95.『不完全とは、可能性』


「街上空の魔力が、歪んでいる……?」


 その曖昧な知らせが届いたのは、とある朝のことだった。


 大量の書類に囲まれた閉塞的な部屋の中心で、老人は分厚い丸眼鏡を上げて、返答を待つ。


「はい。原因は不明ですが、高出力かつ高濃度な魔力の渦紋が、セドニーシティの上空に出現したと」


「ふむ……」


 その返答に新しい情報はなく、第一声に聞いた言葉の繰り返しであることから、暗に彼らの手に余ると主張されていることを理解する。


 早い話が、老人――ギルドマスターの判断を仰ぎたいと、そう言っているのだ。


 その判断に間違いはない。

 きっと誰しもが、この不可解な現象にひとつの可能性を思い浮かべたから。


 遠くない過去、この街を襲った悲劇を鑑みれば、なるほど確かにギルドマスターが動くべき案件だろう。


「……また、ヒスイくんたちがいない間に、か。変な奴に好かれちゃって、気の毒だね、彼も」


 心の底から湧き上がってくる溜息に、相対する男は言葉を呑んだ。


「いや、気の毒なのは、ボクかな。この場合は」


 冗談になっていない冗談を浴びて、男は苦笑をこぼす。

 釣られるように、ギルドマスターも疲れきった微笑を漏らした。



「――というワケで、街民の避難を勧告してくれるかな」


「……一応、その任は私の管轄外なのですが」


「わかってるし、ちなみにボクもだよ。ボク、貴族の偉い大人と会話するのが苦手でね。君みたいな人当たりのいい好青年の方が彼らも聞く耳持ってくれるでしょ」


「貴方のほうが、私のような若輩者よりも重んじられるとは思いますが……承知しました」


 持ち前の行動力で、ギルドマスターは早々に近衛兵団長の協力を取り付けることに成功した。


 彼も苦労をしている。

 特にここ最近、近衛兵団長に就任してからは、前任者の残した責を全て請け負い、忙しなく動いていた。


 それでも彼が弱気を見せることはなく、「兵団長の頼みなら断れませんから……」と頭を搔くその姿は、ギルドマスターにとって好印象だった。


 そんな彼だから、ギルドマスターも安心して負担を分かち合える。


「じゃあ、あとはよろしくね、アベンくん」


「承りました。其方もお気を付けて」


 手短に挨拶を交わすと、次の場所へ向かうため、ギルドマスターはその場を去った。



 外に出てしばらく歩いた時、ギルドマスターは悟った。

 際限なく膨張していく魔力が時空を押し、破裂するまで、ほんの数分の猶予すら残されていないことを。


「……マズいな。アレ、無理かも」


 じとりと、不快な冷や汗が頬を伝って落ちた。


 散々な目に遭ってきたセドニーシティではあるが、今回は前回と比べ物にならないくらい、洒落にならない気配がプンプンしている。


 少なくとも、ギルドマスターの命ひとつで片が付く程度の危機ではなさそうだ。


「何が無理なの?」


「――――」


 あまりに、突然のことだった。

 その背中に、危機感なんて皆無な声が降りかかったのは。


 心臓を掴まれたような錯覚に陥り、ギルドマスターは呼吸ひとつすら忘れた。

 そんな中でも薄ぼんやりと浮かんだのは、ここが人通りも住民もいない裏路地でよかった、という安堵だ。


 なるべく刺激を与えないように、なるべく敵意を悟られないように、ゆっくりと振り向く。


「始まる前から諦めるなんて、ちょっと弱気すぎるんじゃないかな」


 その目の前に降り立った、透き通るほどに白い髪を肩で切り揃えた少年――の形をした悪魔に、ギルドマスターの意識は持っていかれた。


 目を合わせたその瞬間、圧倒的かつ絶対的な力量の差に、身動ぎすらも封じられる。

 

 ただ流れ続ける嫌な汗の感触だけが、ギルドマスターをこの場に留まらせる生きた証だった。


「僕、思うんだけどさ」


 せめてもの抵抗として、あるいは本能から湧き出るものとして、ギルドマスターは滲み出る敵意だけは隠そうとしない。


 その一挙手一投足を見逃すまいと、長い人生の中で一番目を凝らした。


 それを分かっているはずなのに、目の前のそれは悠長に語り始め、ギルドマスターは息を呑む。

 我々などいつでも屠ることができて、今はこの男の掌の上で踊っている、とでもいうのか。

 いや、実際、その通りなのだろう。


 だから、こうして少しでも時間を繋げられるのは、ギルドマスターにとっても僥倖だった。

 今は戦うよりも、対話を試みるべきなのは明白だ。


 だから、震える喉を絞って、ギルドマスターは言葉を紡いだ。


「なにを、思うのかな」


「生まれてから死ぬまでの間で、一番輝く瞬間のことだよ。いつなのかなー、って」


「それは、人によると思うよ、ボクは」


「うーん。タイミングとか状況は違くても、本質は同じなんじゃないかなと僕は睨んでるわけなんだけど」


「……君は、魔王だよね」


「そうだよ。君たちの敵さ」


 恐ろしいほどに、人間味を感じる存在だった。


 決定的な問いを投げたって激昂することもなく、ただ当然のことのように頷いた。


 もちろん、ギルドマスターがそんなリスクを取った理由には、この存在がそんな些細なことで取り乱すとは全く思えなかったから、というのがある。


 直感で、そう思った。

 何故なのかは、分からないが。


「それでね。まぁ、僕たち魔族と君たち人間の感覚はちょっと違うと思うんだけど、強さを重んじるという意味では同じだと思うんだよね」


「強さを……」


「うん、そうでしょ? 冒険者は、強さに序列を作る。家柄に序列を作る。立場に、年齢に、性別に、スキルに、魔法に、体型に、経験に、声に、生き方に、死に方に、序列を作る。強さってのは、なにも腕っぷしだけじゃないんだ」


「……それが、営みってやつさ。立場を明確にするからこそ、秩序がある。不安なく今日を生きられる。弱い人間が生み出した、知恵という未来への投資なんだ」


「うん、それは理解しているよ。合理的だと思う。でね。最初の話に戻るけど、そんな人間が一番輝ける瞬間って、いつかな?」


 ――人が最も輝く瞬間。

 

 この世に生を受けた時。

 未来に無限の可能性を感じた時。

 この人のためなら死ねると本気で思える、尊い誰かと出会った時。

 子どもを授かった時。

 その子どもが立派に育ち、感謝の言葉と共に巣立っていく時。

 大切な誰かに囲まれ、手を握られながら逝く時。


 どれも、優劣なんてない。


「一番輝く瞬間は、無数にある。数え切れないほどの一瞬が、人生を豊かにするのさ」


「さすが、人間にしては長く生きてそうなだけあるね。面白い答えだよ。ちなみに、君の数十倍は生きてる僕が出した答えは、違う」


「……興味があるな。聞かせてよ」


「――一番、強い時さ」


 魔王は指を立てて、まるで内緒話をするように声をひそめた。


 その答えにピンと来なかったギルドマスターは首を捻る。


「何を持って強いとするのかが、ボクにはわからないんだけど」


「まぁ、なんでもいいんだけど……一番わかりやすいのは、やっぱり力だよ。人生で一番、戦闘能力が高い時。それが同時に、最も幸せな瞬間でもある」


「多分人類で一番強い子を知ってるけど……どうかな。少なくとも不幸せではないと思うけど、苦労してるよ、彼」


「そうだね。人間は苦労をする。悩む。それはなんでだろうね? ――成長ってやつを、するからだろうね」


 魔王は初めて、楽しげに笑った。

 人間として見ればなんの違和感もない感情なのに、それがモンスターであると理解すればこそ、気持ちが悪いほどに不自然な動作である。


 しかしそれをあえては表に出さず、次の言葉を待つ。


「僕たち魔物は、最初から完全たる個なんだ。生まれた瞬間、僕は僕だった。でも人間は違う。生まれた瞬間はどこまでも弱く、脆い。なのに、いつの間にか何十倍にも膨れ上がってる」


「……成長しないとは、不憫だね」


「そうかな? 成長とはつまり、老化だよ。老いるんだ。弱かった者は強く、そしていずれまた弱くなる。だから怯えるんだ。恐れるんだ。生物として、不完全すぎやしないかな?」


「でも、そのおかげで信じられるよ。未来と、可能性を」


「そう! そこなんだよ! 人間は、自分の限界を決めないんだ。――だから面白い。不完全とは、可能性だ」


 その口ぶりに、ギルドマスターは途方もない違和感を覚える。


 つまり、魔王は何を求めているのか。

 人間に何を求め、何を欲しがるのか。


 これでは聞いてる限り、彼は――、


「――好いているのかな、人間を」


「もちろん! 成長とは、僕にとっては奇跡なんだ。理解はできても、この身に降り注ぐことはない。焦がれても届かないものを、君たちは持ってる!」


「なのに、殺す?」


「これは侵略じゃない。多くの魔物にとっては報復でも、僕にとっては違う。見たいんだ。知りたいんだ。人間の限界を。そして、感じたいんだ! 人間の限界を叩き潰して、僕こそが絶対なる個だと!」


 ――この瞬間、ギルドマスターは理解した。


 やはり、魔物――モンスターと人間は、どこまでいっても分かり合えないのだと。

 そして、何がなんでもここで倒しておかなければ、人類の歴史は終焉を迎えるという疑いようのない事実も。


「人間の成長は、君たちの想像にも及ばないよ」


「あのね、僕は人間を侮らないよ。だって、一度負けてるんだもん」


「――――」


「それにね、僕が負けても別にいいんだ。むしろ、僕を打ち倒した最強の人間は、例えば50年後に僕くらい強い魔物が再び現れたら、勝てるのかな。勝てないよねぇ? だって成長――老化するんだもん。つまり、魔物の絶対性は証明される! ……勝ってほしいとは、思うけどね」


 魔王は大袈裟な身振り手振りで主張してから、最後だけ声の調子を落としてみせた。


 その様子を黙って見ていたギルドマスターは、ここらが潮時だと判断し、右手に魔力を集め始める――と、魔王はそれを静止するように手をかざし、再び口を開く。


「大事な話が終わってないんだ。それでさ、人が最も輝くために――最も成長する瞬間は、いつだろうね?」


「最も、成長する瞬間……?」


「うん。肝心のその手段さ。ほっといてもみんな成長するのなら、それは僕たちと変わらないでしょ。個体差があるんだよ、人間には。だから、必ず効率的な手段が存在する」


「効率的に、成長する方法……」


 大真面目に考えて、すぐにそれを振り切る。


 それを教えてどうする。

 利用されて、人類を陥れるだけではないか。


 第一、効率的に成長する方法が理論化されているなら、それこそ人類は等しくそのステージをひとつ上げている。

 そんなものは人それぞれで、答えがないからこそ悩むというのに。


 そうなのに――魔王には、どうにも明確な答えがあるように見えた。


「わからないなら、教えてあげるよ。最も効率的で、確実に人を成長させる方法を」


「本当にそんなものがあるなら、君は人間の英雄になれるよ」

 

「ふふ、悪くない。悪くないけど……意味のない勲章になっちゃうかな、すぐに。あのね――」


 ここが、運命の分かれ道だ。

 いや、運命なんてものは、とうに決まっていたのかもしれない。


 どちらにせよ、もう話は終わりにしなくてはならない。

 ギルドマスターは今度こそ、右手に魔力を込めた。


「あのね、人間を強くするために必要なものは――絶望、だよ。ヒスイ君をドン底まで絶望させるために、ひとまずはこの街を壊すことにするよ、ごめんね」


「――【萌ユル焔】」


「――【雷羅】」


 命を喰らい尽くす炎が立ち上ると同時に、視界を眩い閃光が覆った。

 咄嗟に、ギルドマスターは魔法のコントロールを諦め、その雷を躱すことのみに魔力を行使する。

 瞬間、彼は自らが力任せに放った魔力の濁流に押され、宙を舞う。


 間一髪、隙間を縫って通り過ぎたそれは、炎すらも飲み込んで、背後の家屋を一瞬で蒸発させた。


「炎よりも熱そうなのは、反則じゃないかな……」


「――へぇ、浮遊スキルかぁ。面白いね」


 空にふわふわと浮かぶギルドマスターを見て、魔王は興味深そうに顎に手を当てた。


「ぶっちゃけ奥の手だから、こんな早々に見せるつもりはなかったんだけどな……」


「そういうのは、出し惜しみして死ぬ方がバカみたいじゃない? 賢明な判断だと思うよ」


「ま、そうだろうね」


 場違いな会話を交わしながら、ギルドマスターはその視界から魔王を離さない。


 その背中に漆黒の翼がはためいたことを確認すると、主戦場が空になることを察知した。

 まぁ、都合がいい。

 これ以上、愛しいこの街を破壊されたくないのだから。


 いや、都合がいいというのも、魔王が彼のことのみを見てくれている間に限るわけだが。


 そう、結局のところ――、


「ボクが勝たなきゃ、この街が滅ぶってワケね。まったく、荷が重いなぁ……」


「人間、やると決めたら案外なんとかなるもん――らしいよ。君の成長も見てみたいな」


 ギルドマスターともあろう者に対して、舐めた口を聞いてくれるものだ。


 言われなくても、なんとかしてやる気概でここに立っているに決まってる。

 覚悟を決めた老人の、後先を考えない恐ろしさを見せてやる。


 ――セドニーシティ史上最凶の戦いが、始まる。


「――ボクはもう、成長期なんてとっくに終わったの。これから見せるのは、ジジイの悪あがきさ」

 

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