宮井さんのシングルベッド
十森克彦
第1話 当直室
丸山陸はその日、とても疲れていた。いつもだったら食堂で入居者とだらだらしゃべったり、時々始まるトランプや花札に加わってみたりするのだが、そんな気分にはなれず、早々と戸締りを確認して回ると、さっさと宿直室に引っ込んだ。
川の堤防沿いにあった昔ながらの木造アパートを病院が買取り、精神障害者向けのグループホームとしたのが「ほのぼの荘」である。グループホームと言えば聞こえはいいが、なにしろまだ何の法的根拠も制度もなかった時代に、院長の思い入れだけで始めた共同住居である。建物は老朽化しており、職員も、病院のスタッフが夜間だけ宿直に来る、というだけの極めて簡易なものだった。それでも、退院先がなく、自信も持てない、といった長期入院患者を中心に結構入居希望はあり、そのままの形態で三十年近く運営してきたのだった。
陸は宿直室に入って日誌を書いた後、テレビをつけることもおっくうで、仮眠用のベッドに横になった。けれども、なかなか寝付けなかった。九月も末になろうというのにまだまだ蒸し暑くて、おまけにひと夏の過酷な使用により、宿直室の冷房はけたたましい音を立てる割に全然その効果を発揮しなくなっていた。建替えの計画があるのでと、病院は修理も交換もしてくれない。これで体調を崩したら労災で訴えてやろうか、と剣呑なことを考えていると余計に興奮してきて頭も冴える。だからといって起き上がって何かをする気力もなく、要するにゴロゴロしていた。
そうするうちにいつの間にか寝入ってしまっていた陸は、廊下を歩き回るスリッパの音で目を覚ました。デンキ、消さないと。思ったが体が動かない。夢でも見てるんかなあ、それとも金縛りってやつかなあ、なんてことを考えながらそのまま寝ていると、足音は宿直室の方に近づいてきた。
誰か、用事かな。ほのぼの荘の入居者の中には、割と夜中にも構わず宿直室を訪れ、明らかに緊急ではないことを訴えに来るメンバーもいる。
「煙草一本くれへんか」
とか
「明日の晩御飯何食べたらええと思う?」
といった調子である。ある時などは、結構高齢の女性入居者が、戸を開けるなり畳敷きの宿直室にズカズカっと入ってきて、真ん中に座り込んだ。そしておもむろにシャツをはだけて、
「膏薬貼って頂戴」
と背中を見せて迫ってきたということもあった。さすがにその時は、腰を抜かしそうになった。常に勤務者がいる環境の中にあっての長い間の入院生活は、彼らからそんなことに頓着する習慣を失わせたのかもしれない。
そんなんやったらいややなあ。足音は宿直室の前まで来て、止まった。ほら来た、ノックするぞ。ところが、ノックの音はない。それどころか、キュルキュルっと盛大な音を鳴らすはずの古い引き戸はくすりともしないままだ。それなのに、なぜか畳を踏む音が聞こえてきた。誰か、入ってきた。一番奥に置いたベッドで壁を向いて寝ている陸の方に向かって、その気配は、ミシッミシッと近寄ってくる。うそやろ、何、なんやねんそれ。陸は頭の中で叫び声を上げる。でも、体は動かない。だんだん、息遣いまで届き始める。やがて、ベッドの真横まで来て、足音は止まった。一呼吸後。横になっていた陸は背後からいきなり両肩をガシっとつかまれた。
「うぎゃあああああ」
悲鳴を上げて跳ね起きる。宿直室は煌々と電気が付けっ放しだったが、誰もいない。鍵代わりの簡易のひっかけ金具も閉まったままである。陸はぜいぜいと言っている自分の息遣いだけがただ静かな室内に響くのを聞いていた。
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