第9話

 童謡をアレンジしたチャイムもすでに鳴り終わって、夜のとばりが下りはじめている住宅街。子どもはおろか、猫一匹すら姿が見当たらず、耳が痛くなるくらいの静寂が満たしている。それでも、特に会話することなくもなく、ただ歩調だけを揃えて歩いていると、家の姿がようやく見えてきた。

 食材でいっぱいになったレジ袋が両手を塞ぎ、カギを取り出すのに苦戦していると、スッと横から出てきた成田が扉を開けて、一足先に家に上がってこちらに振り返る。


「おかえり」


 スーパーで食の好みだとかを尋ねられて以来、俺に向けて開かれることのなかった口が開き、先ほど口にした言葉をかけてきた。

 まさか、今度は俺が言われるだなんて思ってもおらず、えっ? と間の抜けた声が出た。

 予想通りというかなんというか、返すべき言葉は頭の中からきれいさっぱり抜け落ちてしまった。


「……あー、その、なんだ、……ただいま」

「人のこと言えないじゃん」

「まあ、俺も言われ慣れてないからな」


 ふふっと笑う成田を横目に、キッチンの方へとレジ袋を運ぶ。このまま食材を仕舞うべきなのだろうが、普段ロクにキッチンを使わない俺には、どれをどこに仕舞えばいいのかなんて見当がつくはずもなかった。勝手を知らぬキッチンだからなおのことだ。


「いいよ、後は私がやっておくから」


 成田は俺の心の内を読んだかのようにそれだけ言って、レジ袋ごとキッチンの奥、冷蔵庫や地下収納のあたりへと足を進めていく。

 キッチンとリビングは扉やカーテンのように分かりやすい仕切りで区切られているという訳ではないのだが、一歩踏み込んだ先は違うテリトリーであるかのようで、近づくことが躊躇われる。

 誰かが料理をしているとき、自分はどうしていたっけか。

 そんなことを思いながらソファに腰を掛けて、読みかけの本を手に取る。

 文字列を追いかけていけば、間もなくクライマックス。いよいよというところなのだが、いまいち内容が頭に入らない。

 その原因であろうキッチンの方を見れば、明るい髪を結わえ、ピンク色のリボンが特徴的なエプロンを身にまとい、楽し気に鼻歌を歌いながら、慣れた手つきで食材を切っている成田の姿が視界に映る。教室内での振舞いからは想像が出来ない家庭的な姿。クラスの男子のうちどれほどが彼女のこういう姿にあこがれているのだろうか。

 読みかけの本のページがめくられることはなく、何度となく同じ行を眺めていることに気づいて、そのまま本を閉じる。


「ごめん、うるさかった?」

「いや、キリがいいところまで読みおわったから。風呂でも掃除してくる」

「じゃあ、お願い。なんか分かんないことあったら聞いてね」


 成田の言葉に軽く頷いてリビングを後にすれば、少し大きめのため息がこぼれた。



 リビングを後にして一時間ほどたっただろうか。

 風呂掃除を終えた後もリビングに戻る気は湧かず、自分の部屋で黙々と課題をこなしていた。


「悠斗君、そろそろご飯できるよ」

「分かった」


 ゆっくりと階段を下りてリビングへ足を踏み入れれば、食卓には昨日とはベクトルこそ違えど、色とりどりの料理が並べられ、今日もなにかあるのか、なんて考えてしまうほどだ。冷凍ご飯と割引総菜、インスタント味噌汁だった俺の生活がおかしかっただけなのかもしれないが。


「美味そうだな」


 テーブルに並んでいるのは、焼き鮭に肉じゃが、青菜の和え物、味噌汁とご飯。我が家では、もう何年も見ることがなかった和食らしい和食。

 食欲をそそられる彩りと盛り付けは、思わず感想がこぼれるほど見事なものだ。


「そう言ってもらえると嬉しいな。誰かに振舞うってことはなかったから。さぁ、早く食べよ」

「そうだな」


 昨日と同じ席に座れば、その正面に成田が腰を下ろす。

 なぜそこに座るんだと聞きたいのをグッとこらえて、手を合わせる。

 まず口を付けた味噌汁は、いつものより薄いように感じられるが、しっかりとダシの旨味と味噌の風味が口の中に広がる。いくらかしょっぱく、濃い味噌の味だけが口の中を蹂躙するインスタント味噌汁とは大違いの優しい味。

 ご飯を挟みながら一通り口にしていった料理への感想は、俺の語彙ではとてもじゃないが表しきれなくて、ただ美味いの一言にすべてを託して溢すことがやっとだった。


「口にあったようで良かった」


 そういった成田の瞳は安堵から細められ、いくらか硬かった表情が崩れるようにして微笑んだ。

 その様子を見ていると、振舞ったことはないって言ってたんだし、もっと早く言っておけば良かった、などと柄でもない考えが頭をよぎる。

 それに従うように、心の内で思っていた美味いを小さく溢しながら箸を進め、舌鼓を打っていると、成田の視線がこちらを捉えていることに気づいた。


「どうした? なんか変だったか?」

「いや、美味しそうに食べてくれるなーって」

「まあ、実際美味いしな。こう、あー、……親父さんもそうじゃないのか?」


 そこまで、というか、すべてを口にしてから、自分の生活を思い出した。

 繫忙期でなくともそれなりに遅い時間に帰ってくる母さんが夕飯を食べる姿をあの団地の狭い部屋でどれだけ見ただろうか。それは成田家でも一緒だろう。


「パパは残業ばっかりで、返ってくる時間遅いから一緒に食べるとかしないし」

「だよな、すまん」

「いいの、気にしないで。こうやって美味しそうに食べえてくれれば、それだけで嬉しいし」


 放たれた言葉に混じり気はなく、ただ純粋な気持ちなのだというのが嫌でも伝わってきて、それから目を背けるように夕飯を口に運んだ。

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