。
アリスは、この街に降りかかった厄災を正しく把握していない。
今まさに滅びかけていることは理解できるが、それが誰の手によるもので、誰が守るために戦っているのか、それすらも分からない。
結局のところ、アリスにとって大事なことは、それを紐解くことなどではなかった。
彼女も店主と同じく、この店を一番大切に思っている。それだけの話だ。
「冷めないうちに」
「ありがとうございます」
差し出されたカップを手に取る。
店主はそれを見届けると、再びカウンターに戻っていった。
「飲んだら行きなさい」
口に運ぼうとしたところでそんな声がかかり、アリスは手を止めた。
「マスターはどうするんですか?」
「捨てられないな、この店は」
「私だって、この店を失いたくなんかないです。ですけど……私は、生きますよ。マスターにそう教えられたんです」
「ああ、偉いな。自慢の娘だ」
あの日、思ったことがある。
死にかけて、絶望して、もう無理だって悟った時。
ほとんど諦めの境地ではあったが――十分頑張ったんだから、もうここで死んでもいいやと脳裏をよぎった。
よくよく考えてみれば、どうやらまだ頑張り足りてなかったようなので、思い直したが。
でも、あの時のアリスが、自分で納得できるほど立派な人間になれていたのだとしたら。
――もしかすると、立ち上がることはなかったかもしれない。
本気で満足して、自分の死に場所はここだって納得できたなら、悔いなく逝くことができたかもしれない。
少なくとも、もっと最悪な結末を避けることが出来るなら、自分で選ぶことだって悪くないんじゃないかって、そう思ったのだ。
だから――、
「マスターは、このお店が何よりも大事なんですね」
「ああ、そうだ」
「へぇ、私よりも?」
「言うようになったな。どちらも大事だよ。――だが、君を大切にしてくれる人ならもう、沢山いる。この店には、私しかいない」
だから、そう憂いた顔をする店主に向かって、アリスは言った。
「ずっといい子だった私ですけど、ちょっと言わせてもらいます」
「……アリス、本当に変わったな。明るく、そして愛嬌のある子になった。それで、なんだろうか」
「お店なんて、生きてれば再建できますよ。命は一個きりです」
青年に助けられた時、思い直したのだ。
人生の儚さに、鼓動の五月蝿さに――そして、生を願う彼の涙に、アリスの信条は決まったのだ。
――生きることこそが、何よりも尊い。
――命ある限り、生きるべきだ。
「マスターがいなくなったら、悲しむ人がいっぱいいますから。いつも来てくれるお客様だって、ここでお店と心中されるより、諦めずにまたお店を開いて欲しいって、きっと思ってますよ」
「……そう、だろうな」
「だったら、そうすればいいんです。いーや、わかってますよ。そしたらマスターは、『でもこの店には歴史と思い出が……』とか言うんです! 言い訳ですか!? 言い訳ですね! 諦める理由に使ってるだけなんだ! ばか! ずる!」
「別に言わないが……」
「はぁ、はぁ……」
必死だった。
アリスはそれなりに器用だから、見よう見まねで講釈を垂れることはできる。
それっぽいことを、良さげな雰囲気で語ることもできる。
でもそれは猿真似に過ぎず、じゃあ彼女が誰の真似をしてきたのかといえば、当然ながら目の前の店主だ。
上辺だけじゃ、店主を説得することなんて出来ない。
アリスに出来ることといえば、自分の心の内を馬鹿正直にぶちまけることのみだった。
そんな子供じみた方法しか、定まった店主の心を動かす術が思いつかなかった。
「私は、マスターがいなきゃ嫌なんです! 私にとってお店って、マスターのことなんです! マスターがいるからお店なんです! 私からマスターを奪おうとしないでください! 私は――」
「……分かった。それを飲んだら、ここを出よう」
「マスターを――え? え、あ、本当に……?」
「私は君に嘘をついたことなどない」
「――っ! 今飲みます! すぐ飲みます!」
「味わってくれると嬉しいが」
大慌てで胃にコーシーを流し込むアリスを眺めながら、店主は苦笑をこぼす。
彼は、本気でここを死に場所にするつもりでいた。
店を失うくらいなら、共に幕を下ろしたいと考えていた。
それを変えたのは、他でもない――変わっていくアリスの成長を、もっと見ていたいと思ったから。
ただ、それだけだ。
「さぁ、ここを出ましょう。すぐに出ましょう。東門はかなり混み合ってると思いますが――」
駆け足気味に、アリスは店から飛び出す。
少しばかり出遅れてしまったが、今すぐに門へ走れば、まだ間に合うはずだ。
とはいえ、きっと時間的な猶予は少ないから、無理やりにでも気合いを入れる必要はありそうだ。
彼ももう若くないんだし、ちょっと心配だなと思いつつ、後ろについてきているはずの店主に振り向くと――、
「ちょっと頑張って走らな――い、と」
店があったはずの場所には、朽ちて崩れ落ちたような、木くずの破片が積み上げられていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます