第4話 氷の牢獄
ティルダを鎖で拘束したのを見届けたジュデッカは、満足そうに微笑んだ。
「聖女といってもしょせんは人だな。俺の力からは逃れられないか」
「あの、この鎖は……?」
咎められる気配がないのを窺いながら、ティルダは恐る恐る立ち上がった。首や手足に絡んだ鎖が、動くたびにしゃらしゃらと音楽めいた澄んだ音を立てる。罪人を戒めるにしては、普通に歩く程度の動きには支障がないようだし、ジュデッカの手元に繋がっている訳でもないようだ。何でできているのかとても軽いし、下手をすれば装飾品のようでさえある。
ただ──冷たい。
目が覚めてからこのかた、寒いという感覚はまったくなかったのに、鎖が触れたところから熱──というか精気が吸い取られていくような気がする。ティルダが死んでいるというのが本当なら、熱だの精気だの言うのはおかしいのかもしれないけれど。
手足を見下ろすティルダが、しきりに身じろぎしては鎖の音を奏でさせるのを眺めて、ジュデッカは喉を鳴らして嗤った。
「ああ、もう好きなところに行って良いぞ。といっても
「あの、ここは地獄……なのですよね? 罪人……私が罪人なら、好きにさせて良いのでしょうか」
黒い手袋を嵌めた手をひらひらと振られても、ティルダの戸惑いは深まるばかりだ。彼女の罪が何かは分からないままだけど、ジュデッカは神に間違いはあり得ないと断言した。ならば彼女は重罪を犯してしまったのだろう。鎖で縛られたとはいえ、あっさり逃がしてしまうのはどうなのだろう。
(皮を剥ぐとか針を刺すとか火あぶりにするとか……? いえ、ここは氷の地獄だそうだけど)
美しく凍った広間を見渡しても、美しい魔王と白い狼のほかに頼れそうな人はいない。彼女の指針となりそうなほかの罪人も、彼女に罰を与えてくれそうなほかの番人も。そうと改めて認識すると、この場所はどこまでも寒かった。肉体ではなく心が凍えて震えるようだった。
「あの──」
ジュデッカに縋ろうとしても、彼はすでにティルダに背を向けていた。黒のマントを
シェオルの頭を撫でながら、ジュデッカはティルダを見ようともせずに呟く。
「コキュートスは俺が作った牢獄だ。誰も逃げられはしない。どれだけ足掻こうと嘆こうと、罪人は遅かれ早かれ凍り付いて立ち尽くす。その鎖は、まあ、居場所を知らせる目印程度のことだ」
「凍り付く……」
「何ならその辺を歩き回ってみると良い。罪人の成れの果てがいくらでも見つかるだろうさ」
言い切ると、ジュデッカは再び玉座を占めた。足を組み、手を肘掛けに預けて目を伏せる姿は、彼のほうこそ凍り付いてしまったかのようにも見える。氷の壁を築くような冷たい気配にティルダが声を掛けかねていると──彼女の代わりに、シェオルがおっとりと声を発した。
「主よ、私がこの方を案内しても? 罪人が堕ちてくるのはまことに久しぶり、早々に凍り付いてしまっては主も退屈なさるかと」
「退屈してるのはお前だろうに。ひ弱な小娘が俺を楽しませられるとも思えないが──だが、まあ好きにするが良い」
「御意に、我が主」
ジュデッカは顔を上げることもしないでぶっきらぼうに答えた。思わず竦んでしまうような素気なさなのに、シェオルは嬉しそうに尻尾を振って答えた。そして、鼻先でティルダのスカートを
「来てください。可愛らしい、罪人かどうかよく分からない方」
「ええと……私、ティルダといいます」
「ではティルダ。幸い、今はほかに罪人はいないのです。お好きな部屋を選ぶことができますよ」
朗らかに語りかける白狼と、玉座に俯いたままのジュデッカとを忙しく見比べながら、ティルダはおそるおそる白い尾について広間を出た。しゃらしゃらと、手足に絡みついた鎖が奏でる音を聞きながら。
ひとりと一匹が通り過ぎるとすぐに、扉はまたひとりでに閉じた。ジュデッカの目と耳から隔てられたのかどうか──ここで地上の常識が通じるのかは分からないけれど、ティルダは身体を屈めて狼の尖った耳に口を寄せて尋ねてみた。
「あの……さっきの方を楽しませる、というのは……?」
「最下層の地獄に堕ちるほどの罪人はそうはおりません。しかも、我が主の作ったコキュートスはまことに堅固な牢獄です。魂をも凍らせる冷気の檻の中では、罪人を縛ることさえ不要──恥も恐れも知らぬ大罪人も、寒さに長く抗うことはできませんから」
氷に覆われて人影も見えない廊下を、シェオルは軽やかな足取りで歩いて行く。ティルダが履いているのは──これも覚えがなかったけれど──簡素な布靴だけど、やはり寒いとか水が染みるとかいうことはない。ただ、ジュデッカの鎖が触れる肌が冷たかった。シェオルと話して、彼(彼女?)の言葉を理解しようと努めていなければ、自分の身体を抱き締めて座り込んでしまっていたかもしれない。
「だから、ここに意思を持って動き回れる罪人がいるのはたいへん珍しいことでして」
「みんな、凍ってしまうから……?」
「はい。意識があるうちは、主を討とうとか懐柔しようとか、出口を探そうとか──色々足掻く者も多いのですが。近ごろはそれも絶えておりまして」
ティルダの背筋を、ぞくりとした寒気が走った。ただし、冷気によって身体が震えたということではない。ジュデッカやシェオルが語るのがどういうことか、彼女にもだんだん分かってきたからこその、恐怖による寒さだった。この場所は、とてつもなく寂しくて何もなくて、静かすぎて、寒い。こんなところで長い間まともな思考を保っていられるとは思えなかった。
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