第3話 罪の鎖

「過労死、だと……?」


 不機嫌そうに呟いたジュデッカは、とりあえずは投げ捨てるようにしてティルダを解放してくれた。氷の地獄コキュートスを統べる魔王を名乗る、綺麗だけど怖い人の視線は、氷の刃のように鋭いままだったけれど。シェオルというらしい狼の銀の目も、凍りついたように冷たい色だ。馬のように乗れるのではないかというくらい巨大な狼は、でも、牙を剥くこともなく首を傾げた。


「いつもお疲れだったようですが、よく寝ていらっしゃいましたか? 貴女の言うの前は、どれほど起きていらっしゃいました?」

「え、ええと……三日くらいだったと、思います」


 訳の分からない状況に、喋る狼まで現れて。混乱の極みではあるけれど、だからこそ意味の分かる問いかけには素直に応えてしまう。シェオルはふむふむと頷いて、ふさふさの尻尾で床の霜をふぁさりと掃いた。


「人の身には辛いことではないでしょうか」

「あの、でも、寝ている間にも何があるか分からないし……目が覚めるお薬をいただいていたので」

「お食事は?」

「そちらも、沢山食べなくても済むように、栄養の詰まった丸薬がありまして」


 シェオルの目は、狼とは思えないほど理知的で、声も優しく穏やかだ。だからティルダは、軍や教会付きの医師や薬師に疲れや不調を訴えた時のことを思い出す。


 彼らもティルダの話を優しく聞いてくれて、もっと頑張れるような方法を考えてくれたものだ。できるだけ眠らずに、食べることに時間を割かずに。普通ならとうに倒れていただろうけど、手厚い支援と励ましのお陰でティルダは起きている時間のほとんどを聖女の務めに宛てることができたのだ。そうやって、ティルダは十六年と少しの人生のほとんどを祈りと癒しに捧げてきた。


「で、人のために魔力を惜しみなく使っていた?」

「はい」


 首を傾げる狼に、ティルダはためらいなく頷いた。ここが地獄だろうとそうでなかろうと、嘘はいけないことだから。だからかばかりだからか、ぼんやりとしていた記憶も語るうちに次第にはっきりしていくようだった。


 でも、同時にティルダの混乱も深まっていく。いつも通りに寝たはずなのに──ジュデッカの言葉を信じるなら──どうして死んでしまったのか。何より──


(私は聖女で……人々のために命を捧げてきた……それは、罪なの……?)


 何か大切なことを忘れている気がする。人々の感謝の言葉や笑顔だけではない、何かを。不安にスカートを握りしめるティルダを余所に、シェオルが耳をぴんと立てて嬉しそうに尻尾を振った。


「お分かりでしょう、我が主」

「……何がだ」


 腕組みをしてティルダたちのやり取りを見下ろしていたジュデッカは、顔を顰めて吐き捨てる。不機嫌そのものの表情の主に、白い巨大な狼はすりすりと身体をすりつけた。そこだけ見るとよく馴れた犬のようにも見えるけれど、軽く開いたシェオルの口の中には、鋭い牙がずらりと並んでいた。


「幾ら若くても薬で誤魔化しても、ろくに食べず眠らず魔力を吐き出し続けるのは並大抵のことではございません。脆い人間の身体であれば、早晩限界が来ることでしょう」


 それでも、シェオルは笑ったらしい。鋭い推理を誇るかのような得意げな笑顔だと、なぜか分かる。銀色の目も、少し細められているようで。


 そしてシェオルは、後脚で立ち上がると内緒話をするときのようにジュデッカの耳もとに口を寄せた。首元の毛はひと際ふさふさとして柔らかそうで、顔をうずめたいと思ってしまう──のは、現実逃避なのだろうけど。


「この方は過労死なさったのです。お若いのにお気の毒な」


 凍った広間に、シェオルの柔らかい声はよく響いた。同情のこもった穏やかな声でもある、と思う。けれどジュデッカの眉間には深いしわが寄り、靴の踵が苛立ちも露わに床を音高く蹴った。砕かれた霜がきらきらと光ってティルダの目に刺さる。それに、ジュデッカの尖った声も。


「過労死でなぜ地獄に落ちる? この娘は罪を犯して死んだのだろう!」

「コキュートス始まって以来のことですが、何かの間違いかもしれません。ですから、ここは神の御心を伺うのがよろしいかと」


 主に押しのけられたシェオルは、大人しくお行儀よく巨体をちょこんと座らせて首を傾げた。


(神様もいらっしゃる? 地獄があるなら当然なのかしら)


 ティルダとしては、狼の提案が気になって仕方ない。彼女自身が死んだかどうかや地獄に堕ちるのかどうかよりも、神が本当にいるのかどうか。日夜祈りを捧げてきたその御方は、どんな姿をしているのか。思わず、期待を込めてジュデッカの表情を窺うけれど──美しい魔王は、険しい顔で首を振った。


「……いや。神はあやまたない。ここにいること自体がこいつが罪人という証だ」

「ですが、主──」


 言い募ろうとしたシェオルを押しのけて、ジュデッカはティルダの眼前に足を進めた。長身の彼に迫られると、床に座ったままの彼女は首を直角に近い角度に曲げないと相手の顔を見ることができない。大きく目を見開いた彼女の視界いっぱいに、ジュデッカの掌が映る。黒い手袋を嵌めた指先に絡む鎖は、彼の胸を飾っていたのと同じだろうか。銀の輪の連なりが、しゃらしゃらと音をたてながら蛇かつたのようにうねり、くねり、ティルダに迫る。


「とにかく! お前の魂は俺が捕らえた。お前の言い分が言い訳だろうと本心だろうと、逃れる術はない。コキュートスの氷に抱かれて永遠の悪夢を見るが良い」


 厳しい言葉と裏腹に、ジュデッカの声は甘く、いっそ今までで一番優しくも聞こえた。けれどそれは確かに罪人に下されるだった。彼が言い終えるまでに、ティルダの首と両手首、両足には銀の鎖がしっかりと絡みついていたのだ。

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