第二章 触れる温度は
5, 心配
目覚めるとそこは見慣れた場所であった。そう、自室である。
ぼやけた視界が一気にクリアになる。急いでベットから身を出し、スマホを見る。
四月二十七日。午前六時八分。合わせた覚えのないアラームは午前六時半に予約されていた。
「本当に……やり直されたんだ……」
夢なのではないかと思ってしまうが先程ベットから飛び起きた際に小指をぶつけた。現実を叩きつけるほどの痛みはある。
つい数分前の出来事かと思われる湊地区での会話全てを思い出すには靄を取り除かねばならない。それでも、非日常へと迷い込んだ事実は変わらないことだけはっきりとわかる。
カタリ、と隣室から音がする。私が正しければこの日は……。
キィ、と軋む音と共に部屋を出る。その音に反応するように目の前のそれは振り返った。
「あ、おはよ、百合」
ふにゃりと笑うのは兄だ。紛れもなく、長瀬旺耶だ。無意識に涙が出た。ぽたぽたと地面に伝うそれに目の前の兄は面食らっている。
「え? どうしたの?! 何か嫌な夢でも見……あ、何か飲む? あったかいものの方が良いのかなぁ。……えと、どうしよ」
記憶の中の兄の通りで安心する。夢のようで夢じゃないんだ、と実感する。にっ、と笑って涙を拭う。
「なんでもない。何でもないよ、兄貴」
「そう……? なら良いんだけど、あ、パン焼いたんだけど焦がしちゃった」
「トーストだよね? 何分に設定したの」
「十分……くらい、かな……長い方がカリッとするって」
「三分で良いんだよ、アホ兄貴」
「え、じゃあやり過ぎたよね」
「うん、かなり」
拭いきれそうになかった涙が瞬時に引っ込んだ。とりあえず、兄の両頬をつねり伸ばしてやった。痛いよ! なんて言われたが知らない。二十八にもなってお茶目すぎる兄は要らないかな、と苦笑を漏らす。
テレビをつけた。時間帯的に報道番組が大半を占めている。話題は、一ヶ月前に解散したとあるJCバンドの事で持ちきりだった。
“一つの音楽の可能性が断ち切られた”やら“子供はやはり責任一つも取れないものだ”やら好き勝手に評論されている。なんともまぁ馬鹿馬鹿しい。兄はテレビのコンセントごと電源を切った。
「ほら、百合。辛いなら見なくて良いよこんなの。今日からちょっとの間この家から出るんだから」
兄の複雑そうな顔に今度はこちらが面食らう。この家を出るなんて話は一度もしたことがない。この家ーー性格には、一人暮らし用のアパートなのだがーー私はとある事情で高校進級と共に引っ越してきた。
のにもかかわらず、出る? 嘘だろう? まだ一ヶ月も経ってないけど?
「どこに行くの」
「え? 僕がお世話になってる下宿先」
言葉が出ない。
ちなみに兄も今実家暮らしではない。昨年こちらの区の採用試験を受けて採用された兄はこの歳になってもなお一人で生活することが困難であった。普段は理科オタクとでも言うのだろうか、実験やら数学やらその方面にしか興味がないせいか、一般常識も微妙な部分があるのだ。
そのため下宿生活をしていた。がしかし、私はその下宿先の方と知り合いというわけでもないし会ったこともない。面識がないのである。
「大丈夫だよ、百合の知り合いだし」
「いや、知らないんだけど」
「会ってからのお楽しみだから早く準備してね。大丈夫、学校から近くなるから」
「わかんない、大丈夫ってことがわかんないよ兄貴」
兄はいつになく真剣な表情で私を見る。
「だってニュースもあの件でもちきりじゃん。実家も特定されたって母さんから連絡あったよ」
「だからって」
「ここも時間の問題だと思うよ。現代の人を舐めちゃダメだ」
「……」
黙り込む。もちろん、母も兄も私のことを思っての行動をしようとしているのは分かる。折角実家を、過去を捨ててまでここに来たのに、他人に土足で上がり込まれては困る。
渋々、と言うわけではないが焦げたトーストを食べ切り、食器を片す。自室に戻り、必要最低限の荷物をキャリーケースに詰めた。
心の奥底に募るそれも思い出も全部。必要最低限分だけ。
その後兄との会話は何一つとして覚えていない。ただ呆然と二十分ほど電車に揺られていた。
「着いたよ」という兄の合図で駅に降りる。駅の名前を確認する。湊地区ではなかったので安心する。
それもそうだ。兄があの駅を、あの世界を知るわけがない。
もう一駅行けば高校の最寄りに着く。兄の言う通り、通学距離は縮まるようだ。
駅から徒歩数分。外観から幸せそうな家庭を思わせる家が目の前に聳え立っている。
ここまできても誰の家か見当もつかない。本当に知り合いがいるのだろうか、と疑念が募る。
ピッ、と音を立てた後、ピンポーンとインターホンらしい音が家の中から聞こえる。数秒後、ドタバタと騒がしい二人分の足音が聞こえて来る。
「お兄ちゃん! はやくはやく!」
「待てっての。こけるぞ」
なんでやりとりが扉の開閉音と同時にやってきた。
隣の兄は「やぁ、昨日ぶりだね」なんて呑気に笑いながら手を振っている。その横で私は固まる。
表札を見て気づくべきだった。インターホンの上に掲げられた表札と出迎えにきた彼の顔を視線が往復する。
この家の住人は“志岐”と言うらしい。
「颯一……と沙菜穂……さん……じゃん」
兄貴。私はもう既に家に帰りたいです。なんて叫びは誰にも届くことはない。
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