第2話 宮井さんの恋

 翌朝、宿直を終えて病院のソーシャルワーカー室に出勤した陸は、ほのぼの荘の管理者であり、直属の上司である森田のデスクに直行した。陸の勤める病院は、一応内科も標榜してはいたが、あくまでも精神科が主体となっている。創立が戦後すぐというから、この国の精神科病院としては老舗である。ほのぼの荘は元々、病院敷地に隣接していた駐車場ごと購入したので、一応敷地内と言えば敷地内だが、正面に位置する外来診療棟にある事務所とはそれなりに離れている。宿直勤務者は荷物と日誌を抱えて朝から結構な距離を「出勤」しなければならないことになっていた。

 陸は昨夜書いた宿直日誌を提出しながら森田に話しかけた。

「おはようございます。森田さん、昨夜宿直室でね、」

 老眼鏡をずり下げて陸の顔を見上げた森田は、陸の言葉を途中でさえぎって言った。

「うん、宮井さんやな」

 昨夜自分が仮眠していたベッドの、元の持ち主の名前を聞いた陸は、危うくその場で卒倒しそうになった。


「五十歳になるので、そろそろここを出て、一人暮らしを始めたいと思います」

 宮井宗一郎がそう宣言したのは昨年の十月末のことだった。宮井はほのぼの荘に十年程前から住んでいた。某有名私立大学の法学部在籍中に統合失調症を発病し、休学・復学をくりかえしながらも卒業。衣料品メーカーに就職して数年は頑張って勤めていたが、再発して退職。何度かの入退院を繰り返すうち、両親が相次いで亡くなり、帰る自宅もなくなってしまって、ほのぼの荘に退院してきたのだった。

 陸は就職してすぐにこのほのぼの荘の運営チームに加えられ、宮井の相談を担当することになった。とはいえ、なにせ十年間も住んでいいて、昼間は作業所に通い、夜はあまり他の入居者と関わることもなく、自室にこもっていることがほとんど、というパターンを続けていた宮井は、担当になった陸のところを訪ねてくることもあまりなかった。前任の担当は管理者の森田だったが、入居したころからその生活スタイルはほぼ安定していたので、状況は似たようなものだったという。入居した当初は、二歳上の姉が週末ごとに訪ねてきては何かと身の回りの世話を焼いてくれていたらしいが、慣れてくるにつれ、訪問頻度も下がってきていた。姉の子供が大学受験を控える学年になったこともあって、陸が出会ったころには電話が月に一度入るくらいで、実際に訪ねてくるのは三か月とか半年に一度という感じだった。

 宿直室の前にある面談コーナーを訪ねてきたその宮井が、椅子を勧められるなり待ちきれないようにして、ホームからの退居を宣言したのである。陸は、自分が就職したときにはすでにこのほのぼの荘の主のようになって住んでいた宮井が、突然動きだそうとしたことに、少なからず驚いた。

「えらいまた、急な話ですねえ。彼女でもできはったんですか」

 軽い冗談のつもりで言ってみたのだが、宮井は、ずんぐりむっくりした体をくねくねさせながら、

「いやあ、分かりますう? そうなんですわ、彼女がねえ」

 と本気になって照れた。

「ほんまですか。まさかそんなお約束みたいな話やとは思わんかった。で、相手はどんな人ですのん。だいたい、どこで知り合いはったんですか」

 まるで大阪のおばちゃんみたいやな、と思いながらも陸は質問を止めることができない。話の中身への関心もさることながら、問われて嬉しそうにくねくねしている宮井を見るのが面白く、なんだかこっちまで嬉しくなってきたからである。そもそもあまり関わることがなかった宮井と、この機会にゆっくり話をしようとも思った。

「もしかして、ほのぼの荘の入居者のだれかですか。川西さんとか。あ、でも彼氏おるか。富田さんか二上さんあたりかな」

 ほのぼの荘の女性陣の名前を挙げながら、陸はそれぞれ宮井の隣に立つ姿を想像してみる。でも宮井は相変わらずくねくねしながら、

「いやあ……」

 とにやけているだけである。女性入居者の名前をいくつか言ってドンピシャ、という反応が出てこなかったので、陸は捜査範囲を広げてみた。

「入居者ちゃうんや。ほんだら誰やろう。作業所のメンバーか職員? 違う。病院の売店のお姉さん?それも違う」

 ふと見ると宮井はくねくねを止め、真面目な顔に戻っていて、

「丸山さん。あの、僕の彼女が誰か、ていう話やなくてね。僕が一人暮らしする、ていう話」

「ああそうでした、そうでした。すみません、つい興奮してしもて」

 陸は頭をかいて、ちょっと後ろ髪をひかれながらも話を本題に戻した。

「それで宮井さん、時期とか場所とか、具体的なこと、なんか考えてはるんですか。」

「それですねんけど、ほら、あと二ヶ月したらクリスマスやないですか。できたらその頃までには、と思ってますねん。場所は特にこれというて決まってないんですけど」

 そう言いながら、宮井の目線はきょろきょろと落ち着きがない。

「クリスマスですか。二ヶ月いうのはかなり厳しいなあ。で、場所は決まってないんですか。大体の希望とかはないんですか。駅前とか、喫茶店の近くとか」

 と続けると、

「う~ん、喫茶店、そうですねえ」

 と言いながらますますきょろきょろしている。ついでに鼻もふくらんでいる。陸はそれを見て、なぜかピン、と来た。ハハ~ン。さては。

「分かった、宮井さん、喫茶店のお姉さんとかお客さん、てとこでしょう」

 陸が強引に話を戻すと、宮井は明らかにうろたえた。

「いや、まあ、その、えーと。そうですねえ」

 分かりやすい反応である。宮井はほぼ毎朝、川の堤防を散歩してから、対岸にある喫茶店のモーニングサービスで朝食をとり、そこで朝刊をゆっくり読んでからほのぼの荘に戻って、それから作業所に出かける、という日課を守っていた。明日こそは早起きしよう、と固い決意を持って就寝し、大小5つもの、スヌーズ機能付き目覚まし時計でさんざんモグラたたきをした結果、ギリギリで職場に駆け込む、という結果に毎日反省している陸にすればあこがれの、優雅な朝である。どうやら、宮井の退居宣言の原因は、この喫茶店にあるようだ。

「なんていいましたっけ、宮井さん、毎朝行ってはる、あの喫茶店ですよね」

「ベル、言いますねん。ジャズ喫茶です。僕、昔からジャズ好きでね、店の雰囲気が全体にジャズていう感じで。ママさんのレコードのチョイスもいいんですよ」

 宮井の説明に、すかさず喰いつく。

「ママさんですか、お相手は」

「とんでもない、違いますよ。いや、とんでもないは失礼か。ママさんも素敵な人やけど。でも違います。いや、ママさんがあかん、ていうんじゃなくてね……」

 なぜか宮井は一人でこんがらがってしまっている。

 一旦落ち着いてもらってゆっくり聞いてみると、お相手は同じように毎朝来る常連のお客さん、とのことだった。リクエストの曲がかぶった、とか彼女が落としたハンカチを拾ってあげたとか、そういうロマンチックな場面を一瞬期待したのだが、そんなことは現実にはそうそう起こらない。

 いつもはすいている喫茶店なのに、その日はたまたま老人会の集まりでもあったのか、珍しく満席になっており、たまたま宮井と相席を頼まれたのが彼女だった。はじめは特に会話することもなく、意識もせずにいたのだが、宮井の様子を見ていた彼女の方が話しかけてきたらしい。

 宮井はとても几帳面な性格で、たとえばおしぼりを使っても、きちんと折りたたむ習慣がある。その時も、テーブルに落ちた細かなパン屑や、コップから落ちた水滴などをペーパーナフキンできちんと拭き取り、さらにそれをきれいに折りたたんでいた様子を見て、

「とても几帳面なんですね」

 と言われたのだそうだ。陸は、背中を丸めてペーパーナフキンを折りたたむ宮井の姿と、向かい合ってコーヒーを呑んでいるマドンナを想像してみた。周りはお年寄りでぎっしり、いつもの場所に少し居心地の悪さを同じように感じていた者同士、小さなきっかけで会話が始まったというところだったのだろう。

「僕は女性との関わりがほとんどなかったんですよ。色々あったし、この性格やし。初めての春、っていうんかなあ」

 話し始めたのでかえって落ち着いたのか、いつもの宮井の、落ち着いた柔らかな物言いに戻っていた。初めて話した日は夏の終わりの頃だったらしいが、それ以降ほぼ毎朝、喫茶店でのモーニングサービスを一緒にいただく、ということが続いているのだそうだ。

「彼女さん、どんな人なんですか」

 宮井は、彼女の名前がかおりと言い、件の喫茶店の向こう側にある住宅街に両親と一緒に住んでいること、駅前の本屋の店員さんで、毎朝出勤の時に喫茶店に立ち寄っていることなどを恥ずかしそうに、話した。陸は、気になっていることを思い切って尋ねた。

「その、かおりさんは宮井さんがここに住んでることとか、知ってはるんですか」

「もちろん。一番初めに話しましたよ。病気のこともね」

 彼女はそれを聞いても驚かず、気の毒がりもせず、ごく自然に受け止めてくれたのだという。それが、宮井に好意を抱かせた理由だったようだ。先週の日曜日、思い切って喫茶店の外に誘ってみて、堤防の上を一緒に歩いた。その時、彼女を招待できる自分の家が欲しい、と思ったのだそうだ。陸は二人がうまくいけばいいなあ、と思いながら、自身にとっても初めての、退居時支援の手順を頭の中に呼び出そうとしていた。

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