第26話 呼び名は大事

食事中に気分が悪くなり、自分の部屋にこもってしまった国貞くにさだ淑子としこを心配して、というか彼女のどSな母親にあおられて、彼女を部屋まで見舞いに行った僕だったが……。


ベッドにパジャマ姿で横たわったまま、国貞は力なくこう言った。


顔は見せず、反対側を向いている。


「わたし、自分がとても情けないわ。


これまで、相賀あいがくんへの気持ち、誰にも悟られていないと思っていたのに、母には最初からお見通しだったなんて……。


あんなにはっきりと母に暴露されてしまったらわたし、もうあなたと顔を合わせられないわ……」


僕はそれを聞いて、ようやく国貞の気持ちを理解した。


そして、彼女の言動の背景を推察した。


国貞はこの4月に僕と同じクラスになって間もない頃から、ずっと僕に片想いをしていた。


それも、とてつもなく熱烈な片想いを。


一昨日、国貞はついに僕と親しくなるきっかけを得ることが出来た。


これから少しずつ、僕に自分のことを好きになっていってもらえる、そう彼女は考えた。


そして自分の方からではなく、あくまでも僕の方から告白してもらおうと考えていた。


彼女から一方的に告白しても、それは失敗に終わる可能性が少なくないからだ。


僕のことを取り合う、屋敷やしき美禰子みねこというライバルさえ出現してしまった以上、屋敷に負ける事態もありうる。


ところが、あろうことか母親に、そういったステップを踏むより前に自分の気持ちをばらされてしまった。


自分自身で言うのならまだしも、先に母親に自分の気持ちを暴露されてしまい、これですべておしまいだという絶望感に打ちひしがれている国貞なのだった。


こういうときは、彼女の心の傷には直接触れないような気遣いが必要だろうな、どう考えても。


間違っても勝ち誇ったような口調で「そうか、きみって僕のこと前から好きだったんだ、ふーん」などと言ってはいけない。


下手すると、恥ずかしさのあまり国貞が自殺しかねない。


ここは少々鈍感なオトコを装うぐらいでいいはず。


僕はベッドに歩みよると、国貞のかたわらに腰をおろした。


「国貞さん、お母さまはとても勇ましいかただね。


積極的で、何事も受け身でなく自分の力で欲しいものをつかみ取ろうとなさっている。


待っていては幸せはやって来ないという考え方、それはそれで間違っていないと思うよ。


でも、別にそういう攻撃的なやり方でなくても、幸せを手に入れることは出来るんじゃないかと思うんだよ、僕は」


「そう、かしら……」


それまで反対側を向いて横たわっていた国貞が、こちらを向くようにゆっくりと身体を動かして、そう言った。


泣いていたせいだろう、少し顔が腫れている。


「ああ、そうだよ。


男と女の付き合いかたも、カップルの数だけあっていいんじゃないかな。


ふつう男女交際と言えば、男性が女性に付き合ってくださいと交際を申し込み、女性がそれを承諾して初めて始まる、みたいなパターンが多い。


でもそれが唯一絶対のコースではないと、僕は思うんだ。


告白とか交際申し込みとかの儀式、手続きを経なくても、カップルになることは可能だと思う。


毎日のように顔を合わせて話をする仲ならば、すでに付き合いは始まっていると言っていい。


名より実、形式より実態のほうが大事なんだと思うよ。


とはいえ人って、何かかたちになっていないと不安になる生き物だから、言質げんちを取ったり、一筆いっぴつ書かせたり、あるいは指輪みたいな品物をもらったりすることでその不安を解消しようとする。


けれど、それはしょせん気休めに過ぎないと思うんだ。


約束をしてもそれを平気で破る人はいくらでもいるし、文書や品物にしたところで同様で、契約や婚約も破棄する人はするものだ。


大切なのは、当人同士の信頼関係がどれだけ築かれているか、強固なものになっているかなんだ。


それに比べれば告白の有り無しとか、どちらが告白したかなんて、些末さまつな問題だと思うよ」


そこで僕はひと息おいてから、こう続けた。


「だから、僕たちはもう始まっている」


それを聞くと、とたんに国貞は顔を真っ赤にした。


「は、始まっているって……」


「うん」


僕は少し身をかがめるようにして手を伸ばし、国貞の手を取った。


「これから、もっときみのことを知りたい。


でも、いきなり軽はずみなことをして、きみのことを傷つけるような真似はしたくない。


だから、いまはこれだけ」


僕は国貞の白く華奢な手を握りしめた。


「そうね、わたしたち、まだ親しくなったばかり。


節度を持ったお付き合いをしなくちゃね」


国貞は微かな笑みを浮かべて、僕の手を握り返してきた。


そして、何かを思いついたように表情を引きしめてこう言った。


「でも、こんなこと言うと形式にこだわるみたいで相賀くんに笑われそうだけど、ひとつだけ聞いてほしいお願いがあるの」


「お願いって……何、かな?」


「相賀くんはわたしのこと、国貞さんと呼ぶけれど、それじゃ、正直言ってもの足りないの。


ほかのクラスメートたちと同じ扱いじゃない、そういうしるしがほしいわ。


もちろん、ほかの人、例えば屋敷やしきさんがいる時はこれまで通りでいいし、相賀くんの望む呼びかたでかまわないから」


それを聞いて、やっぱりそう来たかと僕は思った。


いくら国貞と屋敷が情報共有の淑女協定を結んでいるとはいえ、昨日屋敷の家で彼女と約束した新しい呼び名の件まで、国貞が把握しているとはとても思えなかった。


僕からもそのことを言わないよう、屋敷に釘を刺しておいたしな。


ここはやはり、ふたりとも僕とより親密になったあかしとして、新たな呼び名を欲しがったと見るべきなんだろうな。


女性はつくづくそういう「かたち」になったものを結局欲しがる生き物なんだな、僕はそう思ったのだった。


たかが呼び名。されど呼び名。


カップルにおいて相手をどのように呼ぶのかは、思っていた以上に大事な問題なのかもしれないな。


「分かった。じゃあ、ふたりきりの時に限らせてもらうけど、これからは新しい呼び方にするよ、淑子」


効果は覿面てきめんだった。


見る間に国貞は顔色を明るくして、歓びの感情に打ち震えるのだった。


「ありがとう、相賀くん。


いえ、これからはわたしもこう呼ばせてもらうわね、保志雄ほしお


なんと、国貞から想定外の答えまで返って来た。


保志雄かぁ…、なんとなくこそばゆい感じもする。


屋敷の「ホッシー」にはもう慣れっこになっていたが、友人の誰からもそう呼ばれたことのない「保志雄」には慣れるまでしばらくかかりそうだ。


いつまでもベッドに座ってパジャマ姿の国貞のそばにいたままというのもいささかリスキーだという気がしてきたので、僕はそこですっと立ち上がり、国貞の勉強机の椅子まで移動して、そこに座った。


「じゃあ淑子、この呼び名の件は分かっていると思うけど、屋敷さんにも内緒にしておいてほしい」


「もちろんよ。このことは屋敷さんへの定時報告からしっかり外すわ」


「つまり、ふたりだけの秘密ということだね」


「そうね、ふたりだけの秘密。フフッ」


僕たちは顔を合わせて、微笑んだのだった。


まぁ、そのふたりだけの秘密を、僕は屋敷との間でも作っているわけだから、とんだ二枚舌ダブルディーリングだわな。


でもさ、言い訳をさせてもらうと、そういうものじゃないの、世間って。


聞きかじりの知識だけど、キャバクラのおねーさんたちとか、2、30枚は舌を持っていないと商売にならないらしいし。


政治家にせよ、教育者にせよ、人の上に立つ者でさえ、その場その場でいろいろと舌を使い分けているんだから、僕だけを責められないよね。


それに国貞や屋敷自身にしても、僕がそういうことをライバルの子には絶対していないなんて、はなから信じていないんじゃないの?


むしろ、こうじゃないかな。僕がライバルの子にも同じことをしているからこそ、競争心も湧いてきて、相手以上のものを得ようとする。


そういう一種のインフレ・スパイラルが起きているような気がする。


「気分はだいぶん楽になったようだけど、どうなの、淑子」


「そうね。かなり回復したから、また茶の間に戻ってもいいけど、でも……」


国貞は口ごもった。


やはり、すぐには母親と顔を合わせたくないのだろう。


「そうだな、またお母さまと同じような話の繰り返しになっても、いいことはないしな」


「その通り。だからきょうは、このまま休むことにするわ」


「うん、そうした方がいい。僕も、そろそろおいとまするよ」


「分かった。きょうはいろいろありがとう、保志雄」


そう言って、国貞は口をつぐんでモジモジしている。


何を言い出しかねているんだろ。


「あの……ぉゎ……」


か細い声で言うものだから、よく聞こえない。


僕は椅子から立ち上がり、再びベッドの上の国貞に近づいた。


「なんだい?」


「お別れに、せめて……」


こう言うやいなや、国貞は身を起こし、僕に抱きついてきた。


「ハ、ハグだけなら、いいでしょ……」


僕の鼻腔を、女の子特有の甘い香りが刺激した。


そして、僕の胸部を圧する確かな量感も……。


5秒、いや10秒か。


それがとてつもなく長い時間のように思えたが、国貞はふと自分から身体を引いて、再び僕との距離をとった。


「じゃあ、これでさよならね。おやすみなさい」


国貞はそう言って、布団をかぶってしまったのだった。


僕は部屋の明かりを消し、「おやすみ、淑子」と声をかけて部屋を出た。


出る前に、ドアの外でなんとなくパタパタと人が逃げ去る物音がしたようだっだが、まぁ気のせいだろう。


僕は茶の間に戻り、国貞母、店番が終わって晩酌を始めていた国貞父、そして弟くんに丁重に挨拶をしてから、国貞家を後にした。


いましがたのハグの残り香のせいだろうか、フワフワとどこか現実離れした浮遊感を味わいつつ、長い家路を辿る僕なのだった。(続く)

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