『――生きなさい』


 目の前で飛び散る生ぬるい液体が、私が貫いたモンスターの体液だと認めるには少しばかり時間が必要だった。

 

 今なにが起きたのか、咄嗟のことで理解が追いつかない。

 しかし、いつまでもやってこない死の運命と、目の前に転がる腹に風穴を開けたモンスターの死体。

 身体の底からくる疲労感に、確かな手応え。

 僅かな高揚感と、いつの間にか吹き飛んだ頭痛。


 思考が回れば回るほど、この場景を引き起こしたのが自分自身であると結論づける他ない。


「魔、法……私が、魔法を……」


 魔法を扱える、というのは特段珍しいことではない。

 得手不得手や質の差はあれど、たとえどんな才のないものであっても、死ぬまでに魔法のひとつやふたつくらいは扱えるようになるものだ。


 例外があるとすれば、魔力に異常をきたして産まれてきた者、あるいは後天的に魔力の流れを阻害された者なんかはその限りではないと聞くが――私がそのどちらかである可能性も、ゼロではない。


 なんせ記憶がないのだから、過去にどんなことをされてようがわかりようがないのだ。


 だからって、魔法が使えないと決まったわけではないし――、


「今のは、今の魔法は……」


 何度も何度も同じ魔法を使ったことがある。

 きっと数え切れないほど、この魔法に助けられてきた。

 なぜだか、自然とそう思えるものだった。


「――私は、いったい」


 ――何者だったのか。

 捨てたはずの未練を、疑念を、動かぬ現実として突きつけられ、向き合わされる。


 そもそも、失った記憶の断片は、自分の中にある。

 あるのだ。手っ取り早く過去の自分を知る方法が。


 ステータス。この世界の、力の根幹を数値化したもの。

 これを見れば、きっと自分の本当の名前や扱える魔法がわかる。

 だけど私は――それを見たことがない。


 マスターに暖かく迎えてもらい、新しい名前を授かった時から、私にとってその『過去』は他人となった。

 だから、他人であるはずの自分と向き合うのが――怖いのだ。


「――帰ら、なくちゃ」


 ――と、そんな思案は後回しにしなければならないことに気付く。

 どれくらい頭を巡らせていただろうか。

 辺りは完全な闇に包まれているし、相も変わらず道はわからない。

 だけど、早く帰らなくちゃ。

 帰って、野草を届けて、暖かい布団に包まれ、明日を迎えるのだ。


 いつの間にかその場にへたりこんでいたらしい私は、ぐっと足に力を込め、まだ震えの止まらない自分に少しだけ苛立って――、


「――あっ」


 上手く力が入らずに、膝をつく。

 あれ、おかしいな、と思い、もう一度同じように力を込める。


「――っ」


 また、膝をつく。

 何度やっても、どんなに焦っても、私の足は地面から離れてくれなかった。


 ひょっとして、これが魔力の枯渇というものだろうか。

 魔法とは、自分の内に漲る力を源とする術ときく。

 それが限界を迎えれば、しばらくは歩くことすら困難になるとも。


 だからって、まさかたった一発の魔法で、立つことすらできなくなるとは思わなかった。

 早く帰らなければ、命すら危ないのだ。

 たとえモンスターに襲われなくとも、冷え込む夜をこの木々の中で越えられるとは限らない。


 ――魔法に救われた命は、魔法のせいで危機に晒された。

 そんな嘆きを置き去りに、容赦なく夜の帳は下りてくる。


「……もう、ダメなのかしらね」


 ふっと、諦念が心を蝕む。

 一度はなにくそと拾い上げた命。

 まだ生きていたいと、心の底から叫んで掬いあげた奇跡。

 その気持ちが、消えたわけではない。


 そりゃ、生きていたいし、死にたくないし、やりたいことだってあるし、知りたいことだってある。

 

 でも、少しだけ頭を冷やして気付く。

 ――二度目の奇跡は、ないのだと。


 必死に堪えていた上半身の力を抜くと、あまりにも簡単に糸は切れ、視界はてっぺんが見えないほど高い木々の群れに埋めつくされる。

 ひんやりと冷たい土の感触を背中いっぱいに感じ、私は目を閉じた。



 何時間が経っただろうか。

 ざわざわと不安を煽る森の鳴き声も聞き慣れてきた頃。

 いつまでも変わらないはずの森の様子に異変を感じ、私はゆっくりと目を開けた。


 そこにはさっきまでと同じ景色があるはずだったけど、もはやそう思えないほどに闇は深く、光のないこの場所ではまるで何も見ることができなかった。


 だから、だろうか。森の異変にいち早く気付けたのは。


「……声」


 微かに耳に飛び込んできたのは、そう表わせる微細な空気の振動だった。

 ただし、それは人のものではない。

「グゥ」とも「ウゥ」ともつかないような低い呻き声が、木々の隙間を縫ってここまで届いている。


「……モンスター、ね」


 結論なんて、すぐに出た。

 この森の中で人以外の声があるとすれば、モンスターか野生動物くらいのものだ。

 ついさっきあんな状況に直面した身からすれば、希望的観測なんてできるわけもない。


 とうとう観念した私は、その時がくるのを待ち、再び目を――、


「――――」


 閉じようとした時、もうひとつの異変に気付く。


 ――達人は、空気を伝う魔力やほんの小さな息づかいで他者の気配を察知するという。


 もちろん、私にそんな能力はない。

 ないのだけれど、気付いた。

 闇に紛れてじっとこちらを見つめる、背筋が凍るような視線に。


「――っ」


 息を呑む。汗が伝う。

 本能で、目を合わせてはいけないと悟る。

 これは、決して触れてはならない存在だと、悟る。


 目を閉じることさえできないまま、私はそれが過ぎ去るのを待つ。

 でも、それは私に視線を合わせたまま、動く気配はなかった。


 暑いわけではないのに、身体中びっしょりと汗をかいている。

 気を抜けば、視線だけで意識を刈り取られそうになる。


 早く、去ってほしい。

 私の心臓が止まる前に、早く、早く。


 気がつけば、私は諦めたはずの命を渇望している。

 握りつぶされるほどの圧迫感から、一秒でも早く解放されたいと切望している。

 あるいは、いっそこのまま心臓が止まってしまった方が楽なのではないか――とすら考えていたことに、自分で気付く余裕すらない。


 とにかく、このままだと限界を迎えて失神してしまう。

 だから、やめておけばいいのに、私は視線を動かしてしまった。


 ――『それ』と、視線が交差してしまった。


「――え」


 黒い、影だった。

 人を黒く塗りつぶしたような、深淵の闇だった。

 ぽっかりと穴の空いた目だけが、静かにこちらを向いて、意思を象っている。


 そして『影』は、私と目が合ったことに気づくと、ゆっくりとこちらに近づいてきた。


 ゆっくり、ゆっくり。

 人のように二本足で、だけど人にしては不自然すぎる歩き方で。

 正常であれば――いや、正常でない今でさえ、すぐにでも逃げ出すべきだと心は叫んでいる。

 でも、身体が動かないから、黙って見続けるしかなかった。


 やがて目の前まで辿り着くと、ねっとりと私に覆い被さるように『影』に瞳を覗き込まれる。

 咄嗟に、逃げるように視線をガタガタと泳がせるが、これもまた悪手だった。


 ――知らないうちに、音もなく近寄ってきた何体もの『影』に囲まれていることに気づいてしまったのだから。


「――――」


 圧倒的な死の臭いにあてられ、汗も、涙も、鼻水も、ひょっとしたら別のものも漏れ出してしまっていたかもしれない。

 己の意思に反して身体はガタガタと震えだし、息は苦しくなる。でも、どうすることもできない。


 払い除けることも、声を出すことも、そればかりか目を閉じることさえ、この寂滅の気配の中では敵わないのだ。


「ンニねゆ」


「……なん、なの」


 声だった。

 おぞましい、逆撫でるような気持ちの悪い音でしかないが、それは声だった。


 発声器官があるようには見えないし、人間のそれとはかけ離れているが、声を発した。

 それに釣られ、私もやっとの思いで声を出す。


「抽、えニ虚」


「……意味、わかん、ない」


 高いのか低いのかさえわからない声を、わざわざ耳元で響かせられた私に浮かんできた感情は、意外にも怒りだった。

 もしかすると、恐怖のあまり少しおかしくなっていたのかもしれない。

 だけど結果として、一抹の勇気を振り絞るきっかけにはなった。


「禰禰さ禰、ワ。れ」


「意味わかんないって言ってるでしょ! 『アクアニー――あっ」


 勢いに任せて手をかざし、今一度奇跡に賭けるも、小さな魔力は魔法のかたちになる前に弾けて消えた。

 なんとか持ち上がった右腕は、その瞬間に鉛のように重いだけの塊となり、重力に任せて地面に落ちる。


 元より、枯渇していた魔力。

 激情に任せて魔法を唱えたところで発動するはずもなく、そればかりか今ので完全に私の魔力は尽きたらしい。

 もう、指一本動かす体力すら残っていない。

 

『――貴方の名前はアリス。今日から私たちの家族よ』


 ついに万策尽きた時、頭を駆け巡る。


『――なら、人と話をしなさい。人に興味を持ちなさい。そして、人に優しくしなさい。それさえできれば、立派な人なのだから』


 あぁ、これが走馬灯というやつだろうか。

 私はなれていただろうか、『立派な人』に。

 いや、きっとまだまだだった、けど。


 少しだけ、人を知った。もっと知りたいとも思った。

 生きるために、足掻いた。

 届きはしなかったけど、本気になった。


 うん、悪くない。

 最高の結末ではないけど、最大限ではある。


『――だから、生きなさい。辛いこともある。苦しいこともある。でも、生きなさい』


 生きた。

 頑張った。


 マスターは――私の父は、いつも私の道標になってくれた。

 そんな彼の言葉を頼りに、頑張ったのだ。


 自分で言うのもなんだが、私ほど聞き分けのいい娘もいないんじゃないだろうか。

 ちょっとくらい、褒めてくれてもいいと思う。


『――そして、私たちよりも後に死になさい。それが、家族というものだ』


 そして最後に、彼が一番大事な事だと前置きして話し始めたことを思い出す。


『――人の幸せを祝福しなさい。人に幸せを運びなさい。――人に幸せを与えられなさい』


 ――あれ。

 まずいな、これ、守れない。

 一番大事な事を、守れない。

 これじゃ、褒めてもらえない。


 これじゃ、



「――まだ、死ねないじゃない!」



『――スキル覚醒に必要な熱情を達成しました』

『スキル【願い人】が、スキル【命焦がす想望】に進化します』


 死ねない理由ができてしまった。

 だから、もうしばらく死んであげない。

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