『まだ、生きていたい』
言い知れぬ違和感に苛まれながら、冒険の準備があるらしい彼と別れ、私はぼーっと歩いてなんとなく家路についていた。
私だって、別に人の気持ちが理解できないわけではない。
むしろ、散々勉強してきた分、自分の心さえもある程度理解していたつもりだったのだが。
そんな自負が軽く吹き飛んでしまうくらい、今日の私は理解し難い言動をとっていた。
「お客様、ヒスイさん、ヒスイくん、ヒスイ――」
ヒスイ。
私たちの関係値ではそう呼ぶこともはばかられたが、何故だかこれが一番しっくりきてしまうことも、私を苛む違和感のひとつだ。
ただまぁ、あの人は親しみやすい性格をしているし、きっと誰に対してもそうなのだろう。
察するに、これまで接してきた同年代の異性の中には、あのような人となりの方はいなかったので、それで少し距離感を見誤ってしまったのかもしれない。
記憶がない以上、どうしたって私は他人より遅れをとっているわけで、常々反省の連続である。
今日も例に漏れず、それだったのだと思う。
そんなことを考えながら歩き、ちょうどカフェの目の前までたどり着いたところで、もうひとつの違和感に気付く。
見知ったお店の、見知った仲間たちがザワついていたのだ。
「しかし……」
「明日は臨時休業にするしか……」
そんな会話が耳に入ったので、様子を伺ってみる。
「どうされたんですか?」
「あ、アリスさん。マスターが持病の発作を起こしてしまいまして。幸い命に別状はなく、容態も安定しているので、今は中で休んでもらってるんですが……」
「うちで扱ってる野草は目の利くマスターが直々に採りにいってるじゃないですか。さすがに今日は安静にしてもらわなきゃなので、明日は臨時休業にするしかなさそうです」
ということらしい。
それならば、やはり明日はお休みにするしかない。
私にとってこのお店は自分のことよりも大事だし、お店に来てくれるお客様は何よりも尊い。
だけど、それ以上にマスターのことが大事だ。
マスターが無理をするくらいなら、一日くらいお休みしたって――。
「いや、休業にはしない」
「――マスター! まだ中でお休みになった方が……」
「大丈夫だ、私は今から野草を採りにいってくるから、そのあいだ店を……っ、ゴホッ」
「マスター! やはりまだ無茶はさせられません! 早く横になってください!」
「……この店を待ってくれるお客様がいるんだ。愛してくれているお客様が。穴は開けられ……っ、ゴホッ」
額に汗を滲ませ、顔色は青い。
どう見ても、街の外に出かけられる容態には見えない。
そして、そんなことはマスター自身もわかっているはずだ。
それでもマスターは、何よりもお店を大事にしてて。
自分の体よりも、来てくれるお客様のことを優先して。
私は、甘かった。
マスターにとってこのお店は、何よりもかけがえのないものだというのに。
「わかりました」
マスターに連れられて、外に出たことなんて何度もある。
ひとつひとつ丁寧に説明された全てを、私は覚えている。
私なら、それができる。
「私が行きます」
――マスターの代わりに、野草を採りにいくことが。
私は周囲の静止を振り切って、準備をするため家に走り出した。
■
街の中は結界で守られているので、モンスターが侵入することはない。
それが常識だったのに、例外と呼べる大厄災が先日起こってしまったけど……ともかく、対して街の外は危険だということ。
とはいえ、街の門前には衛兵もいるし、戦える人も多いため、周辺にモンスターが寄り付くことはほぼない。
そこから少し離れた先、いつもマスターが野草を採りにいっている場所も、モンスター出現例は聞いたことがない。
つまり、比較的安全だということだ。
そうは言っても何事にも例外があることはセドニーシティが証明してしまっているし、ただでさえ最近はモンスターの動きがおかしいという。
万全の準備と注意を払って動かなければならないだろう。
街の外に出る時は、護衛に冒険者を雇う人も多い。
あるいは、野草の採取を冒険者に代行してもらう人も。
マスターは前者だった。
残念ながら、私に冒険者を雇うお金はない。
せめてと、振れもしない短剣を腰に下げて、私は街を出た。
そして今、私は広い草原にいる。
いつもマスターが野草を採取している場所で、街からは歩いて20分くらいの地点だ。
文字通り決死の覚悟で飛び出したものの、運良くと言うべきか、当然と言うべきか――モンスターは、出なかった。
「――これくらいで、足りるかな」
ポーチいっぱいに詰め込んだ、何種類もの野草。
これだけあれば、少なくとも明日の分は間に合うはずだ。
私はマスターほど目は利かないので、この量を集めるのにも中々の苦労だった。
下手したら、食べられない野草が混ざっているなんてことは――まぁ、ないだろう。
野草の採取は、何度も何度も隣で見てきたことだ。
マスターほどではないにしろ、あのお店の中では私がマスターに次いで野草に詳しい。
もう入らないくらいに野草を詰め込んだポーチを見て、私は一息をつく。
お店のために、マスターのために役に立てるなら、頑張る甲斐があるってものだ。
さて、そろそろ帰らないと、陽も沈む。
今でこそモンスターの影もないが、夜になると周辺を彷徨きはじめても不思議じゃない。
早めに戻らないと、いかに街の周辺と言っても危険――なのだが、
「――どっちからきたっけ」
■
最初は、そんなに不安なんてなかった。
そればかりか、迷ったなんて自覚もなかった。
ただ、来た道を辿ればいいだけ。足跡だってあるはずだし、そう簡単に来た方角を忘れるなんてヘマも、するはずがないと思っていた。
セドニーシティは大きな街だし、見失うわけがないと思い込んでいた。
――草原は、四方を森に囲まれている。
背の高い木々が、そう遠くないはずの街を隠し、抜けてきたはずの森がどの方角か分からなくさせていた。
だからって、焦ってはいけない。
闇雲に動くわけにもいかない。
確実に来た道を辿り、街に戻らなくてはならない。
「向こうの森より、こっちの森の方が距離が近い」
森を抜けてから、あまり歩いてはいないはずだ。
なら、一番近い森を最短で抜ければ、街に戻れるはず。
そう考え、私は森へ踏み出した。
ざわざわ、ざわざわと、ぬるりと抜ける風が木々を揺らす。
私にはどうにもそれが森の威嚇に聞こえて、つい背筋に力が入る。
まだ日は沈んでいないはずなのに、木の群れがその光を隠し、森の中は気味の悪い薄暗さが続いていた。
「……大丈夫、きっとこっちから帰れる」
まっすぐ歩く。
森の中では特に方向感覚を失いやすいらしいから、歩いてきた道を確実に見失わないために、ゆっくりと――だけどなるべく早く、歩く。
歩く。
木々が揺れる。
歩く。
不安になる。
歩く。
足が止まりかける。
歩く。
進んでいる方角が合っているか、確認しようと振り向くと――、
「……階、段?」
古ぼけた瓦礫のような小さな階段が、地下へと続いていた。
人工物に見えるけど、こんな森の中に一体誰が、なんのために。
なんとなく気になって、この無機質さが森林よりも身近に感じて、私はその階段に歩き始め――、
『――さぁ、行こう』
「――――っ」
突如として、誰かの声が響く。
咄嗟に周りを見渡すも、そこには誰もいない。
この声が私の頭の中で直接鳴り響いているものだと気付くのに、さほど時間はいらなかった。
『――今回のダンジョンは危険だが、俺たちならやれる』
「――誰っ、なの……っ」
誰かの記憶が、感覚が、なだれ込んでくる。
そう、この声は、頼りになる声で、懐かしい声で――少し、心がざわざわする声だ。
しかし核心には至れず、頭痛のように鳴り響く声は止まってくれない。
『――は、後衛を。――と――は、前衛を担当してくれ』
知らない。『――』とは、誰だ。
こちらを覗きながら、知らない名前で呼ばれる記憶。
きっとこれは、私のものではない。
そして、『――』を聞き取れることも、なかった。
靄がかかったように、心が拒絶しているように、こじ開けてはならないものをこじ開けられているように――、
『よくきたな、――。俺のものにならないのなら――』
「…………ぁ」
ぷつりと、意識が途切れそうな感覚がした。
まずい、ここで気を失ってしまっては、森には深すぎる夜がやってくる。
そうなれば私は帰れないだろう。
本能が意識を遮断させようとしたって、私は理性でそれを拒否する。
ダメ。気を失っては、ダメ。ダメ。ダメ。
ダメ、ダメ、ダメ、ダメ、ダメ――、
「――――、ぁ」
朦朧とする意識の中で、階段の奥から私を見つめる影に気付く。
それは、人ではない。野生動物――にしては、大きすぎる。
ならば、残された可能性は?
決まってる。モンスターしかない。
「…………ぃや」
『――!』
できる限りの精神力を視界に集め、その姿をはっきりと視認する。
やはり、間違いなかった。あれは、モンスターだ。
「…………死にたくない」
『――死ぬな、――!』
死ぬのだ。ここで。
間抜けな話だ。
外には危険がそこかしこに転がってるなんて、誰だってわかることなのに。
「…………死にたくない」
『――撃て!』
マスターには、申し訳ないことをした。
結構、野草も持って帰れなさそうだし。
「…………死にたくない」
『――撃つんだ、――!』
でもまぁ、自業自得だ。
こんな私なんて、呆れられるだろうか。
呆れられれば、マスターも責任を感じなくて済むだろうか。
私には、マスターしかいない。
マスターに迷惑をかけて死ぬのは嫌だったけど、呆れてくれるだろうか。
「…………死にたくない」
モンスターは、私に狙いを定めたようだ。
狼のような、だけど狼にしては大きすぎるし、禍々しすぎる生物。
詳しくないけど、きっとこの恐怖が、モンスターである証明なのだろう。
あと数秒か、数十秒か。
このモンスターが狩りを始めた時、私は死ぬのだろう。
「…………死にたくない」
『――よかった』
本当は、生きたい。
『――生きてて』
もう少しだけ、生きていたい。
『――本当に、よかった』
この世界にはまだまだ知らないことが山ほどあるし、出会えていない人だってたくさんいる。
仲良くしたい人だって、もっと知りたい人だって、私にはいるのだ。
『――死ぬな』
「――死にたくない」
『――死ぬな!』
「――死にたくない!」
強く想った。
死にたくないと。まだ生きていたいと。
だから私は、ぷるぷると震える手で腰に手を伸ばし、振れもしない短剣を握り――、
「――――ぁ」
握れずに、落とした。
カランと地面を転がる短剣。
拾わなくては。拾って、戦って、勝って、生きて、帰るのだ。
――そんなことが、できるのだろうか。
――短剣を拾うよりも、きっとこの牙が私の首を噛み切る方が早いというのに。
「――死にたく、ない!」
『――撃てぇっ!』
『――【アクアニードル】!!」
「――グ、グオォォォ……」
――私の魂の叫びは、鋭い水槍のかたちとなって、モンスターを貫いた。
気付けば、頭痛はなくなっていた。
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