96.『単純こそが正解』
「ふぅん。悪くないね」
次々と繰り出される魔法を、ゆるりと身体を捻るだけで躱す魔王には、乱れなど一切ない。
「そう思ってくれてるなら、一発くらい浴びてくれてもいいと思うんだけどな……」
「浴びたら痛いかもしれないじゃん」
少なからず驚異に感じてもらえている事実、それを光栄と捉えるべきか、おちょくられていると怒るべきか。
ギルドマスターはどちらを選ぶ気にもなれず、ただ魔力に任せて魔法を撃った。
セドニーシティ上空、この街で一番高い建物――近衛兵団本部と並んで、ふたつの人影が戦う。
当然、近衛兵団本部を背にすることはなく、魔王をその前に立たせることもしない。
ただ、きっと誰かが見ている。
気付いて、逃げてくれる。
そのために、この高さに浮かんでいるのだから。
「あんまり高いとこに行くと、コントロールできずに落ちた時のことを考えてゾッとするんだよね」
「その可能性があるんだ?」
「いや、今のところ経験はないけどさ。常にリスクを考えてないと、冒険者ってのは短命なんだ」
言葉を交わしながら、魔法を繰り出す手は緩めない。
相も変わらず魔王はそれを容易く凌いで、悠長にこちらを窺っている。
不思議なことに、いつまで経っても彼は反撃をしようとしなかった。
やっぱり、おちょくられているのかもしれない。
「あれ? どうして手を止めたの?」
「……君はなにを企んでる?」
「そりゃ、最終的には人間を滅ぼすことだよね。あ、今この場においては――」
額の汗を拭う余裕すらなく、ギルドマスターは魔王の姿を刮目した。
ずっと防戦一方――と表していいのか分からないくらい、涼しい顔で攻撃の全てをいなされてきた彼は、闇雲に戦っても望む結果が得られないことを理解している。
だから、魔王の狙いを思案した。
それが見えてくるよりも先に、魔王が口を開いて――、
「――最初の企みなら、今終わったとこ。さ、戦おうか」
その手が天に翳されると、その瞬間セドニーシティの此処彼処に、火の手が上がった。
■
「――今、そこに人がいたのよ! その中に、人が!」
「――もうダメだ、死んでる! あなたも早く逃げて!」
燃えて、潰れて、壊れていく街を見ながら、女は走っていた。
その瞳の裏に、深い悲しみと怒りの色を隠しながら。
どうして、こんなことになったのか。
どうして、こんな目に遭わなければならないのか。
一度ならず二度までもこの街を、この街の人々を壊そうとする絶対的な悪は、何が目的なのか。
どうせ、悪に理由なんてないのだ。
理不尽だからこそ、悪なのだ。
とはいえ、だったら目的が明確なら街を壊されても許すのか、と問われれば頷くことは出来ないが。
「――避難してください! 街の外まで、早急に避難してください!」
喉から血が滲むほどに叫び続ける近衛兵の横を通り抜け、女は東門へ向かった。
女の住む居住第3区からそう遠くない位置にある東門、しかしパニックになった人々でごった返す道は、危険すら伴うものだった。
なんとか人の波も進んでいき、ようやく目的の東門に辿り着くまでの間で、女の見る限りでは10人以上が死に、それ以上の家屋が倒れた。
「――アリスちゃん!」
「おばさま! よかった、ご無事で……」
先んじて東門に辿り着いていた群衆の中に、女は見知った顔を見つけて胸を撫で下ろす。
同時に、頭をよぎる。
キョロキョロと当たりを見回してから、聞いた。
「あの、マスターは……?」
「……あの人は、お店に行ったわ。どうしても守らなくちゃいけないものが、あるんですって」
「――――」
咄嗟に走り出そうとした時だった。
背中に、不穏な言葉が降りかかる。
「街から、出られない……?」
そう怪訝そうな声を出したのは、近衛兵だったか。
出られない、というのがどんな状態を指すのかは不明だが、悲報であることに間違いはなかった。
そして、女――アリスの心を決めさせるには、十分な言葉でもあった。
どうせ出られないなら――、
「私、ちょっと行ってきます」
アリスは、人波に逆らって燃え盛る街を走り出した。
■
「結界、だって……?」
「うん、ちょっと大掛かりなやつをね。でも、効果は単純さ。出られない。入れるけど、出られない。それだけだよ」
その最悪すぎる所業に、ギルドマスターは思わず言葉を呑んだ。
つまり、これから被害者が増える可能性はあっても、減る可能性はなくなった。
ギルドマスターが勝たなければ、文字通りの全滅は必至ということになる。
責任重大、後には退けない。
でも、もはやギルドマスターの心はそんな次元になかった。
「――【烈氷華】」
「わあ、寒い」
無数に突き立てる氷の剣をことごとく躱し、魔王はその顔を仰ぐ。
まるで意に介していない様子にはもう、腹を立てる道理すらない。
十分、分かった。
いや、戦う前から、分かっていた。
そう簡単に届かせてくれる存在ではないと、理解していた。
だが、それは諦める理由にはならない。
ギルドマスターが背負ったものの大きさを考えれば、それこそ限界を超える必要があると、奇跡を掴むほかないと、ただそれだけだ。
「――ふぅ、ボクはまだまだこんなもんじゃないよ」
「それは誰に言ってるの? 僕にかな? それとも、自分に?」
「――――」
その問いには返さず、何度でも右手に魔力を込めた。
その度にいなされ、躱され、止められる。
だったらもう一度、魔法を撃つのみだ。
それも止められるなら、さらにもう一度。
届くまで、撃つのみだ。
「失敗だったんじゃない?」
どうやら、魔王はお喋りが好きらしい。
ギルドマスターにはとっくにそのつもりはなかったのに、彼は戦いの中ですら会話を止めようとしない。
少しでも気を逸らせるならそれも――とよぎったものの、そんな小手先じみた発想では、到底勝利を掴むことは出来ないだろうと、改める。
それでも魔王は、返答を求めた。
「判断ミスだよ、君の」
「……なにがかな」
「ヒスイ君をこの街に置いておかなかったことさ。彼がいれば、ここまで被害が広がることもなかったんじゃないかな」
失笑が漏れる。
その被害の元凶が何を言ってるのかと。
それを言うなら、魔王がこの街に来なければ被害なんてなかった、が正解だ。
だが、あえて答えるならば――、
「ひとりの冒険者に秩序を委ね始めたら、この街の機能は終わりだよ。近衛兵や他の冒険者にも生活があるしね。仕事奪われちゃ堪らんでしょ。……ただ、今は後悔してるかな」
「ふぅん。ヒスイ君を縛り付けておかなかったことに?」
「――ボクが彼くらい強くなっておかなかったことに。【畢生沸血】」
全身の血が沸き立つ。
心臓が五月蝿く主張を始め、血管が浮かび上がる。
筋肉は盛り、感覚は尖り、魔力は膨張した。
手足の昂りは、魔王の目から見ても瞭然だっただろう。
「なにしたの?」
「――スキル【畢生沸血】。本当の奥の手だ」
このスキルを使うのは、人生で一度きり。
今が、その時だ。
「――早い」
空を蹴り、加速する。
魔王の周りを大きく廻りながら、速くなり続けるスピードはやがて人間の限界を超越した。
それでも、まだだ。
まだ、捉えられている。
もっと、もっと、もっと、もっと――もっと、速く。
まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ――今。
ほんの刹那、その意識からギルドマスターの存在が外れた瞬間、空を蹴る方向を鋭く変える。
一直線にその胸目がけ、湧き上がる莫大な魔力を凝縮し、突き立てた。
しかし――、
「かなりすごいね。まさかヒスイ君以外で、ここまで人間の限界を――っ」
「悪いね、もうそこにはいないよ」
「――――」
魔王は、人知を超えた存在である。
だからこそ、人間如きと本気で戦おうとしていない。
それは、この戦いの中で確信となった性質である。
そんな彼にとって、いかに限界を超えようと、いかに一瞬目を離そうと、ギルドマスターの攻撃程度なら防ぐことが出来る。
少なくとも、そんな自信を持っている。
――だから、そこに賭けた。
一撃目は、魔王に意識させるための陽動。
後ろに周り込んだ二撃目が、本命だった。
単純だが、ギルドマスターの能力と魔王の性格が噛み合った今、単純こそが正解なのだ。
「……やるじゃん。さすがに驚いてるよ」
――その結果が、脇腹から流血する魔王。
初めて傷をつけることには成功したものの、致命傷には程遠い。
加えて、もはや同じ手段は使えない。
なにより、魔王の目の色が変わった。
羽虫同然だったギルドマスターは、たった今倒すべき敵となったのだ。
「一旦満足して、ここは帰ってくれると有難いんだけどな……」
「そうはいかないね。なにより君に興味が出た」
「ふぅ、嬉しいやら苦しいやら……」
「守るべき人々を背にして、嬉しいはちょっと不謹慎じゃないかな?」
「だから、君が言うことじゃないっての」
とはいえ、元より素直に退いてくれるとは、ギルドマスターも考えていない。
何にせよ、ここで決めることが、セドニーシティを守る絶対条件なのだ。
ギルドマスターは、再び空を蹴った。
「――【萌ユル焔】」
「――【雷羅】」
最初に交わされた魔法の応酬を繰り返し、ぶつかる。
寸刻ほど前の記憶では、ギルドマスターの繰り出した炎は魔王の雷に呑み込まれ、完全に力負けした。
――それが今、魔力は拮抗している。
ぶつかり合う赤と白は、どちらも譲ろうとせずに、ただ光のみが膨張する。
そして、大気の方が先に耐えきれなくなり、爆発した。
「――眩、しいなぁ」
「――【紅淼刀】」
「な――っ」
確かな手応えと共に光が晴れた頃、魔王は右の肩から先を失っていた。
「いつから後ろにいたの? 速いなんてもんじゃないでしょ。怖いよ」
人間と同じ色の血を流しながら、魔王はブレることなく対話を望む。
しかし、平和のための対話ではない。
仲良く手を取り合うための対話でもない。
きっと魔王は、自らの知的好奇心を満たすためだけに、一方的に対話を望むのだ。
ただ、今においては劣勢である――そのはずなのに、依然として取り乱すこともなく対話を求める姿には、不気味な違和感を与えるものだった。
「そんなに強いんなら、先に教えてくれればよかったのに。もったいない」
「悪いけど、いつでも出せる力じゃないもんでね」
「ふぅん。じゃあ、次は僕が頑張っちゃおうかな」
そう言いながら、魔王は左手で空気を掴み、ゆっくりと横に引いた。
すると、何も無い空間から漆黒の刀が抜刀されていく。
黙って見ていたギルドマスターは、背筋を震わせた。
「なに、それ。ちょっとヤバい気配がプンプンするんだけど」
「お目が高いね。お察しの通り、ヤバい刀さ」
「魔法はすごいし、呪いの王だとかも聞いたけど、剣術は聞いてないな」
「――あぁそれ、バレてたんだっけ。まったく、バエルはいい子なんだけど、ちょーっとお喋りが過ぎるんだから」
どす黒い刀だ。
いや、刀というより、刃というべきか。
戦術的優位性などかなぐり捨てたように、無骨な漆黒だけで構成された得物。
それを隻腕の魔王が一振りすると、ぞわりと悪寒に支配される。
冒険者をやる上で、この感覚にはごく稀に出会うことがある。
記憶を頼りにするならば、その正体は――、
「刃そのものが呪い、って認識で合ってるかな」
「そういうことだね。呪いで造られた刀――夢があるでしょ?」
「ないよ。夢も、希望も」
実際のところ、『呪いで造られた』――なんてのは、意味が分からない。
呪いというのは概念で、状態異常だ。
少なくとも、呪いそのものが形を持つなんて現象、ギルドマスターは知らなかった。
ただ、あれが呪いであるということだけは、ギルドマスターの豊富な人生経験から弾き出された結論として、事実であった。
「切られたらマズいのかな。それとも、近くにいるだけでヤバいのかな」
「ご想像にお任せするよ」
「ふぅ。ボクはもう、剣は使わないって決めてたんだけどな」
土、氷、炎。
ギルドマスターは多様な魔法を組み合わせ、一本の強固な剣を作り上げる。
立派な装飾のついた名刀ではないが、切れ味と耐久性だけならそれに引けを取らない一本だ。
「へぇ、器用だね」
「魔法にはちょっとした自信があるんだ。ヒスイくんのカノジョには負けるけどね」
ただし、威力と魔力量においては、だ。
知識と経験なら、数え切れないほどに頭の中に入っている。
「ボクの引退戦に付き合ってもらうよ。まぁ――冒険者なんてとっくに、引退してたつもりだったんだけど」
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