第四章

 その晩、天宮さんの配信を聞きつつ(文化祭が近づいているから練習を頑張っているみたいな話だった)今後の方針を考えた。だが、どうすればいいのか明確な答えは出せないまま夜は明けた。

 寝不足の目をこすって空き教室の扉を開ける。小篠君はちょこんと座っていたが、大海君はまだ来ていなかった。…………僕がちょっと遅刻したのに、まだ来ていないってどういうことだろう。


「ごめん、遅れた」

「どうしたの?」

「寝坊した」


 夜が明けた後少しだけ寝ようと横になったらそのまま寝過ごした、という情けない理由だ。


「暑いし寝苦しいよね。エアコンつけて寝ているけど、今度はちょっと寒く感じちゃって」

「ハハハ……」


 なんか勘違いされたけど訂正はしないでおこう。

 小篠君はポケットからアメを取り出して口に放る。塩飴か何かだろう。


「熱中症対策かい?」

「お腹減ってるから舐めているんだよ」

「塩飴ってそういう意図で舐めるものなの……?」


 とりあえず椅子に座る。…………ああ、冷房の効いた教室は涼しいな。屋外と違って居心地がいい。ついつい心地よくなって眠く……ねむ……。

 ………………。

 ハッ、今完全に寝落ちしていた……。


「竜吾が来るまで寝ててもいいよ」

「そういうわけにもいかないんだ……」


 一分一秒が惜しいのに、さらに遅刻までしてしまった。ここで寝ている暇なんてない。暇なんてないが……それでも眠いものは眠いな……。

 黙っていると寝てしまいそうだから、とにかく何か話をしておこう。


「何かよさそうな方法考えてきた?」

「ううん、さすがにすぐには思いつかなかったよ」

「そうだよね……」

「氷室くんは?」

「僕もあまり有効な手立ては思いつかなかったけど、一つ考えたことがあるんだ」

「どんなこと?」


 塩飴を再度取り出して口の中に放り込んでから、彼は首をかしげる。


「今は教頭をどうにかする方法が見つからずとも、漫才の練習をしておかないといけないということだね」

「…………確かに、有志発表ができるようになっても練習してなかったらうまくできないもんね」

「うん。それに真面目に練習することが教頭を納得させることにつながると思うし」


 そもそも教頭としては有志が部活に劣ると考えているわけだから、練習しなかったら本当に劣ることになってしまう。それだけは避けなければいけない。教頭が突然『発表したくば練習の成果を見せろ』と言い出す可能性もなくはないのだから。


「とりあえず、大海君が来たら練習を始めようか。まずはそうだな……ネタ作りからかな……」

「わりぃー! 寝坊したー!」


 スパーン! と扉が開く音がしてそちらの方を見ると、大海君が汗だくで立っていた。


「…………始めようか」

「だね」


 大海君の汗がひくまでの間、簡単に今話したことを説明し、練習を始めることにした。


「課題はたくさんある」

「雅が嫌々やらされているってやつか?」

「それもだけど、他にもね」


 と言っても、二人とも始めたてで知識もそんなにないわけだから課題があるのは当然と言える。でも、いくつかある課題の中でも解決しやすいものはある。一つずつ解決していけば見られる漫才になるはずだ。

 僕は二人を交互に指さす。


「まずツッコミとボケ変えた方がいいんじゃないかな」

「なんでだ?」

「一見したイメージは大海君がボケで小篠君がツッコミだからだよ」


 大海君が何かやらかして、小篠君がその尻ぬぐい・フォローに回っている……数週間見てきた二人の関係性はこうだ。

 普段の関係性と違う役割を演じようとすると、そこには違和感が生まれる。そして、違和感に気を取られるといくら面白いことを目の前でやられていても笑えなくなってしまう。

 違和感を生じさせないために練習するというのも手だけど、時間も技量もない今は自然体に近い状態の方がうまくいくだろう。

 『漫才は日常会話の延長がベスト』というプロの言葉もあることだし……。


「普段と逆のことをやっていると無理しているように見えちゃって笑いづらくなる。だったら、普段に近いやり取りをした方が見ている方もスッと話に入り込めるよ」

「…………そんなもんか?」 

「僕が竜吾のポジションで試合していたら、見ている人たちはぎこちないって思うでしょ。そういう感じだよ」


 小篠君が大海君に例え話をする。

 野球のポジションが多少違うぐらいでどう変わるのか僕には何もわからないけど、僕は神妙な顔で頷いておいた。


「なーる、そういうことか」


 納得してくれたみたいだ。よかった、よかった。

 さて、一つ目は片付いた。次は最重要にして最も大変と言ってもいい課題だけど……。


「あとは、ネタをどうするかだね……」


 ネタを作りこむのとそうでないのでは、やはり笑いの量が違う。

 ネタが面白いというのは、ゲームで例えるなら装備している武器が強いということだ。使う本人のレベルが多少低くても武器が強ければある程度は戦える。だから、ネタは重要なんだ。


「ネタか……。俺も作ってみたけど、お前的には微妙なんだろ?」

「まあそうだね」

「何がいけなかったんだよ?」

「そうだな……やっぱり一番引っかかったのは小篠君の見た目をいじったことかな……」


 彼らのネタは小篠君の低身長をいじるものだった。

 それが絶対に悪いとは言わない。ハゲている人がいるコンビでハゲをいじることはあるし、不細工でモテない人が彼女を作りたいというネタをすることもある。

 だけど、僕はそれらのネタが好みじゃない。なぜならすごく安易に感じられるからだ。

 ハゲや不細工であることをメインに押し出せば確かに面白いかもしれないけど、それはその人の容姿を馬鹿にしているだけで、コンビのやり取りが面白いわけではない。実力がなくても見た目で多少笑いが取れるのは、漫才という芸能にふさわしいものではないと僕は思う。


「見た目をいじっちゃいけねえのか?」

「絶対にいけないというわけじゃないけど、オススメはしない。

 評価されている漫才師は容姿をいじるネタを主にはしていないしね。全員ネタを作りこんでネタの力で評価を勝ち取っている。

 本気を見せるのであれば、容姿をいじるなんて方法では伝わらないと思う」

「僕たちが天宮さんや教頭先生の心を動かすためには、見た目で笑わすなんて簡単な方法を取らない方がいいってことだね?」

「そういうこと。理解が早くて助かるよ」

「笑わせられたらそれでいいということじゃねえんだな」

「笑いにも、ネタやボケ・ツッコミが本当に面白くて笑っている場合と、スベった空気とかでつい笑っちゃう場合と色々あるからね。後者で笑いが取れていると思っちゃう人も一定数いるみたい」


 とはいえ、ここまで僕が言ったんだから二人が勘違いすることはないだろう。

 心構えはこれで問題ない。あとはそれなりに見られるネタを作って、しっかりと演じられること。


「ちょっと遠回りしちゃったけど、ネタが重要ってことはわかったでしょ。

 言っておくけど僕はネタを作らないから、面白いネタになるかどうかは二人にかかっているよ」

「え、そうなの? てっきり作ってくるって言うかと思ったんだけど」

「二人がやるネタなんだから二人がまず作った方がいいよ。僕はそれを見てアドバイスするだけ」


 僕が作っちゃうと二人は僕のネタをやらされることになってしまう。そうなると気持ちをネタに乗せることが難しくなる。これは二人に協力し始めたころから決めていたことだ。


「そうだな。なんでもかんでもやってもらうんじゃ面白くねえし、俺もそっちの方がいい」

「どうしても作ってほしいというなら考えるけど……」


 小篠君にそう言うと、彼は首を横に振る。


「ううん、氷室くんがそう言うならそれは大事なことなんだろうから、それに従うよ」


 そう言われると信頼してもらえているみたいでちょっと照れる。ただのいち漫才ファンだけど、きちんとアドバイスできているという気になってくる。

 その後、ネタをどうするか二人が話し合い僕は適宜口をはさむという形でネタ作りを行い、気が付けば正午を回っていた。

 持ってきたお昼を食べつつ、僕はスマートフォンでニュースを眺める。

 芸人が女優と結婚しただとか、都内のスイーツ店が人気だとか、政治家の汚職の追及があったとか、どうでもいい内容が連なる中、僕の興味は一つの記事に集中していた。


「『人気お笑いコンビ、移籍か?』だって……?」


 それは僕が単独ライブに行くぐらい贔屓にしている漫才師が、今いる大手事務所から最近できた弱小事務所に移籍する可能性があると報道するものだった。

 賞レースを含めいくつか大型タイトルを取ったコンビだ、漫才師としては順風満帆の状態だったのになんでこのタイミングで弱小事務所に……?

 その記事曰く、弱小事務所の社長と昔からの親交があったことが理由だと考えられるが、公式からの声明はないということだった。

 そうか、まだ可能性の話だった。推しだったからついついヒートアップしてしまって冷静に見られてなかった。

 それにしても事務所の移籍か……。よほど有名な人たちじゃない限りあまり話題にならないけど、知らないうちにいつの間にかやっている芸人もいるもんな。…………ん? 事務所?

 事務所の移籍について考えていたら、一ついいことを思いついた。これは悪くない手段かもしれない。


「おーい、ちょっといいかい?」


 すでにパン一つ食べ終えて(育ち盛りの高校生がそれだけで足りるのか……?)横になっている大海君と、空になった弁当箱三つを脇に置いて焼きそばパンの二つ目を食べている小篠君を呼ぶ。


「なんだよ」

「どしたの」

「…………あれ、今の一瞬で焼きそばパン食べきったの?」

「まあね」


 まだ七割は残っていたはずだ……それをどうやって胃の中に入れたんだ……?

 何か開けてはいけない扉を開けてしまいそうだからそれは考えないことにしよう。本題だ、本題。


「ちょっといいこと思いついたんだ。二人とも写真って用意できる? 面接とかで使われる証明写真なんだけど……」

「…………なんでだ?」

「あ、そうか。説明しないとわからないよね」


 いけない、いいこと思いついたからつい心地よくなって必要な説明が抜けていた。


「養成所に応募しよう。応募用願書のために写真が必要なんだ」

「…………なんでだ?」

「なんでって……」

「えっと、養成所に応募するために必要なのはわかるけど、応募する意味がちょっとわからなくて。漫才の腕を磨くため?」

「いや、それは目的じゃないよ。目的としては本気でやっているんだってアピールするためだね」


 養成所というのは、だいたいの大手事務所に併設されている。お笑いだけではなく場所によっては役者コースを用意している事務所もある。

 素人が突然どこかの事務所にスカウトされて所属することもあるし、どこかの師匠の付き人になって芸能界入りするということもあるけど、現在の芸人は養成所で学んで、そこを卒業してから正式に事務所に所属するというプロセスを踏むことが多い。

 事務所に所属したからといって絶対に売れるわけじゃないけど、とにかくただ芸人になるなら一番現実的な手段だ。

 だからこそ、養成所に入ろうとする意志を見せることは、芸人になることを目指す意思を示すこと。本気でやっているように見えるはず、という話だ。


「実際に選考に残れるかどうかはわからないけど、やってみる価値はあるんじゃないかな」

「仮に選考に残ってその養成所? に入れるようになったらどうするんだよ」

「そのあたりは二人に任せるよ。どうせ今から募集しても入れるのは来年度だし、そのころには進路を考えなきゃいけなくなる。そのまま芸人目指すなら入って損はないし、逆に選考に残ったからと言って必ず入所しないといけないわけじゃない。

 何よりお金がかかるわけだから僕からどうしろなんて言えない」

「でも、僕たち養成所の人に見せるようなのできてないよ」

「それは問題ない。だいたいの面接では芸を披露するようには言われないからね。普通の書類選考と普通の面接になっている」

「…………詳しいな。入ろうと思ったのか?」

「いや全然」


 ただ、前に好きな芸人さんがラジオでどうして芸人になったのかという話題の中で養成所の面接では芸を披露しないという話になったから、気になって自分で色々調べただけ。

 一部養成所の面接では芸を披露することもあるみたいだけど、大手では基本的に普通の面接で済む。事務所に入れるのに人格的に良くない人だと問題を起こしかねないから、常識的な人かどうかをしっかり見ているらしい。そのあたりは普通の会社と同じなのだろう。


「とにかく、養成所に応募してみるのはどうだろう」

「僕はいいと思うよ」

「悪かねえけど、アピールが露骨じゃねえか?」

「やれることは何でもやった方がいい、って話でしょ」

「そうだったな……。ま、やってみてもいいぜ」


 よしよし、これでひとまず前進といったところだろう。

 二人に写真を撮ってもらわないと始まらないので養成所の話はここまでにし、お昼休みの後、引き続きネタ作りに励むことにした。

 数時間後。


「…………じゃあ、少しできたし、ちょっとやってみようぜ」

「うん」


 二人は立ち上がって、黒板の前に立つ。

 姿勢を整えて、小篠君がゆっくりと口を開く。


「僕ね、大食いタレントになる夢があるんだけど、竜吾にはそういうのある?」

「そうだな……バーテンダーとかカッコイイからあこがれるな」

「いいじゃない。だけど、お客さんのオーダーにしっかりと対応しないといけないらしいよ。竜吾にできるかな?」

「そんぐれーできるわ、馬鹿にすんな。

 ちょっと見せてやるからお前お客さんとしてやって来いよ。見事にさばいてやるぜ」

「わかった」


 漫才には大きく分けて二つのネタの形式がある。

 一つはしゃべくり漫才。正統派・王道とされる漫才で、役に入ることはせず自然体の会話でやり取りをして笑いを生み出す。 

 もう一つはコント漫才。『俺〇〇やるから、お前××やって』と言って役に入り、芝居を進行させていく比較的新しい形式。

 二人は今、バーをテーマとしたコント漫才をしようとしているのだ。

 小篠君は上手の方に少し離れる。その間、大海君はシェイカーを振る動作をし始める。


「へえ、ここが新しくできたバーかぁ。ちょっと入ってみよう」


 小篠君が扉を開けてバーの中に入るパントマイムをすると……。


「ルルルルルルー、ルルルルル~」


 大海君がコンビニの入店音の声真似をした。


「え、なんで入店音が?」

「あ、いらっしゃい。ここもともとコンビニだったんで」

「音鳴る機械、外した方がいいんじゃない……?」

「いや~店長だった思い出があるのでなかなか外したくないですねぇ」

「あなた元店長なの!? なのにバーテンダーやっているんだ」

「ええ、よければこちらに来て注文なさってください」


 自分の前……1mぐらい離れたところを指さす大海君。

 小篠君はそのあたりで中腰になる。

 …………と、そこまでで二人の動きは止まった。


「…………こんな感じか。思ったより短けえな」

「結構考えたと思ったんだけどなぁ」


 二人はさっきまで座っていた椅子に戻ってきながらぼやく。


「氷室くん、どうだった?」

「ネタの中身というより、二人のやり取りのテンポをもうちょっと改善する必要はあると思うけど、小篠君のやらされている感はあまりなかったと思うよ」


 二人で話し合いながらネタを考えていたからだろうか、心なしかやっている途中も楽しくやっているように見えた。


「そうかな? あまり自分ではわからないけど……」

「いいことじゃねえか」

「二人がやりたいことをネタに入れていっているから、楽しめる余地があるんだろうね」


 ネタ作りはコンビの片方がネタを作ってきて、相方の意見を取り入れながらつめていくという方法が多いと聞いたとがあるけど、この二人には今のやり方が合っているように見える。


「明日からもこうやって作っていけばいいと思うよ」

「明日からって……もうそんな時間か」


 短い針が5を指している時計を見て大海君は感心したかのように言う。


「まだ三時ぐらいだろうと思っていたんだけどな」

「僕も今時計見て同じこと思った」

「もう少しやっても大丈夫だと思うけど、僕はそろそろ帰るよ」


 夕飯作ったり、掃除したりしないといけないし。

 二人はもう少しだけやってから帰るとのことだったので、明日の打ち合わせを少ししてから、僕は教室を出た。

 …………帰る前にトイレに行っておくか。

 夏場は水分をたくさん取ってしまうし、教室は空調が効いているのでそんなに汗もかかない。浴びるように飲んだスポーツドリンクのツケが膀胱にきたというわけだ。このまま帰路についてしまうと途中で漏らしてしまいそうだ。

 少し早歩きで近くのトイレへ。時間が時間なので人はいない。最奥の小便器の前に立って、すぐにチャックを開く!

 …………ふう。特に問題もなく開放された。

 しかし、結構溜まっているからさすがに出るな。例えばこのまま学校にテロリストがやってきたら、なすすべもなく人質になっちゃうなーアハハ。


「む、氷室ではないか」

「ひっ、テロリストか!?」

「…………君が何を言っているかわからないが」

「ああ、教頭先生か……。気にしないでください」


 突然トイレにやってきたのはテロリストではなく……今日もしっかりと着崩さずシャツとスラックスを着こなしている教頭だった。

 あんなことがあった昨日の今日で教頭の面なんて拝みたくない。だから、早くトイレから出たいけど……まだ尿が出きらない。

 クソッ、なんでよりによってここにこの人が来るんだよ。


「何か不満みたいだな」

「なんでここに? 先生には先生用のトイレがあるでしょう」

「数学研究室から遠いんだ。急ぎの時はここに来た方がいい」


 そう言って、彼はわざわざ僕の隣の小便器の前に立つ。嫌がらせか、この野郎。


「それにたまには一般トイレに来ないと、生徒が変なことをしているかもしれないからな。パトロールみたいなものだ」

「理想の教師アピールですか」

「私は理想の教師などではない。だが、そうでありたいと思っている」


 隣からジャーッという音が流れ始める。

 何がそうありたいだよ。その態度からは一切そういう感じが見えないぞ。


「そうでありたいと思っているなら、有志発表を取りやめるなんて馬鹿なことはやめるべきですね」

「私は教師ではあるが、教頭でもある。学校をよりよくするのは教頭の義務だ。

 我が校は部活動が盛んである以上、学校をよりよくするためにそれに力を入れるのは当然と言える」


 昨日もそうだったけど教頭の言っていることは理屈が通っている。

 だけど、理屈が通っていることが絶対に正しいことだとは僕には思えない。ましてやその理屈によって人を馬鹿にすることは許していいことじゃない。


「部活動のために他の生徒が犠牲になるなんて馬鹿馬鹿しいことですよ」

「強情だな。私の物言いが気に入らないのであれば言い方を変えるが、そういうわけでもないのだろう」

「はい。努力すべき道を見つけたのに、それを奪われて潰される人なんていちゃいけない」

「軽い気持ちではなさそうだな。実体験か、それともそういう人間を見たことがあるのか」


 その経験を語れば教頭の心は動くだろうか? ちょっと思ったが、そのために他人の悲しい過去を利用するのは悪いことだよな……。


「ご想像にお任せします」


 喉まで出かかっていた昔の記憶を飲み込みそれだけ言うと、教頭は意外にも興味深そうに言う。


「言わないということは、君自身が嫌な思いをしたということだ。当事者か部外者かを問わずにな。

 君の考えはわかったが、小篠たちがやっていることは努力すべき道と言えるのか?」

「どういうことです?」

「昨日も言ったが、思い出づくりに終わる程度の志なら意味がないということだ」


 その程度なら努力する意味がない、あるいは努力とは言えないとそう言いたいわけか。だけど、意味がないことなんてなぜ今わかるんだ。今、ひたすら頑張ることが未来でふとした意味を持つかもしれないじゃないか。

 それに、『今』思い出を作らないといけない人がいるんだ。未来で誇れるようになるために、『今』全力で頑張りたい人がいるんだ。そういう人のことを、教頭は無視している。


「今年の文化祭がこの学校に関われる最後の機会だから、全力で思い出を作りたいと考えている人のことは無視ですか?」

「誰のことを言っている?」

「天宮佳音さんのことです。十月に転校することを知らないなんて言わせませんよ」

「天宮か。無論知っている」

「彼女は本気ですよ。この学校で関わったすべてに感謝して、演奏をしたいと思っている。彼女のその気持ちは『思い出づくりに終わる程度』と言えますか?」

「彼女がどうかは君が語ることではあるまい。

 君がどれだけ本気か、そして君が協力している小篠ともう一人がどれだけ本気か。それを示さねば虎の威を借りる狐だ」


 また詭弁を言っている。思い出づくりに終わる程度ではいけない、だから有志発表を廃止するという話なのに、実例を出して反論したら論点をすり替えてなかったことにしようとしている。

 だけど、それを指摘する気にはならなかった。それをしても心証を悪くして事態を悪化させかねないし、前にも言ったけど、僕たちが本気でやっていることを示して真っ向から教頭の考えを打ち砕かないと意味がないのだから。


「では、具体的にどうしたら僕たちが本気でやっていると考えてくれるのでしょうか。

 形のある実績が欲しいということでしたら、今開催されている大会はもう募集を締め切っているとか、結果が出るのが十一月になっているとか、現実的ではないものばかりですが」

「どこかの養成所か事務所に所属するというのは……」

「養成所の面接ならすぐにエントリーできますが、それも結局書類審査と一般的な面接だけですし、結果が出るのに時間がかかります」

「…………ふむ、ではどのような手段がいいか考えてみろ。私も何か考えておこう」


 そう言うと、教頭は便器から離れ手を洗ってから外に出た。ハンカチは灰色だった。

 実績の話を続けたということは教頭としては僕たちの努力次第では有志を認める余地があるということだろうか。それなら、嬉しいんだけどな……。

 小便器の前、とっくに排せつ物を出し切った状態で僕は溜息を吐いた。

 トイレで思わぬ長話をしてしまったが、急いで家に帰っても誰もいない。父さんも母さんも仕事で帰りがいつも遅い。だから、いつも通り夕食を一人で食べてシャワーを浴びて、自室にこもる。

 六畳ほどの普通の部屋だ。部屋に入ってすぐ正面に窓があって、その下にベッドがある。

 椅子に座ってパソコンを起動…………そういや更新があるからすぐには起動しないのか。

 更新が終わるまでの間、席を立って本棚へ向かい、大量に並ぶ映像ソフトの背表紙を右から左へ眺める。こうして背表紙を眺めて今の気分に合うものを選ぶのがいつもの儀式だ。そして、今日目に留まったのは『バースデイ 2018単独ライブ』の背表紙。

 バースデイはここ数年人気と実力をめきめきとつけている若手の注目株のコンビだ。なぜこんなコンビ名なのかと言えば、コンビの二人の誕生日が同じ日だから。

 で、この二人の誕生日が確か今日だったはず……。偶然にもこの背表紙が目に留まったのはもしかすると神様のお導きかもしれない。

 僕は『バースデイ 2018単独ライブ』のケースを取り出し、そのまま席に座った。

 更新は終わっており、僕はディスクドライブに単独ライブのディスクを入れる。ウィーンという小気味のいい音を聞きながら映像が出てくるのを待つこの時間がなんか好きだ。

 …………ああー、どうしたらいいんだろう。

 僕たちが何をすれば、本気なんだと言えるんだろう。何をすれば認めてもらえるんだろう。答えが欲しくて直球で教頭に聞いてみたけど、教頭その人が明確な答えを持っていないという次第。

 ネットでよく見る「私がなんで怒っているかわかる?」って聞いてくる面倒くさい彼女や、「何が悪いのかは自分で考えろ」とパワハラしてくる上司みたいなことをされている。パワハラ上司ならさっさとその会社をやめればいいけど、今回は引くわけにはいかないんだ。

 と、考えていたらディスクは正常に起動し、メニューがディスプレイに映っていた。最初から見たり、チャプターを選択して見たり、その辺は映画のDVDと変わらないけど、今日はなんだか最初から見たい気分だ。

 一瞬真っ黒い画面になって、それからライトに照らされ中央にスタンドマイク一本だけ立っている舞台が映る。

 舞台の上手・下手それぞれからスーツ姿の男が一人ずつ出てくる。


「どーもー、伊達です」

「後藤です」

「「バースデイですよろしくお願いしますー!」」


 二人の挨拶の後に、バースデイの漫才が始まっていく。タクシーの中で運転手と客が会話を繰り広げるという設定のコント漫才だ。

 丁々発止のやり取りで観客から笑いを引き出していく。会場が揺れんばかりの笑い声だ。

 ここまで笑らせられるのは彼らの実力が高いからと言わざるを得ないな……。

 二人ともテレビ局のお偉いさんの子供で、それゆえ同業者やお笑いファンからは結構冷たくされた時期があった。曰く親のコネを使って売れたんだ、曰くテレビ局のごり押ししかない雑魚。

 そんな声を実力で黙らせてきた。関西で優秀だった新人に贈られる賞をもらったり、全国規模の漫才大会で好成績を修めたり、本当に実力があるものだけが手に入れられる称号をいくつも手に入れたりした。

 コネだなんだと言っていた人たちはいつしかいなくなり、単独ライブのチケットを取りたくても取れないほどの人気あるコンビとなったんだ。

 僕もこの二人に魅了された者の一人。小篠君と大海君がその気ならバースデイのようになってほしいものだけど……。

 …………いや、なればいいのか?

 ふと僕は気が付いた。教頭を納得させるにはどうしたらいいのか……それはとても単純なことなんだと、バースデイの漫才を見てわかった。

 漫才をしっかりやっていることを示すなら、見ている人を心の底から笑わせること。楽しませること。

 万の言葉を尽くしても、千の策を弄しても、たった一度の笑いには勝てないんだ。面白ければ、それが正義だ。それ以上に人に漫才への誠実さを証明できる方法はない。

 教頭を心の底から笑わせてやる。それが教頭から課せられた問題の答え。

 それに気が付いた僕はとてもスッキリとした気持ちでバースデイの漫才を見ることができたのだった。




 今日も小篠君と大海君は二人でネタ合わせしている。二人が一晩考えた細かいネタをパッチワークのようにネタ台本に入れていく。


「このネタ、終わりごろに活かしてみるのいいんじゃねえか?」

「あー、それ結構面白いかも。じゃあここをさ……」


 順調そうだ。二人の会話がひと段落したときに話しかける。


「ちょっといいかな?」

「なんだよ?」


 昨日の教頭との会話と、その晩気づいたことを話す。


「そういうわけで、事務所へ応募するための顔写真や書類はひとまずいらない。集中して漫才に取り組んだ方がいいと思うんだ」

「シンプルでいいじゃねえか。教頭を実力でわからせてやるってことだろ?」

「そういうこと」

「応募がいらないなら、これもいらないね」


 小篠君はバッグからクリアファイルを取り出す。中にはルーズリーフが何枚かと、CD-ROMが一枚。


「これは……」

「履歴書に書く志望動機を考えてきたんだー。こっちは顔写真のデータが入ってるね」

「なるほど……」


 暇でもないだろうに、昨日の今日でわざわざ用意してくれたのか。それを無碍にする結果になってしまって申し訳ないなぁ。


「ごめん、必要なくなっちゃったね」

「いいよ、いいよ。こういう芸能事務所に送る志望動機考えるのは結構楽しかったよ」

「写真は……」

「データなら来年の受験でも使えるでしょ。気にしなくていいってば」

「そう? それならいいんだけど……」


 朗らかな笑みでそう言ってくれればこちらとしても気が楽だ。だけど、ここからは気が楽なんて言っていられない。


「それなら漫才を仕上げることに集中して。今どのくらいできているの?」

「七割くらいだな」

「ならとりあえず全部繋げて完成させて、それから実際に試して調整をしていった方がいい。最初から完璧にすることを考えていたらいつまでたっても終わらないから」

「わかった、完成させて練習してみるね」

「お願い。僕は教頭と話をしてくる」


 教室から出て数学研究室へ。適当にノックして中に入る。


「二年D組の氷室です。教頭先生は……いますね」


 というか教頭しかいなかった。席に座って何やら本を読んでいる。あれは僕も読んだことがある。というか、家にある。

 彼が読んでいるのは著名な漫才師の自伝だ。自伝だけど、漫才についての指南も記載されていて、漫才師が出版した本としては異例のベストセラーを記録した一冊。

 その本を閉じて教頭はこちらをいつもの冷たい目で見る。


「氷室か。何の用だ」

「昨日の宿題が解決できそうなので報告しに来ました」

「ふむ……」


 本を脇に置いて僕の方に向き直る。


「聞こうじゃないか」

「今読んでいた本は漫才の本みたいですね」


 その本の下にも何か本が置いてあるがあれはなんだろう?


「課題を課した以上、私もある程度知っておかねばならないだろう。

 では、報告したまえ」

「はい」


 さて、教頭は僕の提案に乗るか反るか。

 口の中が渇いていくのがわかったが、知らないふりをして話を始める。


「教頭は、漫才師が価値を認められるには何が必要だと思いますか?」

「価値か。…………そうだな、やはり何か賞を取ることが大事だと考える。漫才師に限らず、芸能に身を置く者で高い評価を受けているものはたいてい何かしらの賞を持っているだろう」

「それはおおむね間違いではないと思います。だけど、それだけでもないとも思っています」

「と言うと?」


 僕は一度大きく息を吸い、唾を飲み込んで説明する。


「漫才師の中では、著名な賞を取っていないにも関わらず、高い評価を得ている人たちがいます。そういう人たちは素人からはあまり注目されませんが、同業者からリスペクトされ、舞台袖にたくさんの芸人を集め慕われています。

 なぜ彼らが高い評価を得ているのか。それは単純明快に『面白い』からです。

 教頭の理屈では賞を取っている者が優れており、評価されているということですよね。しかし、賞を取らずに高い評価を受けている人たちもまたいるのです。彼らは真剣に漫才をやっていないでしょうか?」


 僕の言葉を聞いてから教頭は少し考えて、口を開く。


「いや、その彼らも正しく漫才師だと言えるだろう。面白いとされ、評価されているのだから」

「ですよね。つまり、漫才師を漫才師たらしめているのは賞を取っているかでも売れているかでもなく、漫才という話芸によって人を笑わせていることなんだと言えるはずです。

 そこで、提案です」

「言ってみろ」

「小篠君と大海君の漫才を、教頭先生が見てくれませんか。一人で不服なのであれば、他の先生を呼んでいただいてもかまいません。

 漫才を見て面白いと思えたら、僕たちが真剣にやっていると認めてほしいのです。漫才を真剣にやるということは、本気で人を笑わせようとすることですから」

「………………」


 教頭は黙り込む。冷たい瞳を閉じて、少し下を向いて、手を顎に添えて。彫像のように微動だにせず、その場で考え込んでいる。

 …………どうだ? 僕の想いは教頭に届いたのだろうか。

 お互いに何も言わず、動かない時間がただ過ぎていく。時が止まってないとわかるのは外でセミが鳴いているからだ。それがなければ、あるいは本当に時間が止まってしまっていたかもしれない。

 どのくらい時間が経ったかはわからないが、おもむろに教頭が口を開いた。


「君の言うことは理屈が通っている。ただ、情動に身を任せただけではない。…………いいだろう、君の提案に乗ろう」


 …………よし。

 心の中でガッツポーズをする。ようやく、ようやくこちらの土俵に上がってくれたのだ。これで希望は見えてきた。


「ありがとうございます」

「だが、期日やどのように判定するかはこちらで決めさせてもらう」


 そう来たか。当然の条件と言えばその通りだけど。

 ここでそれを断ったらこの提案そのものがご破算になりかねない。条件を呑むしかないだろう。僕はうなずく。


「用件は以上か? なら戻りたまえ。ここにいる時間ですら惜しいはずだ」

「はい。失礼します」


 …………なんか今日はやけに優しい気がするけど、まあいいや。

 僕は一礼して数学研究室を出る。

 なんとか教頭を説得することができた。どんな条件を出されるかはわからないけど、それは事実だ。教室へ戻る足取りは軽かった。

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