第3話 失恋とクリスマス
ほのぼの荘は宮井の話題で持ちきりだった。他の入居者と交わる機会があまりないとは言っても、物知りで穏やかな宮井は「先生」と呼ばれて、慕われていた。何か分からないことがあったら皆はいつも決まって宮井に尋ねる。そうすると、にこにこと少しも威張ることなく、丁寧に教えてくれるのだった。
その宮井に、彼女ができたらしい。それはちょっとした芸能ニュースみたいで、特に女性陣はあれこれと想像を膨らませながらきゃあきゃあと大騒ぎだった。それに、入居者の中でも最古参の一人が出て行こうとしているということも、大きな事件だった。はじめから一時的な仮住まい、と考えているメンバーは一年も経たずに退居していくが、何年もいるメンバーは住民としてすっかり腰を落ち着けていたのである。
「先生、クリスマスって、どんな風に過ごそ思てるん」
「歯ブラシとか、やっぱり二本並べるんやろ」
「手ぇくらいつないだんやろ。きゃあ、どこまで進んでんのん、このスケベ」
言いたい放題である。大体相手のかおりさん、という女性が、まだ三十歳になるかならないか、という年齢らしく、五十の大台に乗ろうとしている宮井からすれば、下手をすれば親子である。皆の冷やかしも過激になるわけだ。宮井は真っ赤な顔をしてにこにこ笑いながら、いつの間にかそれまであまり交わることがなかったほのぼの荘の、仲間たちの輪の中心になっていた。
陸の方は大忙しだった。何せ、一ヶ月とちょっとで家を確保しないといけない。そもそも宮井は障害基礎年金と、不足分は生活保護でまかなって生活しているので、引っ越しの費用も含めて、福祉事務所にもかけあわないといけない。アパートを借りるにしても、保証人もいる。主治医や作業所なんかにも、声をかけておかないといけない。
上司の森田にいちいち教えてもらいながら、電話をかけまくった。もちろん、ややこしくなるので彼女のことは内緒である。長い間ほのぼの荘にいたので、なぜ突然、という疑問と心配の声がそれぞれからあったが、しどろもどろになりながら一所懸命説明する陸と、宮井の篤実な性格、それになんといっても、ずっと安定して生活してきたという実績が効いて、応援体制も瞬く間にできあがった。保証人をお願いした宮井の姉は一番喜んでくれて、引っ越しとか色々手伝いますから、連絡くださいね、よろしくお願いします、と言ってくれた。
ところが、十二月に入る前に、宮井の恋は唐突に終わってしまった。一人暮らしを始めようとしていること、そこに招待しようと考えていること、それを聞いたほのぼの荘での仲間たちがさんざんに冷やかしたこと、などを率直に伝えたところ、彼女の方は恋の対象として宮井を見ていたわけではなく、いつもの喫茶店で会う、やさしいお友達、という風に考えていたらしい。
「つまり、僕のひとりよがりですわ。よおある話ですね。ええトシして恥ずかしいなあ。お騒がせしました」
苦笑いをしている宮井の、なんだかふた回りくらい小さくなってしまった背中を見て、陸も、仲間たちもかける言葉をしばし失ってしまった。陸と同じ病院職員で、ほのぼの荘運営チームの先輩である田中は、
「先に確認もせんと動くからそうなるんやがな。大体相手の人も、宮井さんと二十歳も離れてるてゆうねんから、まず疑ってかかるのが普通ちゃうか」
と分かったようなことを言った。何をいまさら、と思わなくもないが、しかし陸の方も宮井と一緒に有頂天気分を味わっていたので言い返せない。理由がなくなったので、一人暮らしの話も棚上げにすることになった。彼女のことを伏せて退居の話を調整してきた陸は、各方面にかなり苦しい言い訳をして回らなければならなかった。
盛り上がっていただけに、ほのぼの荘の食堂も、気まずい空気にしばし占領されることになった。入居者の女性連中は、さんざん冷やかしたり勝手に盛り上がったりしていたので、ことに気まずい。男性連中は、もとより話に乗り切れていなかったので、黙々と食べ、そそくさと自室に戻ってしまう。宮井自身も、自室にほぼこもり切り、という以前の生活に戻ってしまった。さらに、作業所には毎日通っているものの、朝の散歩もやめてしまっている。大丈夫なんだろうか、と心配になった陸は
「宮井さん、あの、残念でしたね。気を落とさないで、て言っても難しいよね。でもまた次の機会に、いや、そんなことじゃないですよね、あれ、何言うてんねやろ」
と話しかけてはみたのだが、
「丸山さん、ありがとうございます。心配かけてしまってすいません。でも、僕大丈夫ですよ、ほんまに」
と宮井に棒読みのセリフで返され、継ぐ言葉を失ってしまった。週刊誌を読むふりをしながらこっそり聞いていた川西栄子に、
「陸ちゃん、あんたへたくそやなあ。カウンセラーやったらもっとこう、パシッと気の利いたこと言われへんのんかいな」
と突っ込まれてしまった。自分のこと、棚に上げて、と思いながら、
「カウンセラーちゃいますよ、ソーシャルワーカーですから」
とささやかな抵抗を試みたが、
「どっちでも一緒や」
と一蹴されてしまった。でも、手に持っていた週刊誌が逆さまだったので、同じ入居者として彼女も気になってるんだろうな、と分かったが、それは気づかないことにしておいてあげようと思った。
そんな様子を、頬杖をつきながら、なんとなく気怠そうに見ていた二上明美がぽつりと、
「なんか寂しなったなあ」
と言った。それからやはり気怠そうに、
「なあ、陸ちゃん、クリスマス会、しようよ」
という提案をした。何故か陸は、女性入居者全員から、「陸ちゃん」と呼ばれている。
「クリスマス会ってまた唐突ですね。毎年やってるクリスマス忘年鍋パーティのことですか。何も今言わんでも、とは思いますが」
少々やさぐれ気味で返すと、明美は陸の言うことを無視して、話し始めた。
「陸ちゃんは知らんやろうけど、ウチもな、去年失恋してん。キムタク的な二枚目でな。そらもお、めっちゃ燃え上がってん。ああ、今思い出してもドキドキするわ」
「はあ、キムタクねえ。言うだけは自由やけど。で、それとクリスマス会と何の関係あるんですか。もしかして、お見合いパーティ的なこと、考えてます? いくらなんでも宮井さん、そんな気分になられへんと思うけど……」
明美、さらに無視。
「半年くらいはちゃんと付き合うててんで。ああ、ウチにもついに幸せになれる時が来たんや。プロポーズはいつしてくれるんやろ。やっぱりクリスマスとか、狙い目かなあ、なんて。ところが、ちょうど今頃やわ。やっぱり急に別れ話持ち出されてな。二股かけられてたんや。ああっ、悔しい」
首に巻いていたタオルをもみしだきながら、大衆演劇よろしく大仰にかぶりを振る明美。陸は意見することを半分あきらめて座り込み、同じように気怠く頬杖をしながら聞いた。
「……で?」
「めっちゃ落ち込んでるウチにな、富田恵ちゃんとか川西のお姉さんとか、ほのぼの荘の皆がな」
「慰めてくれた、と」
「逆や。ボロッくそに言われた。それもな、彼氏のことをじゃなくて、ウチのことを。あほちゃうか、とか、落ち込んでられたらうっとしいからさっさとあきらめ、とか。そうか思うたら、今からでも電話したらどうや、案外彼氏、待ってるかもやで、とか。全然気イ遣ってくれへんかった。ていうか、むしろ面白がられてた」
なかなかハードな話である。
「みんなひどいですね。落ち込みに追い討ちかけられたような感じですね」
とちょっと同情して言うと、
「それがな、すごい気イ楽になったんよ。むしろすっきりした、ていうか」
なるほど、言わんとすることは少し分かってきた。
「クリスマス会っていう名目で宮井さんを慰めようっていうことですね」
「だから逆や、ちゅうのに。みんなで先生を茶化す。失恋祝いパーティやな」
「それめっちゃええやん。パアッとやろ。パアッと」
いつの間に部屋から出てきたのか、富田恵が陸の背後から黄色い声を上げた。
「クリスマスかあ、おもしろそうやなあ。でもアタシは彼氏おるしなあ」
と川西栄子が加わってきたが、彼氏も呼んだらええやん、との明美の一言で、あっさり推進派に鞍替えをした。こうして、ほのぼの荘では宮井宗一郎失恋記念クリスマス会の企画が、持ち上がった。
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