第5話 部屋選び

「でも、それが罰……ということなのでしょう? 私もいずれ凍ってしまうのが……」


 なにが彼女の罪かは分からないまま、ティルダは首に絡んだ鎖に触れた。シェオルは、どうやらその運命から彼女を遠ざけようとしてくれているようだけど。それは、主に対する裏切りには当たらないのだろうか。


「罪人のことより我が主のこと……と言っておきましょうか。罪人がいない間は、我が主は玉座に座って考え込んでばかり。まったく見ていられないのですよ」


 シェオルが勢いよく振った尻尾が、ティルダの腕をぱしぱしと叩いた。この狼は、彼女の存在を歓迎してくれている、らしい。罪人に対して過剰なほどの親切さも、玉座で俯くジュデッカの姿も、ティルダには不思議ではならない。


(ずっとああして……? 氷の魔王、コキュートスの番人と呼ばれる方が……あの方こそ罪人のようではないの……?)


 でも、そんな疑問を口にするのは無礼な気がして怖かった。鎖から忍び寄る冷気も耐え難くなっていたし。だからティルダは、シェオルの白い尾についていくことだけを考えることにした。




「そう急がなくても良いのですよ、ティルダ。貴女は走っても身体が温まるということはないのだから」

「はい……すみません。あの、癖で」


 美しいけれど白く凍って、壮麗だけど誰ひとり仕える者もいない城の廊下を、シェオルは軽やかな足取りで歩んでいる。

 案内してもらっている身で、シェオルを追い越しそうな早足になっているのに気付いて、ティルダは慌てて足を緩めた。


「ふむ。聖女というのはお忙しかったのですね?」

「はい。儀式の予定とか、そのための転移魔法陣の準備とか……私が遅れてはいけないことが多かったので……」


 シェオルは穏やかに話しかけてくれているのに、ティルダの止まったはずの胸が焦りに痛む。鼓動が早まることは確かにないけれど、彼女の耳は行動を急かす者たちの声を記憶から拾ってしまうのだ。


 ──ティルダ様、お早く! もう時間がありません。

 ──お食事はまた後ほど。まずはお召し替えをしなければ。

 ──気付けにこちらをお飲みください。


 ティルダがどうしてものろまだと、体格の良い騎士や術師が抱え上げてくれるのだ。彼女のせいで余計な仕事を増やすのは申し訳ないこと、ならば多少の疲れや眠気や空腹は我慢して、自分の足で駆けるのがいつものことだったのだ。


「コキュートスに時間はあってないようなもの。落ち着いて進むほうが良いでしょう」

「はい……」


 自分の足音が収まると、氷の宮殿の静かさが改めて身に染みた。シェオルの四肢が床を踏む音も、ごく軽く柔らかなものだった。だというのに全く寒そうではないのは、狼だからだろうか。それとも、魔王ジュデッカのしもべだから、なのか。彼(彼女?)のふわふわとした毛皮は、ティルダの目には温かいけれど。


「どんな部屋がお好みでしょう、ティルダ?」

「どこといって……ええと、狭い方が落ち着くかもしれません」


 広間を出ても、城の廊下は馬車が楽に通れそうなほど広く、天井もどこまでも高い。部屋もこの調子なのだとしたら、とても心が休まらないだろう。ティルダはいつも、聖女は贅沢を望んではならないと言い聞かされてきたから。


 ティルダの答えを聞いたシェオルは首を傾げたまましばらく歩き──ある扉の前で立ち止まった。白い毛並みの中、一点だけ黒い鼻先が軽くつつくと、それだけで扉はゆっくりと開く。舞い散る細かな氷が、長く使われていなかったことを教えていた。


「では、こちらなどが良いでしょう。かなり手ごろなだと思います」

「まあ……!」


 扉の向こうに広がる光景を見て、ティルダは感嘆の息を吐いた。なんてとんでもない、彼女の感覚だと庶民の家ならゆうに収まってしまうの部屋だった。ただ、衝立ついたてや異国風の壺や彫刻があちこちに配されているから、鏡台のあたり、長椅子と卓を置いたあたり、窓に面した一角に寝台周りと、ある程度室内が区切られているのが手ごろ、なのだろうか。


 どの家具も、当然のように冷たげな氷を纏ってはいるけれど、いずも繊細な造りの美しい品々だ。氷の下に覗く鮮やかな紅や金や青や翠の彩は、もしかしたらそのままならけばけばしくも見えたかもしれない。でも、白い氷のヴェールを被ることで上品に調和した風情になっているようだった。


「私がこのお部屋を使っても良いのですか? 本当に?」


 部屋というより家をもらってしまったようで、やはり罪人には相応しくないと思うのに。シェオルは何を気にしているか分からない、とでも言うかのように小首を傾げ、尻尾を振ってその一帯の霜をはらった。


「以前この部屋を選んだのは、傾国の女でした。義理の息子を惑わして父王を殺させ、さらに他の将に気を移して親殺しの王を討たせた。ここに堕ちてからも我が主を誘惑しようとして、手練手管を尽くしていたものでしたが」

「そのひとは……まさか、ティエン玉燕ユーイェン?」


 シェオルが語った人のことを、ティルダは知っている……かもしれなかった。歴史というよりはおとぎ話のような、そんな人も国も本当にあったか分からないと言われていたけれど。その人の魂が地獄に堕ちたというなら、その物語は本当だったのか──白い狼は答えず氷の色の目を笑ませるばかりだ。


「その女も凍り付いて久しいですから、お気になさることはないでしょう」

「そう、ですか……」


 ティルダが動くたび、相変わらず鎖はしゃらしゃらと音を立ててついてくる。彼女が寝台の霜を掃っても、そこに腰を下ろしても。多少の不自由さにはもう慣れても、じわじわと力を奪い取られるような寒さと冷たさが、忍び寄るような恐怖をもたらしてもいた。


「私が……そう、なるまでにはどれくらいかかるのでしょうか」

「貴女の心と魂の強さ次第です。おおむね、罪を悔いず省みず、より多くを求める者ほどする……それでも、決して逃れられぬコキュートスの酷寒にやがて心が折れるのですが」


 見た目は優美な鎖を撫でながら呟くと、シェオルはそっとティルダの足元に寝そべった。


「我が主を害そうとせず、かつ話が通じる罪人──というかもはや客人なのかもしれないですが。そんな方はとてもとても珍しい。だからなるべくいただきたいですね」


 シェオルの頭は、今はちょうどティルダの膝のあたりにきている。尖った耳、頬のあたりの毛はみっしりと、たてがみのような首周りの毛はふっさりとして。まだ毛の先には細かな氷が纏わりついているけれど、少なくとも柔らかそうで──つい、脈絡のないことを呟いてしまう。


「シェオル……さん? あの、触っても良いですか……?」

「どうぞ。なんなら抱き枕でも務めましょうか」


 白い狼は目を細めて笑顔のような表情を作ると、ティルダの膝に前脚を載せた。

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