闇の中に浮かぶ光

森山智仁

闇の中に浮かぶ光

 それって実は少し変な表現だと思う。

 だって、闇の中にしか光は存在できない。当たり前過ぎる。

 真っ白な画用紙と白の絵の具だけ渡されて「光」を描けと言われたら私にはできない。

 闇も同じで、ひとしずくの光も無しに「闇」を描くのは難しい。

 私たち人間の目が世界を知覚できるのは光と闇があるからで、極端な話、この世のすべてが「闇の中に浮かぶ光」だ。

 新しくない。「リンゴの木になっているリンゴ」みたいなもので、新しい情報が何もない。人間は二足歩行なんですよ〜と言われて誰が驚くだろう。

 下手クソな芝居の説明台詞じゃあるまいし、人間は自分も相手もわかりきっていることをわざわざ言わない。「お父さん出張からいつ帰ってくるんだろうね」? 馬鹿かお前は。その「出張から」いる? 絶対言わないよね? クソが。そんな奇怪な台詞を自然に言えなくても役者は何も悪くないどころか言えてしまうほうがおかしい。脚本家が1000%悪い。

「闇の中に浮かぶ光」も、自明過ぎる。その「闇の中」いる? 「光」いる? 闇の中に浮かんでいるなら絶対に発光しているし発光を知覚できるならそれは絶対闇の中だ。


 そんな風に突き詰めて考えてしまうのは、私を絵の世界に誘ったものが「闇の中に浮かぶ光」としか言い表せなかったから。


 マツタニチハルの『船』。真夜中のコーヒーゼリーみたいな海に、発光する苔に覆われた漁船が浮かんでいる。その絵に私は、撃たれた。あの船に乗りたくてたまらなかった。

『船』に心底憧れていたから、私の描くものは自然と『船』に似た。

 マツタニチハルの作品は『船』に限らず、夜中に小さな豆電球を灯したようなものがほとんどだ。そういうスタイルで、彼女は世に出た。マツタニチハル風と言われれば誰でもピンと来る。

 その方向に、引っ張られた。

 同じものを描いても意味がない。わかっているのに、どうしても似た。

 教授に言われるまでもない。マツタニチハルはこの世に一人でいい。下位互換はいらない。

 そうとわかっていて、なぜ私の筆はキャンバスの大半を黒く塗ってしまうのか。

 憧れていたのに、呪いさえした。コーヒーゼリーの海に落ちて、すがりつけるものが発光する苔の船しかなくて、助かったけれど囚われた。どこへも行けない。無風の海原に揺蕩っている。


 だから、否定してみた。

 当たり前過ぎると。


 マツタニチハルの絵なんて無知な女の子に「きれ〜い」って言わせるだけのものであって何の深みもない。クリスマスのイルミネーションと同じ。夜中に光ってりゃロマンチックなんだろ。はいはい良かったねおめでとう。原宿でつまんない生涯を終えろ。

 もしかして模写でいいのでは? そう考えたこともある。マツタニチハル風の作品を自分なりに描いて、正直、それなりに満足していた。つまり二次創作が性に合っていて、一次創作をやるべき人間じゃないんじゃないかと、わりと本気で考えたし、そうと認めてプロの道を諦めてもそれなりに幸せだったんじゃないかと思う。

 でも、諦めきれなかった。私も『船』みたいな――だから『船』みたいじゃ駄目なんだけど――誰かにとっての『船』みたいな作品を描いてみたい。

 じゃあ、何を? 私は何を描く?

「描きたい」っていうだけの感情は作品になり得ない。むしろ邪魔だ。フグの毒腺みたいに、取り除かないと食えないものになる。みんな描きたいんだよ。自分だけ特別だと思うな。その感情にはオリジナリティのかけらもない。

 私には、何が描ける? 私にしか描けないものって何かある? 私は誰に、何を伝えたい?


 それで、闇一色。

 下位互換どころか、ただのパーツ。

 呪縛から抜け出そうともがくほどキツく食い込んでくる。

 そんな絵を、怖い顔で描いていた頃、彼に出会った。


 ◆ ◆ ◆


 彼とは舞台芸術学科の友達を通じて知り合った。

 正直つまんない舞台のあとの交流会的な飲み会で連絡先を交換して、悪口で意気投合した。今思うとたぶん彼はそこまで悪く思っていなくて、私に合わせてくれていたんだろう。でも話しやすかったのは事実で、きっとこの人と寝ることになるんだろうなと思って、その通りになった。

 陳腐なたとえでもよければ、牧場のような人だ。誰が見ても「いいお父さん」になりそうな感じ。「いい先生」にもなりそうだけど、最近の子供たちにはいじめられそうだから、やめておいたほうがいい。

 穏やかで、いつも落ち着いていた。彼の部屋は居心地が良くて、少年漫画がたくさんあった。結構面白かった。


 少し休んだ私には、工夫する余裕が生まれた。

 光を、走らせた。画面の端から端まで一筋の光を通した。言いたいことは、イルミネーションの否定。

 何かの否定は一生の武器にはならない。でも、少なくとも虚無よりは威力がある。

 認めてもらえた。作品が選考に通って、バルセロナに一年間、留学できることになった。

 しかも、留学までの準備期間、学校が用意してくれた部屋で研修が受けられる。大文字川のほとりに建つ合宿所。個室の窓からは、マツタニチハルの初の野外アート作品『汽車』が見える。

 写真でだけど、川面に映る光の粒を見て、私はやっぱりマツタニチハルがどうしようもなく好きなんだなと思わざるを得なかった。この事実からは逃れられない。留学よりもあの部屋に一時住めることが楽しみで幸せでたまらなくなっている。


「おめでとう」

「……」

「一年か。長いね」

「……」

「待ってるから」

「ごめん。別れよう」

「……」

 なんで? って言ってこないのはなんで?

 いつもと変わらない。絶対に彼は言い返さない。私はそれに甘えていた。

 悪いけど、一時の雨宿りだった。あるいは小さな陽だまり。あたたかいけれど、永遠にここにはいられない。この人と寝るだろうなと思うのとほとんど同時に、一生この人と一緒にいるわけじゃないだろうなとも思っていた。

 彼を待たせたまま、バルセロナには――あの部屋には行けない。

 立ち寄っただけ。

 ストレートに言えばそういう話を、言葉を選んでやんわりと伝え、私たちは最後のデートに出かけた。


 大地を切り裂くような大文字川とは真逆、実里川の穏やかな流れ。秋の日差しが注ぐ遊歩道を、ビールを飲みながら歩いた。

 言葉少なで、私は彼のことが嫌いになったわけじゃなくて、少し悲しかった。でも、もう決めている。

 どこまでも歩いた。

 川上に向かって、どこまでも、ゆっくりと。

「どこまで行くの?」

「うん、もうちょっと」

 珍しく、彼が意思表示をした。

 最後だし、悪いのは私なんだから、付き合うことにした。

 知らない町。

 知らない駅。

 知らないコンビニでビールを買い足す。

 遊歩道が終わって、県道沿いの無機質な歩道。

 足が痛くなってきた。

 そろそろ日が暮れる。

「ねえ、どうするの?」

「帰りたい?」

「うん」

「……」

「もう帰ろう」

「じゃあ、帰ろうか。僕の部屋に」

「……」

「君は」

「……」

「僕の部屋に帰りたがったほうがいい」

「……」

「待ってるよ。日本に帰ってから決めてくれればいいけど、とにかく僕は待ってる。あの部屋で」


 彼の部屋はそう、「光の中の光」だ。のどかな下町の二階で、西日が強過ぎて夏は汗だくになる。

 絵描き同士なのに、私は彼の描いている絵がよくわかっていない。いや、好きじゃないんだ。やっとわかった。今、電撃的に理解した。

 油絵なんてどれもわかりにくいものだけれど、彼の場合、突き詰めて考えていない。少なくともその形跡が感じられない。眉一つ動かさずにふわりと描いて本人は満足げにしている。自分だけが見る絵日記ならそれでいいだろう。でも世に出たいなら違う。油画科の他の人の作品や、ましてやプロの絵には、明確な意志がある。絵から風が吹いている。彼の絵は、止まっている。淀んでいる。「わかんないよね?」と言ってヘラヘラ笑っている――プロが個展で子供相手に言うみたいに。お前はまだプロじゃないしたぶん一生なれない。アスファルトに咲いたタンポポの写真を一枚スマホで無造作に撮ってツイッターに上げてバズろうとしてる。そんな感じ。それでバズる人もいるんだろうけど宝くじを一枚買うだけのことは猿でもできる。


 気持ち悪いんだよ、お前の絵。


 そんなことは、とても言えなかった。

 私は、

「ごめんね」

 とだけ言って、知らない駅への道を歩き出した。


 それとも、彼は言ってほしかっただろうか。


 ◆ ◆ ◆


 合宿所の窓から、私は『汽車』を眺めている。

 マツタニチハルだって一つのところに立ち止まってはいない。そんな当たり前のことに今さら気づく。振りほどくだけじゃ駄目なんだ。追い抜く気でいないと、だらだらと轍を踏むことになる。

 でも、慌てちゃいけない。何もないところからはどうせ何も生まれない。今は落ち着いて、増やす。自分を。資産を。


 やっぱり、言うべきだったのかな。

 今でも考えている。

 私たちは最後まで喧嘩をしなかった。セックスと違ってしなきゃいけないものでもないし、むしろしないに越したことはないと思っていた。

 でも、作品の話は、意図的に避けていた。

 本気で話せば、彼のことがもっとよくわかったかもしれない。無造作なタンポポの写真だなんて私の決めつけで、彼はただ顔や作品にわかりやすい形で出していないだけでたくさんのことを考えていたのかもしれない。だとしてもつまらないと私は感じたのだから、それをきちんと伝えれば、お互いに何か得るものがあったかもしれない。

 電話してみようかなと、スマホを手に取る。

 ロックを解除する。

 そして、置く。

 私は恐れている。穏やかな「どうしたの?」が返ってこないことを。「今さら何?」と冷たく言われることを。だいいち出てくれるとも限らない。

 客観的に見て寒気がする。相変わらず、なんて身勝手なんだろう。一方的に別れると決めて、いきなり電話してきて作品のダメ出しなんて、頭がおかしいんじゃないだろうか。


 川の向こうでは、『汽車』が走っている。ふわふわと浮かんではいない。あの汽車は間違いなく地面を走っていて、私はまだ闇の中にいる。


(了)

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闇の中に浮かぶ光 森山智仁 @moriyama-tomohito

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