第8話

 学校が終わり、帰宅してしばらく。

 空になったグラスに適当な飲み物を淹れるべくキッチンに立てば、玄関からカギが開く音が聞こえ、それに少し遅れる形で足音が聞こえてくる。


「おかえり」

「え? あー、うん」


 呟くように口にしたわけではないのだが、返ってきたのは返事らしい返事ではなく、困惑を孕んだような生返事がわずかに返ってくるだけ。

 別に返事が欲しかったわけではないのだが、どうとも取れない返事に、成田? と声をかけてしまった。


「あー、ごめん。言われ慣れてないからさ。ただいま」

「おう、おかえり」


 実際、俺もおかえりなんて言われたら、驚いて返事なんて忘れてしまいそうだが、少し自虐気味に吐き出された台詞は、それまでの生活を雄弁に物語っており、少し胸が詰まるような感覚に襲われる。


「悠斗君はこういうことない?」

「まあ、あるんじゃねぇの。知らんけど。家に帰っても誰もいないとか日常茶飯事だったわけだし」

「なんか他人事っぽい言い方だね」

「いや、自分のことなんて分からんし、そういうのに慣れてるからな」


 まあ、それもそっかと成田は呟き、グラスに飲み物を注いで、それをちびちびと口にする。

 団地の時に比べれば広いのだが、それでも、そこまで広くないキッチンに二人でいるのはなんとなく居心地が悪くて、ポケットに財布が入っているのを確かめた。


「どっか行くの?」

「スーパーだよ。そろそろ買いに行かないとだろ。値引きシール貼られてからはあっという間だし」


 俺の言葉にいまいちピンとこなかったようで、お茶を飲むのをやめて首を傾げる成田。

 補足するように総菜だよと言えば、成田の瞳は信じられないものを見たかのように大きく開かれる。


「悠斗君、朝ご飯は?」


 いくらかの沈黙ののち、グイッと身を乗りだすようにして距離を詰めてきた成田がそう聞いてきた。

 俺は成田との態度とは対照的に、抑揚の乏しい声でコンビニで買った安いパンだなと簡単に返す。


「お昼ご飯は?」

「朝の残りだな」

「それで、夕飯が?」

「さっきも言ったが、スーパーの総菜だ」


 そこまで聞いて彼女は大きなため息をついた。


「体調崩すよ、そんな食生活してると」

「いや、ここ数年体調崩したこともない健康優良児なんだけど」

「そういうのは数年後にくるから、もっとちゃんとしたもの食べて」

「最近の総菜は値段の割にちゃんとしてると思うけど」


 こいつには何を言っても無駄だと言わんばかりに、またも大きなため息をついた成田は、ちょっと待っててとだけ残してそのまま部屋へと帰っていった。


「いや、ちょっと待てって言われてもなぁ」


 そんな俺の声は成田に届くはずもなく、ポツンとキッチンに取り残された。


 だいたい五分ほどしただろうか。どたばたと階段を駆け下りる音が聞こえてきた。降りてきたのは、当然ながら成田である。ただし、制服姿の代わりに軽く肩を出した黒のトップスを始めとする私服に身を包んで、化粧もいくらか落とされて控えめな感じになっているが。


「スーパー行くんでしょ? 私も行くから」

「えっ?」


 予想出来たとはいえ、まさかという気持ちが勝ってしまい、なんとも言えない表情のまま固まってしまう。


「ほら、行くよ」

「マジで?」

「一人で行ったら総菜買って済ませちゃうでしょ」

「そりゃ、まあ。俺料理できないし」


 俺がそこまで言うと、成田の視線は俺の右手の方へと吸い込まれるように、向けられた。


「別に、それが原因ってわけじゃねぇよ」

「そっか」

「行くなら早くしようぜ」


 大きく頷いた成田と共に家を出た。


 閑静な住宅街を大した会話もなくゆっくりと歩き続けること十分足らず。

 会話らしい会話もないまま見慣れぬスーパーまでやって来た。


「こんなところにスーパーあったんだな」


 返事を求めたわけではなく、ただ、思ったことを口にすれば、隣を歩いていた成田は、ここは値段の割に良いもの揃ってるから人気なんだよ、と主婦目線な言葉を返してきた。


「団地からは駅前のスーパー近かったし」

「あそこはちょっと高くない?」

「総菜と飲み物が買えればよかったからな」

「もうそんな生活はさせないから」


 そう言いながら、流れるような動きでカートの上下にかごをセットする成田。

 そのままワイワイと賑やかな店内の中へと繰り出そうとするのだが、このまま彼女にカートを預けっぱなしでは、食材を選ぶこともできない俺はただ付いて行くだけの邪魔者になってしまうだろう。


「貸してくれ」

「え?」

「付いてきてなんもしないのは、流石に気が引ける」

「そっか。じゃあ」


 わずかに触れ合った手を意識しないよう、いくらか強めにカートのハンドルを握りこむ。

 ゆっくりと進むカートの中に次々と食材が入れられ、ハンドル越しでも重みを増していくのが分かる。

 なんというか、新鮮な気分だった。こうやってカートを押すことなんて他人事だと思っていたから。米と総菜、必要に応じて日用品を数点。これだけを手持ちのかごに入れてレジを通って来たから、店内をゆっくりと周遊することもなかった。


「どうかした?」

「いや、別に」

「ならいいんだけど、なんかあったら言ってね」


 そう言いながら、またしても手慣れた様子でかごに食材を入れていく彼女との距離感は未だに分からないままだ。

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