第9話 聖女の罪とは

氷の地獄コキュートスなのに花があんなに……良いのでしょうか……」


 ティルダが寝て起きるたびに、ひとつかふたつ、新しい花が新しく咲いている。まだ開かない蕾や、柔らかそうな新芽も従えて。そんな勢いだから、部屋はもう花畑のようになっている。


 部屋の家具がないところだけでない。寝台の横にも小さな芽が顔を覗かせているし、窓辺にはつるが伸びて、また違う種類の蕾をつけ始めて──コキュートスには似合わないのどかさというか明るさと温かさが出現してしまっている。だからこそ、ティルダもこの部屋を拠点に城を探索していたのだけど。


『花の一輪に小娘のひとりだ。凍り付くまでの悪あがきくらい、多めに見てやる』


 ジュデッカはそう言って引き下がってくれたのに、一輪どころでなく花が咲き乱れている光景を見たら何と言うだろう。そう思うと、ティルダの腹はしくしくと痛む。コキュートスに堕ちて以来、何も食べなくても飲まなくても飢餓に苦しむことはまったくないけれど、心の痛みはまた別なのだ。


「我が主がコキュートスで知らないことなど何ひとつありません」

「じゃ、じゃあこれも……?」

「はい。その上で、ティルダの言い分を認めたのでしょう。花には罪はないのです」


 ティルダの膝に頭を預けたシェオルは、猫だったら喉を鳴らしているのではないか、という風に満足そうな表情で脱力していた。人の手で毛を梳いてもらうのは、自分で毛づくろいするよりずっと気持ちが良いのだと彼(彼女?)は主張していた。さらにティルダが頬のあたりを撫でると、シェオルはいっそう目を細めて彼女の手に頭を擦りつけた。


「魔力が強い人間はそれなりにいますが、コキュートスに花を咲かせようというのはただ者ではない。ティルダは確かに聖女に相応しい心の持ち主なのでしょう」

「でも、地獄に堕ちてしまったから……」

「悪意がなくても罪を犯すことはありますからね。その罪が何であれ、ここにいる時点で貴女は罪を償っているところなのでしょう」


 シェオルのひんやりとした鼻先が、ティルダの腕をつつく。そろそろ寝たらどうか、という合図だった。確かに、シェオルの毛を綺麗にするのにだいぶ時間を使った。一日に相当するくらいは目を開けていただろう、と思うのだけど。眠ってしまう気になれなくて、ティルダはシェオルの首周りにぎゅっと抱き着いた。白い毛に顔を埋めながら、呟く。


「私……生きてる間は花を咲かせたことはない、と思うんですけど。花を咲かせるだけの力だったら良かったなあ、って思ってます」


 ティルダのの記憶にはいまだに靄がかかったところも多い。


 聖女という自覚は間違いないはずだし、いつも接していた従者のカイを始め、世話になった人たち、地上で仕えるべき王侯や高位の聖職者の顔や名前も浮かぶ。儀式や式典で訪れた地名や、その光景、そこに住む民の姿も。でも、死んでしまったからなのか過労死するほどの忙しさ慌ただしさが原因なのか、出来事の順番や、具体的に彼女自身が何をしたとか何を言ったとか、になると途端にあやふやになってしまう。


 ただ、鮮明に思い出してしまった感情がある。


 人々に感謝され敬われることへの喜び──ではない。壊れた器に水を注ぎ続けるような徒労感と虚しさだ。コキュートスで味わう魂が凍るような寒さを、ティルダはもずっと感じていたのだ。


「民の傷や病を癒しても、きっとすぐにまた戦乱が襲うんです。兵士さんたちに祝福を与えれば喜んでくれたけど、それって戦いに行くってことだし……祈りで恵みをもたらしても、収穫まで無事かは分からないし」


 ティルダの祈りが花を咲かせるだけの効果しかなかったら、きっとあんな思いはしなくて良かった。食べられる訳でもない、ただ綺麗なだけのものを生み出して、少しだけ人の心を照らす──その程度の力だったら良かった。そう思ってしまうことにも、後ろめたさを感じずにはいられないのだけど。


 心の痛みから逃れようと、ティルダは腕に力を込めて身体でシェオルの毛皮の柔らかさを味わった。小娘の細腕で堪えることはないのか、今の彼女と同じように肉体の苦痛からは離れた存在なのか。巨大な狼は、黙ってティルダの抱擁を受け入れてくれている。


「そういうことが……聖女としてやってきたことが、私は本当は嫌だったんじゃないかと思います。逃げたかったんじゃないかな、って。でも、私を信じて慕ってくれた人たちに対して、ひどい裏切りではないですか? だから、それが私の罪なんじゃ……。今、地獄に堕ちたのに安らかだと思ってしまっていて、そんなことで良いのかどうかわからなくて──」

「ティルダ」


 とりとめなくこぼれ続ける言葉を、ざらりとした舌でティルダの頬を舐めることでシェオルが遮った。例によって温かくはないけれど、親愛を感じさせる動作に、ティルダは驚いて目を瞠る。


「コキュートスに堕とされる罪とは、そのように心の問題で済むことではありません」

「じゃあ……私は、いったい何を……!?」

「凍り付くことがなければ、いずれ思い出すこともあるでしょう」


 心が擦り減って鎖の冷気やコキュートスの雪と氷に冒されることがないように──だからこそ休め、と。白い狼は言っているようだった。神の手違いまで疑ってくれていたシェオルは、まさかティルダが無実だとでも思ってくれているのだろうか。聖女には似つかわしくない昏い感情を、彼女自身がありありと思い出せるというのに。


「優しいティルダ。私や主を哀れんでくれるならば、またふたりきりで氷に埋もれる日々に戻さないでくださいますように」


 そう言ってまたティルダの頬を舐めるシェオルの声こそ優しくて、それ以上反論する気はなくなってしまう。ティルダがぎこちなく長椅子に横たわると、シェオルが守るように寄り添ってくれた。


(コキュートスに堕ちるだけの罪って……どんなものがあるのかしら……?)


 気になることは多いけれど、凍り付くことがなければまた尋ねることもできるだろうか。目が覚めたら、また花が増えているのかもしれない。

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