第5話 退所
この日を境に、宮井はよく食堂に座っているようになった。自分からあれこれとおしゃべりをするわけではないが、話しかけられたら嬉しそうに応答する。何か質問されたら、以前にもまして丁寧に、分かりやすく知っていることを教えてくれる。おはよう、おやすみなさい、とあいさつを交わす声も宮井だけではなく全体的に増えたように感じられた。ふっきれたのか、宮井は朝の散歩と喫茶店通いも再開した。
そうして年が明け、二ヶ月ばかりがまったりと過ぎた後、宮井は再び陸のところに相談に訪れた。退居して一人暮らしするという話を再び進めたい、というのだ。陸は驚いた。
「ま、まさかまた……」
「いや、そんなんやないんです。彼女のことは、もう大丈夫です。喫茶店で遭うこともありますけど、お互いあいさつをするだけです。前はお互い知らない者通しやったのが、あいさつを交わす知り合いができた。それはそれで素敵なことやな、と思えるようになってます。僕はここに来るまでいろんなことがうまくいかなかったんで、もう、あかんなあ、て思ってたんです。でも、ほのぼの荘の皆と色んな話をすることができるようになって、だんだん自信がついてきたんです。なんか色々やってみようかなっていう元気が出てきた感じです。かおりさんとも出会えたし、失恋もできたし。それも、自信の元なんかもしれません」
陸は素直に、すごいなあ、と思った。それまである意味孤高の存在で、失恋して、完全に心折れたはずの宮井だったが、あのなんだかハチャメチャなクリスマス会を通して、すっかりほのぼの荘の仲間になった。そして、その仲間たちとの何気ない毎日が、宮井に再び立ち上がる力を持たせたのだった。学校で福祉の勉強をしたとき、自分たちの関わりの目的は対象者が社会で生きていく力を取り戻せるようにエンパワメントすることである、とさんざん聞いてきた。目の前にいる宮井の姿を見て、その意味が初めて分かったような気がした。だとすれば、それはこのほのぼの荘の仲間たちの持っているパワーなのだろう。学生時代に教授の紹介でボランティアに来てみて、なんとなく楽しそうだったから就職した陸だったが、自分の仕事、というか職場の魅力を漸く見つけた、という気になった。
それから陸は、再び各方面との調整をしてまわった。何せ一旦中止になった、という経緯があるものだから、二つ返事でハイどうぞ、という訳にはいかない。しかし今度は、宮井自身が陸と一緒に動いた。陸を引っ張って行ってくれたという方が正確かもしれない。彼女ができたので一人暮らしをしようとしたが、失恋してあきらめたこと、でもほのぼの荘の皆に励まされて元気になったから、今度は自分自身のために一人暮らしを始めようと思っていること、などを正直に、きちんと説明して回った。
それは、関係者一同に対しても、大いに説得力を発揮した。ことに、宮井の姉は前回以上に喜んでいた。部屋探しから細かな生活用品の調達等、わざわざ電車を三本乗り継いで、一時間半もかけて足を運んでくれた。時期的に、高校三年生になっていた 長男の受験が無事終わって少し余裕ができた、ということもあるだろう。
不動産屋も一番忙しい時期だったが、うまい具合にちょうど良い物件が一つだけ、空いていた。駅前通りのはずれにあるワンルームマンションの一階で、築年数はそこそこ経っていたが、結構広く、風呂とトイレも別という好条件だった。陸は、職場からミニバイクで三十分弱の自宅で両親と暮らしているので、自分が住みたいくらいだと思った。引越しであれこれそろえて、部屋がそれらしくなっていくのはとても楽しかった。
そうして、あっという間に準備が整い、四月半ばには宮井は正式に退居することになった。皆、送別会をやろう、と騒いだが、宮井は丁寧に断り、まるでいつもの作業所にでかけるような様子で、出て行った。あまり大層にすると、訪ねてきにくくなるから、というのが宮井の言い分だった。すっかりほのぼの荘の仲間になった宮井は、退居した後もちょくちょく顔を出します、と言った。明美などは
「先生がちょくちょく来てくれるんやったら、ほのぼの荘もきれいな状態を保てるな。よろしく」
と厚かましいことを嬉しそうに言いながら見送った。
ところが、ちょくちょく来る、と言っていた宮井は、最初の内こそほぼ毎日のように顔を出していたのだが、五月に入り、連休をはさんだ後くらいから、ほとんど姿を見せなくなった。作業所は川の向こう側にあり、昼は病院で仕事をして、一週間に一度程度の頻度でほのぼの荘に宿直に来る陸は、宮井の顔を見る機会がないまま時間が過ぎていった。
「こないだ久しぶりに来た時な、先生えらい痩せてはったで」
と純一から聞いた陸は、まずいな、と思い、宮井を訪ねてみることにした。作業所に連絡をしたところ、ここ数日はお休みをしている、とのことだったので、マンションの方に行ってみた。宮井は在室だった。戸を開けて陸を迎えてくれた宮井は、確かにわずか一ヶ月ちょっとしか経っていないとは思えないくらい、ひどく痩せてしまっていた。念のために病院の医事課に立ち寄ってカルテで確認してきたが、月一回の診察は連休直後に行われていて、その時は特に問題もなさそうだった。
「丸山さん、わざわざ来てくれたんですね。ありがとうございます」
と言いながら、宮井は小さな座卓を勧めてくれた。部屋は相変わらずきちんと片づけられており、乱れた様子もなかったが、キッチンに食器が置きっぱなしになっているのが見えた。宮井らしくない。
「ちょっと失礼」
と言って見に行くと、カピカピになったおかゆの残骸らしきものが、鍋にこびりついていた。
「食欲なくってね。食べなあかんと思うねんけどどうしても受けつけへんのですわ」
と脇腹のあたりをさすりながら宮井が言った。
「病院は?」
「行ってないんです。休んでたら治るやろと思って」
どう見てもただごとじゃあない、と判断した陸は、すぐに病院への同行を申し出た。歩くのも大儀そうだったので、一旦外来用の車椅子をとりに職場に戻ってすぐに折り返すことにした。診察室に入って一目見るなり、宮井の主治医は
「こら精神科の領域ちゃうがな」
とすぐに総合病院への紹介状を書いてくれた。陸が病院の軽ワゴンを借りてきて、宮井を連れていくと、そのまま入院し、精密検査をするということになった。
検査の結果は癌だった。すでに全身に転移していて、手術もできない、と言われた。
「いやあ面目ない。今年の初めごろから、ちょいちょい気持ち悪いな、思うことあったんですけど、すぐ治まるんで大したことないわ、思ってたんです。ちゃんと病院はかかっとくもんですな。でもおかげさんで、この点滴してもろてから、すっかり楽になりましたわ」
と宮井は痩せこけた顔に以前の笑顔を戻して言った。
「びっくりしたわ、宗ちゃん。はよ元気になって退院せなな」
知らせを聞いて飛んできた宮井の姉は、病状説明を医師から受けた後、宮井自身には何も告げないでおこうと決めたらしい。幸い総合病院は、駅の反対側にあったが、ほのぼの荘からでも少し頑張れば歩いて来れる距離にあったので、仲間たちは入れ替わり立ち替わりで見舞に訪れた。
「先生、はよ元気になってや。ほのぼの荘、先生が遊びに来てくれんと散らかっていく一方や」
「何勝手なこと言うてんの。整理整頓はアタシらがやらなあかんがな」
「でも一番散らかしてるんはウチやないで」
宮井など目に入ってない、くらいの勢いで相変わらず勝手な話をベッドサイドで繰り返していた。宮井は、そんな仲間たちの姿を嬉しそうに見守っていた。しかし、病気の進行は驚くほど速かった。元気になって退院どころか、夏には起き上がることも難しくなっていった。それでも、
「ここはエアコン効いてて快適やで。電気代もただやしな。夏の暑い時期を乗り切って涼しなってから退院や。ちょうどええ別荘やな」
と明るく、言っていた。九月に入ってすぐ、宮井はたまたま見舞に行った陸に、
「ありがとう、おおきにな」
と言った。その後昏睡状態になり、そのままの状態で秋分の日に息をひきとったので、結果的には陸が聞いたのが、宮井の最期の言葉となった。斎場まで見送りに来たほのぼの荘の仲間たちは、
「避暑のシーズンが終わって別荘から出たんやなあ、先生。わたしらこそ、今までほんまにありがとう。これから分からんことあったら誰に聞いたらええんやろなあ」
と別れを惜しんだ。
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