第三章

 病院の診察では脳にダメージはないが、今年の夏は猛暑続きなので一週間は家で安静にしているようにとのことだった。

 だから、僕は一週間家でゆっくりと過ごしていたわけだけど、これが僕にとっても小篠君と大海君にとても不運な期間だった。

 喧嘩別れした大海君は僕と会うことはなく、気を使って休ませてくれたのか小篠君とも連絡を取り合わなかった。そして、間の悪いことに一週間後はちょうどお盆の時期となっており、部活や文化祭準備などで登校できなくなってしまった。

 僕はお盆の期間も変わらず家にいたのだが、大海君と小篠君はそれぞれ両親の実家に帰っていたのか、この期間に二人と連絡することはなかった。

 …………この空白の二週間のために、漫才という要素でつながっていた僕たちの関係は自然消滅してしまったのである。

 お盆休みが明けて、僕は学校に足を踏み入れた。

 今日会う約束なんてしていない。だけど、部屋でじっとしていたらそのまま休みが終わるまで無気力に過ごすことになると思ったからだ。

 とりあえず教室へ行くと、クラスメイトたちが何人か……女子の方が多いかな、集まっていた。突然教室に入ってきた僕に何人か首をかしげるが、そうじゃない人が僕に話しかける。


「氷室くん、突然どうしたの?」

「夏休みに入ってから何も手伝えてないから、何かできることないかなって。迷惑だったかな、委員長?」

「そんなわけないでしょ。手伝いは二十四時間受付中だから」


 そういうわけでクラスの出し物を手伝うことになったんだけど、こっちはこっちで結構苦戦しているみたいで……。


「今何やってるの?」

「映像を撮るためにどういった場所を、どういう風に紹介するか考えているの」


 映像? …………ああ、そう言えば学校を紹介するプロモーションビデオを作成するんだったっけ。紹介するための台本を考えているって感じかな。


「今は何の紹介を考えているの?」

「部活ね。部活の中でもいくつか候補をあげたんだけど」


 リストには野球部・剣道部・バスケ部・レスリング・演劇部・書道部・写真部・科学部と書かれており、その隣にはそれぞれの部長と思われる人物の名前が併記してある。

 メジャーどころとマイナーどころを取りそろえた面白いリストだと思うけど、どういった選定基準なんだろう。

 それを聞くと委員長は言う。


「だいたい優秀な成績を残したところね」

「なるほどね」

「あと、撮影する許可をもらったところだな」


 別の生徒が補足する。

 逆に言えば許可をもらえなかったところもあるわけか。

 確か美術部なんかは去年、全国規模のコンクールでそれなりにいい結果を出していたはず。だけど、そういう人たちは目の前の作品に集中したいとか、完成していない作品を見られたくないとかあって撮影を断ったのかもしれないなぁ。

 で、これらの部活をどう紹介するか悩んでいるというわけで、女子生徒の一人が音を上げる。


「部活以外のことも紹介しないといけないから、ここでたくさん尺を使うわけにもいかないし困りましたね……」

「編集の時間のことも考えると長々と撮影するのは難しいもんな」

「…………と、いうわけなの」

「ふむ……」


 プロモーションビデオなわけだから、そんな長々と……例えば一時間流すなんてできないだろう。少なくとも学校の紹介でそれだけの時間をもたせるのは無理だ。

 かといって、現状ある要素をすべて入れようと思うと長くならざるを得ない……。


「いくつか削っちゃダメなの? 部活の紹介でもいいし、他のでもいいけど」

「わざわざ協力してくれると言ってくれているのに削るなんて失礼なことできるわけないでしょ。他のだって極力必要最低限に収めてこれなんだからこれ以上やりようないわ」

「なら、全部入れるしかないね」

「それができないって話をしているんだけど……」


 じとっとした目で僕を見てくる委員長。他の学生たちも呆れた表情だったり、嘲る表情だったり。


「後からやって来て勝手なこと言うなよ」

「そうだ、そうだ。俺たちの苦労も知らないで」

「全部入れられるわけないじゃない」


 なんだよ、その態度。曲がりなりにも意見を出そうって言うのにさ。


「そりゃ全部の部活を何十分も紹介することはできないさ。

 それができないのは僕たちがそれぞれの部活がどういうことをしているか詳しく知らないからでしょ。

 だったら、それぞれの部員に取材して『ウチの部ではここを一番力入れています』ってことを聞いて、それを紹介するような構成にすればいい。ただそれだけなら大して尺も取らないはずだし、でも部活の要点を説明できる」


 例えば剣道部が練習しているのは知っているけど、どういう目的でやっているのかまでは僕は知らない。それは試合に勝つためなのか、楽しむためなのか、はたまた自分を磨くためなのか。

 たぶん部活について知りたい人たち――文化祭は外部の人も来るから、ウチの学校を志望する中学生も来るだろう――そういう人たちはどういう内容をやっているかというより、どういう目的でやっているかの方が知りたいんじゃないかなと思う。

 いくら好きなことでも目的が違う人たちの中でやるのは辛い、そういうことを事前に知れるというのは需要があるはずだ。

 と、そう考えたので提案すると、委員長がうなずく。


「確かにそういう方向なら短く、かつ必要な映像は撮れるわ……」

「それいいんじゃない?」

「俺、さっそく連絡してみるよ」


 他のクラスメイトたちにも好感触みたいだ。良かった、良かった。


「よく思いついたわ、そういうこと」

「最初から関わってないで今日突然来たからだよ。そうじゃなかったら、捨てるに捨てられず同じ思考に陥っていたさ」


 最初から成功させようと頑張っていた彼らは同じ目的で集まっているので、様々な視点を見失いがちだっただろう。

 だけど、僕は今日初めて彼女らが何をしようとしているか知った。だから、客観的にものが見られたに過ぎない。そんな誇るようなことでもないんだ、こういうのは。

 部活紹介についてうまくまとまり始めた後も、僕はクラスメイトたちを手伝った。手伝うと言ってもアイデア出しがメインで、各所への根回しみたいなことは顔の広いクラスメイトがやったわけだけど、去年の文化祭はクラスの手伝いなんてしなかったからかなり新鮮で楽しい時間だった。

 時刻は正午を回って用事があるものは帰宅し、そうでないものはお昼休憩をはさんで午後も少し準備を進めるということになった。

 僕は南棟の『聖域』で一応用意しておいたお弁当を食べてゆっくりしていた。

 …………クラスメイトたちと完成に向けて頑張るのは楽しい。それなのに心の中では離乳食を噛んでいるような物足りなさがあった。

 その理由は一人でいる今ならなんとなくわかる。きっと『そこ』に『僕』がいないからだ。

 クラスメイトに混ざってショートムービーを完成させようとしているけど、それは僕がいなくちゃいけないわけじゃない。僕がいなくても他のクラスメイトが代わりに意見を出して話が進んだはず。それが今日か明日かはたいした問題じゃない。

 僕がいようがいまいがある程度のものが完成して、ある程度の評価を得て、そうして文化祭が終わっていくのだと思う。

 だけど、その文化祭に一つ、僕がいる意味があるとしたら。僕が僕として貢献できることがあるとしたら。それはやっぱり、大海君と小篠君とともに漫才を作り上げることだろう。

 夏休みが始まってからの数週間ほど、僕が僕らしくいられた日々はこれまでの十六年で一回もなかった。ただ、右から来たものを左へ流すだけの、味のしなくなったガムみたいな人生でしかなかったんだ。

 そして、今また味のしないガムを噛んでいる。


「はぁ……」


 彼らはきちんと目指すべき方向に進めているのだろうか。やるべきことを見失って喧嘩なんてしてないだろうか。

 スマートフォンを見るも、連絡は来ていない。便りがないのは良い便り、という言葉もあるけれど……。

 荷物をまとめて視聴覚室へと向かう。が、扉は閉ざされている。


「………………」


 いくら待っても開かないし、彼らは来ない。ただ耳鳴りがしそうなくらい静かなだけ。

 名残惜しい気持ちはあったが、午後も作業をするために教室に向かっていると、その途中の廊下で二十人ほどの学生がたむろしていた。

 ウチの学校の普通教室がある中央棟と北棟、西棟は上から見ると八角形になっている。それはもともと特定のホームルームを持たず、大学みたいに授業ごとに教室を移動していた名残で、移動をスムーズにするためか教室が円形に配置されている。だから廊下も環状になっていて、普通に歩いていると元の場所に戻ってくる構造だ。上から見ると廊下は八角ナットのようになっているに違いない。

 そんなわけだから、廊下と言っても場所によってはちょっとした広場になっていて、二十人前後の学生がたむろしているのはそういう場所だった。

 それにしても、どういう集まりなんだろう? 男女がバラバラで、制服を着ている人たちもいれば、学校指定のジャージを着ている人たちもいる。そのジャージの色がバラバラなので、学年も入り混じっているのだろう。

 性別も服装も学年も全然違う集団とは……?


「む?」


 注視していると、男子の制服を着たあまりにも小柄な学生が目に入ってきた。見知らぬ女子学生と会話しているのは、間違いなく小篠君だった。

 どうしてこの集まりに……?

 不思議に思って見ていると、それに気が付いたのか小篠君は僕の方を向いた。そして、近づいてきた。


「氷室くん! 怪我はもう大丈夫?」

「う、うん……。後遺症もなさそうだから」

「よかった、よかった。連絡何もなかったから不安だったよ」

「治ったとも言えないし、そこは少し困っていて……」

「別に気にしなくていいのに」


 そうなのか? しばらく連絡が空いたらどう切り出すか困りそうなものだけど……。小篠君ぐらい人と接する機会があれば別なのだろうか。友達多いみたいだからなぁ。

 そんなことを考えていると小篠君が言う。


「ところで聞いてよ。僕たちピンチみたいなんだ」

「ピンチ? どうして?」

「有志発表がなくなっちゃいそうなんだって!」

「え……?」


 な……なんだってー!?


「どどどど、どういうこと!?」

「詳しくはわからないけど、なんか教頭先生が今年の文化祭から有志発表をなくすと言ってるんだって」

「なんで!?」

「詳しくはわからないの!」


 ああ、そうだった。あまりにも気が動転していて考えてなかった。

 しかし、有志発表がなくなってしまうってことは天宮さんの歌もなくなるってことか!? それは一大事だ……。

 では、ここに集まっている人たちはもしかすると……?


「他の人たちは有志発表をする予定だった人たち?」

「うん。みんなでどうしようかって集まっていたわけ」

「大海君は?」

「別件で呼び出されているからここにはいないよ」

「別件?」

「なんか進路のことらしい」


 進路か……。僕もぼちぼち考えないといけないな……。って、それどころじゃない。有志発表がなくなってしまう方が今は一大事だ。なんとかできないのだろうか……。

 すると、集団の中から怒号にも似た大声が聞こえてきた。


「こんなところにいてもラチがあかねえ! 教頭に直談判しに行こうぜ!」


 一人の眼鏡をかけた男子生徒があげた狼煙が他の生徒を活気づける。


「おお!」

「そうだそうだ! 殴りこもう!」

「理由も言わず一方的に廃止なんて間違ってる!」


 ヒートアップした学生がそのまま移動を開始する。本気で直談判しに行くつもりなのだろう。

 残った学生たちは、彼らの行動に困惑していて止めようとはしなかった。


「僕たちも行こう、有志発表を取りやめにする理由がわかるかもしれない」

「そうだね。理由もわからないまま中止にされるのは僕も嫌だ」


 こうして僕と小篠君は直談判しに行った学生たちについていくことに。

 教頭先生は数学科の先生なので、普段は数学研究室にいる(ウチの学校は担当教科ごとに一つ部屋が割り当てられるのだ)。

 扉の前にやって来た学生は、僕と小篠君を含めて六名。そのうちの眼鏡をかけた一人(便宜的にアルファと呼ぶ)がドアを少し乱暴にノックする。

 中から「どうぞ」という声が聞こえたので、みんなで入る。

 数学研究室の中は一般的な職員室を縮小したような様子で、教員用の机がくっついて一つの島を作っている。

 壁にはたくさんのファイルが入った本棚が並んでいる……おそらく学生たちの成績の情報などが収納されているのだろう。

 奥の方には黒板用の分度器やコンパスの類が置いてあるけど、最近は授業がないから少し埃が被っているように見える。

 と、そんな風にキョロキョロしていると、ドアに最も近い机にいる一人の若い男性教諭が立ち上がった。


「どうしたんだ、大所帯で」


 去年、数学Aを教えてもらっていた先生だ。名前は忘れた。

 アルファは言う。


「教頭先生に用事があるんすけど、いますか?」

「教頭先生? おそらく、部活に顔を出しているんじゃないかなぁ」


 顎に手を置いて記憶を探るようにゆっくりと先生は言う。部活に顔を出しているということは教頭先生は何らかの部活の顧問なのだろう。


「なあ、教頭先生ってなんの顧問だったっけ?」

「男子バレー部じゃなかったか?」

「男子テニスだろ?」


 アルファ以外の男子がこそこそと話をしている(便宜上、この三人をベータ・ガンマ・デルタとする)。

 で、実際どれだったっけ?


「男子バスケじゃなかったかな? バスケ部の友達が教頭先生の指導が結構厳しいと言ってたよ」


 バスケ部なのか。地区大会で上位にいけるぐらいには強い部だから、今も様子を見て指導をしているってことかな?

 とりあえず、ここにいないことはわかった。先生にお礼を言って部屋から出ていこうとすると、


「なんだ、大人数で詰めかけてきて」


 渋い低音ボイスが耳朶を打つ。その場の全員がその声がした方を向くと、そこには白髪頭の五十代の男性が立っていた。


「教頭先生、お疲れ様です」

「ああ、近藤先生もお疲れ。君は部活に顔を出さなくていいのかね?」

「ええ、彼らは自立してしっかりやれているので」

「なによりだ。私もそうでありたいのだが、彼らにはもっと上を目指してもらいたいものだからな、頻繁に顔を出してしまう」

「だからこそバスケ部は強いわけじゃないですか」


 先生……そうそう、近藤って苗字だった。

 その近藤先生と話している教頭先生は、普段僕たちが目にする厳しい顔ではなかったが、僕たちの方を向いたとたん、実験用のモルモットを見る学者のような顔になる。


「それで、諸君はどうしてここにいるんだね? 見たところ私に用事があるみたいだが……」

「はい、教頭先生に話があってきました」


 言葉遣いこそ丁寧だがどこかとげとげしい語調で話すアルファをものともせず教頭先生は自分の席に座る。


「どういった話だね? 内容次第では専門の人間を紹介するが……」

「文化祭の有志発表の話です。聞けば教頭先生が有志発表をなくそうと考えているそうじゃないですか」

「なんだ、その話か……」

「………………」


 アルファは何も言わない。だけど、怒りが立ち上っているのが後ろからでもわかる。

 それに気が付いていないのか、あるいは気が付いていても気にしてないのか、教頭先生は調子を変えない。


「有志発表を廃止しようとしているのは事実だが、それを知ってどうする」

「どうもこうもないですよ! 有志発表をさせてください!」

「諸君らは有志発表がそれほど大事かね?」

「当たり前でしょう!」


 アルファの怒号に合わせて、ベータ・ガンマ・デルタもそうだそうだと声を上げる。近藤先生はオロオロとしているだけ。


「なぜだ? 自分を表現する場であればクラスの方でやればいい。それでは不満かね?」

「俺たちのやりたいことがクラスじゃできなかったんだ! だから有志発表でやりたいと思ったのに……」

「君のクラスの発表がどう決まったのか知らないが、君たちのやりたいことができなかったのは、周りを動かせるほど情熱がなかったからではないかね?」

「………………」


 四人は何も言えなくなってしまう。怒りを抑えているからなのか、それとも教頭先生の言葉に反論できないからか……。

 僕は彼らの前に出る。


「彼らが何をやっているかも知らずに情熱がないと言うのは、あまりにも一方的な意見じゃないですか」

「君は……二年D組の氷室透夜か」

「僕をご存じなんですね」

「優良な学力を持っているようだからな」


 なるほどね。それは裏を返せば成績が不良な人間は覚えちゃいないってことか? まあいいや、僕のことを知っているならある程度話を聞いてくれるだろう。


「お褒めに預かり光栄です。一つ質問をいいでしょうか?」

「言ってみたまえ」

「なぜ有志発表を取りやめようと考えられたのですか? 取りやめたところで文化祭実行委員の仕事が楽になる以外良いことはなさそうですが」

「くだらないからだ」

「くだらない?」


 みんな発表のために一生懸命頑張っているだろうに、それを見ずにくだらないってなんだよ。

 カチンときたが、今怒っても何にもならない。落ち着いて話を聞こう、まずはそれからだ。


「何がくだらないと言うんですか?」

「部活やクラス発表と比べて低俗だ、という話だ。

 有志を除けば合唱部や演劇部といった部活が体育館での発表を行う。彼らはみな日々部活という形で技術を磨き、場合によっては他校との切磋琢磨によってより高みを目指していく。

 一方で有志発表はどうだ? 文化祭で発表する以上のことは考えているのか? その後どこかで活かすでもなく、ただの思い出づくりであるなら、高みを目指す部活動と比べて稚拙だ。だから、くだらないと言ったんだ」

「部活動だって思い出づくり足りえませんか」

「技術研鑽の上での思い出づくりか、思い出づくりのための研鑽か、どちらが上かは言うまでもあるまい」


 やたら決めつけているけど、教頭先生の言うそれは間違っている。そりゃ思い出づくりのために有志発表をしたい人たちもいるだろうけど、例えば天宮さんは思い出づくりの上で、文化祭に発表する以上のことをやっている。少なくとも、変な部活よりかはよっぽど真剣に音楽に取り組んでいるとすら言える。

 それに人の努力を部活やっているかいないかで決めるのはどうかしている。

 そう思ったのは僕だけではないようで、ベータが後ろから叫ぶ。


「部活動をやっていればそれが偉いのかよ! やってない俺たちはアンタにとってはくだらない存在か!?」

「部活だからとか有志だからとか、そういうことで決めるのは一方的で理不尽なことです」

「では、有志の君たちが学校に還元できることはあるか?」

「学校に還元……?」

「我が校は部活動が盛んなことで地域では高い評価を受けている。優秀な成績を収める部は一つや二つではない。彼らが良い成績を残せば残すほど、学校の評価は上がる。その理屈はわかるだろう」


 それはわかる。何もおかしくない。


「文化祭で発表を行う文化部の中には、文化祭が終わった後すぐに大会に参加するものもある。

 一例をあげると演劇部は文化祭のわずか二週間後には秋の大会だ。そこで勝ち抜けば県大会、関東大会、そして全国大会へと行くことができる。文化祭での発表はいわば、秋大会で大きく飛ぶための助走と言える。

 つまり、彼らに練習の場を与える代わりに、良い成績を残してもらうわけだ。逆に言えば、文化祭で発表をすることで良い成績を残し学校の評価に還元している。

 有志発表にはそういうものがないだろう」

「………………」

「そういった文化祭を貴重な練習の場としたい生徒からしたら、有志は邪魔というわけだ」


 詭弁だ。学校運営者として立場と、部活動に熱心に取り組む学生の代弁者としての立場を混ぜて、有志発表を望む学生たちは異常者だとレッテル貼りをしているだけだ。部活をやっている学生の全員が全員有志発表を邪魔だと思っているわけがない。

 太宰治の『人間失格』の一節、『これ以上は、世間が、ゆるさないからな』と同じ。発言を自分のものじゃなくて、あたかも学生たちの総意かのように言うことで、責任を回避しつつ疑似的にマジョリティを形成する最低のやり方だ!


「有志が邪魔だと言う学生しかいないわけがないでしょう!」

「君は悪魔の証明をしろと言うのかね? わざわざ全員に聞くわけがないだろう。無論、有志発表があっても良いと考える生徒もいるだろうがね」

「なら有志発表がいらないという納得できる理由になっていない! 聞く限り教頭先生が一方的に気に入らないから廃止しようと考えているようにしか思えません」

「私には、君はどうしても有志発表をやりたいから納得したくないようにしか見えない。そこまでしてやりたいことはなんだ? 話してみたまえ」

「漫才です。正確には僕じゃなくてこの小篠君ともう一人がコンビを組んで披露したい、という話ですが。僕はアドバイスをして協力しています」

「君がやるわけではないのであれば、ますます君がここまで食い下がるわけがわからんな」


 食い下がるわけ? そんなのは単純明快だろう。


「二人が一生懸命考えて練習してきたことを知っていて、その努力をふいにしてもらいたくないからです」

「フン、どれだけ高尚な理由かと思ったらそんな理由か」

「…………何がいけないと言うんですか?」


 奥歯を思い切り噛んで、痛いぐらい拳を握って耐える。怒ってはいけないんだ、それではこちらの印象をますます悪くするだけ。

 しかし……。


「私は漫才に詳しくないが、学ぼうと思ったら養成所というものがあるんだろう? そういう養成所ではなく、素人の君が教えて何になる。

 彼らは養成所に行く覚悟もなく、素人の君に教えてもらって漫才ができるつもりで終わりたいのだ。

 つまり、この高校二年生のひと夏、漫才をするために努力した気になって文化祭で披露して、辛い練習だったけどたくさんの人に見てもらえてよかったね、という思い出を作って自分を納得させたいだけ。子供がままごとをするのと何も変わらない、低レベルで意味のないことだと言わざるを得ないな」

「ッ!」


 自分でも驚くぐらい、一気に怒りが沸騰した。


「ふざけんな! 人がどれだけ努力をしたのかも知らず一方的に意味がないと決めつけて、それでも教育者か! 大人か!」


 頭にきた。人の努力を馬鹿にしたり、茶化したりする人間の屑はこの場にいちゃいけない。ぶん殴ってやらないと、そういうことがわからないだろう。


「氷室くん、駄目だよ抑えて!

 みんなも見てないで一緒に止めて!」

「お、おう!」

「離せ! こんな人間が教頭だなんておかしいんだ!」

「だからって暴力は駄目だよ!」


 小篠君が腰を、アルファらが腕を抑えてそのまま僕を引きずる。

 しかし、僕の目には冷たい笑みを浮かべている教頭しか見えていない。


「人の努力の邪魔をするのがお前の教育か! 笑うのが高尚なことか! そんなことをするお前が一番低レベルな人間だ! 人の足を引っ張ることしかできないなら今すぐ教師をやめろぉおお!」


 僕の叫びは閉じられた数学研究室の扉にむなしく反射するだけだった。


「くそっ! くそっ! 離してくれ、君たちは悔しくないのか!」

「悔しくないわけがあるか! だけど、殴ったらすべてパーだ!」

「とりあえず落ち着けって、な?」


 左右からベータとガンマの声が聞こえる。二人は案外冷静みたいだ。


「君が教頭を殴って停学なんかになったら誰が僕たちを見るの!」


 彼らに追従する小篠君の声。

 怒りの原因から離されて、それから説得されていたら少しずつ落ち着いてきた。怒りで握りこんでいた拳をゆっくり開いていく。…………なんか冷静になったら痛く感じてきたな。


「大丈夫? 落ち着いた?」

「…………一応ね。怒ってはいるけど、怒り狂ってはいないよ」

「そっか。よかったぁ」


 顔をほころばせる小篠君。なんだかその笑顔を見るのが申し訳ない。


「迷惑かけちゃってごめん。みんなのお陰で暴行をせずにすんだよ」

「なに、いいってことよ」

「暴力はまずいけど、俺たちの代わりに教頭に怒ってくれて嬉しかったぜ」

「教頭先生の言い方があんまりだから怒るのはしょうがないよ」


 どこか晴れやかな顔をしているアルファと比べると、小篠君は眉をひそめて少し怒っているようだった。

 小篠君がそんな態度をとるなんて意外に感じたが、それだけ彼も教頭の言うことは腹に据えかねたということだろう。


「確かに教頭の野郎、ふざけた理由で発表をやめさせやがって……!」

「正当な理由があるならまだしも、あれじゃ文化祭を私物化しているようなもんじゃねえか!」

「キレててもしょうがない、どうしたらいいか考えようぜ」


 あわや暴力事件を起こしかけたが、今回の直談判でなぜ有志発表を廃止したかその理由が分かった。

 だけど、僕たちはそれに到底納得できていない。廊下に残った他の参加者も理由を聞けば同じ気持ちになるだろう。

 なんとしても、有志発表をできるようにしなければならない。小篠君と大海君、未知なる領域への挑戦を選んだ彼らの努力を無駄にしないために。アルファたちの青春のために。

 そして……転校してしまう天宮さんの思い出のために。

 しかし、それにはどうすればよいのだろうか。そう考えていると二週間ぶりにあの声が耳朶をうつ。


「おい、雅。こんなところで何してんだ?」

「竜吾じゃないか。進路の話は終わったの?」

「…………一応な。それよりどうして廊下でくっちゃべってんだ」

「それはね――――」


 小篠君が簡単にいきさつを説明すると、大海君は目の色を変える。


「教頭の野郎……! ふざけてんじゃねえぞ!」

「竜吾駄目だって! それはもう一回やったんだ! みんなも止めるのを手伝って!」

「お、おう!」


 そのまま数学研究室に向かって走り出そうとしたので、六人がかりでなんとか引き留めるのだった。

 六人がかりでようやく大海君を落ち着かせた後、僕と小篠君と大海君は他の有志達へ説明をしに戻るアルファたちと別れた。そして、近場の空き教室で相談することに。


「どうしようか……。このままだと有志発表がなくなってしまうけど」

「どうするもこうするも、有志発表を続けさせるしか選択肢はねえだろ」


 はっきりと大海君が言うが、ことはそう簡単じゃないんだよな……。


「竜吾はその場にいなかったからわからないかもしれないけど、教頭先生は頑なな様子だったよ」

「つってもたかだかいち教師じゃねえか。絶対の権限があるわけじゃねえんだろ?」

「それはそうかもしれないけど……」

「絶対の権限はないけど、逆に言えばそれなりの権限はあるんだよ。学内に関わる様々なことをしているから、教員内の信頼は厚いし、そうでなくてもお世話になって頭の上がらない先生もいるだろう。

 学内の様々なことをしているということは、学内の事情を一番よく知っているとも言える。そんな教頭がそれらしい理由で先生方を説得すれば、みんな廃止派に傾くのも無理はないと思う」


 あくまで一般的な教頭先生の仕事について前に本で読んだだけだから、ウチの学校の内情については完全に想像でしかない。だけど近藤先生があの場で教頭先生の暴論に何もアクションを起こさなかったことを考えると、そこまで的が外れた考えでもないはずだ。

 だからこそ、今回の件を解決するのは難しいだろうと僕は考えたのだが、大海君は首をかしげる。


「いや、簡単じゃねえか」

「だからさ―――」

「教頭が先生たちを説得したなら、俺たちも同じことすればいいじゃねえか。担任やら顧問やらに『俺たちは有志発表やりたいのでどうにかできませんか?』ってお願いすりゃいいんだよ」

「………………」

「んで、有志発表賛成派を増やしていけばさすがの教頭でも折れざるを得ないだろ」

「………………」


 そううまくいくかなぁ……。それで覆るようなら最初から廃止になるなんてことはなさそうだけど。

 しかし、難しいと考えている僕と違って、小篠君は首肯する。


「確かに身近な先生にお願いするのは大事かも」

「そうかな……?」

「うん。だって今僕たちにできることなんてそんなにないよ。だったらできそうなことは全部やってみた方がいいと思うんだ」


 …………確かに、一理ある。僕たち三人とも部活はやってないから顧問の方にお願いすることはできないけど、担任になら話がつけられる。


「となると、僕たちだけじゃ手が足りないね」

「だったら他の有志にも頼めばいい。一年とか三年とかいろんな連中、いるんだろ?」

「そうだね。有葉くんたちにお願いしておこう」


 …………なんか聞きなれない名前が小篠君の口から出たけど、誰?

 首をかしげているとそれを察して小篠君が教えてくれる。


「さっきまで一緒にいたでしょ。陣頭指揮していた人が有葉くんだよ」

「…………ああ、アルファのことか!」

「アルファ?」


 ああ、しまった。アルファは僕が勝手に言っているだけだから二人には意味不明になってしまう。気にしないでくれと言わんばかりに手を振ってごまかす。

 不審がりながらも小篠君はスマートフォンを操作する。アルファ(今後もこう呼ぶことにする)に連絡を取っているのだろう。

 では、教員説得作戦はアルファたちに任せるとして、僕たちも僕たちで何かできることを考えないと。先生方を説得できたとしても、それだけじゃ足りない。


「…………先生方を味方につける以外にも、教頭を納得させる何かが必要かもしれない」

「そうかな?」

「必要だと思うよ、僕は」


 例え少数派に回ったとしても教頭はなんだかんだ理由をつけて廃止を推し進めるだろう。あの頑なな様子を見るとそう思える。


「僕たちは僕たちで教頭を納得させられることをしよう。仮に先生方を説得できても最後ひっくり返されちゃうかもしれない」

「なるほど……」

「それにさ……。有志の人たちは文化祭を成功させようとそう思っているはずなんだ。それを一方的にこき下ろす教頭に努力を認めさせたいんだ」


 先生方を説得するのは必要なことだと思う。だけど、それで有志発表ができるようになっても僕は嬉しいと思えない気がする。

 きちんと、教頭に僕たちがやっていることは無駄なんかじゃない、必要なことなんだとわかってもらわないと、僕は一生この高校二年生の文化祭のことを後悔して生きることになるという確信がある。

 しばらく黙っていた大海君が、やおら口を開く。


「ようは目にもの見せてやりたいってことだろ。なら、俺も乗るぜ」

「………………」

「どうしたんだよ?」

「いや……」


 目頭を押さえたい衝動をこらえる。まさか、ようやく大海君が僕に同調してくれたことが嬉しいなんて言えない。


「…………? まあいいや。雅も協力しろ」

「うん。僕も教頭先生に言われっぱなしじゃ嫌だからね」


 小篠君は静かにうなずく。 

 僕たちの意志はここにきてようやく一つになった。一つの机に顔を突き合わせて僕たちは話し合う。


「教頭先生を納得させるにはどうしたらいいんだろう」

「そうだなぁ……」

「うーん……」


 言い出した自分が言うのも変な話だけど、あの教頭を納得させられることってなんだ……。あの頑なな教頭からは何を言われても、何をされても、意見を変えない凄みを感じられる。僕たちを下に見ているのはそうだけど、それ以上に自分のやっていることが正しいと思えるほどの自信がある。

 三人寄れば文殊の知恵という言葉があるけど、ただの学生が三人集まっても教頭に打ち勝てる案がすぐ出るわけがなく、僕たちはただ唸り続けるだけだった。

 時計の長針が何周したのだろう、大海君が口を開く。


「なあ、教頭はようするに有志発表はくだらねーものって言ったんだよな?」

「ようはそういうことだよね。部活に劣ると、有志発表を下に見ているんだよ」

「なら、部活やっている連中と同じかそれ以上に俺たちが真剣にやっているってことを見せればいいんじゃないか?」


 自信を持った様子で彼はそう言った。

 それはそうだ。教頭の言い分が『思い出づくりでしかない有志発表は研鑽のために行う部活より劣る』というものだから、二つが同等ないしこちらが上回ればじゅうぶんに説得する材料になりえる。

 それは間違いないんだけどね……。


「具体的な手段があるのかい?」

「具体的な手段? ………………」


 授業中に隠れてスマホをいじっていた時に先生に指名された学生のような顔をして大海君は黙る。…………つまり、何も考えていないということだ。


「…………ないのね」

「まあまあ。竜吾がそう言ってくれたおかげで方向性はある程度決まったじゃない。僕たちが真剣に取り組んでいて、それは部活動に比肩しうるものだって言える何かが必要ってことだよね」

「そ、そうだ、そういうことだ」

「絶対そこまで考えてなかったでしょ」


 まあいいや。大海君もそういうことを言いたかったんだろうし、何も思い浮かばなかった僕に責める資格はない。

 それにしても、真剣にやっていることを示す、か。それを一つ証明するのにいい手があるかもしれない。それには知っておかないといけないことがある。


「ところで話が少し変わるんだけど、大海君が漫才を始めようとした理由って何?」

「…………は? なんだよ、藪から棒に」

「だってさ、教頭に真剣さを伝えるなら、どういう目標に向かっていて、どこまで進んだかを見せるのが一番じゃないか。

 そうなると、大海君がどうして漫才を始めたのか……そしてどこへたどり着きたいのか僕が知らないと、いい案なんて出てこないよ」


 単純に僕が理由を知りたいという私情もあるにはあるけど、それは言う必要ないよね。

 僕の質問に大海君は露骨に嫌そうな顔を、小篠君は苦笑いをする。

 え、何。前に聞いたときには一蹴されたぐらいだから言いづらい理由なのか?


「うー、あー、そのな……」


 コロコロを表情豊かに悩みながらも大海君は覚悟を決めたようでこれまでないぐらい真剣な顔をする。


「笑わず聞けよ」

「…………絶対という保証はできないけど」

「絶対だからな!」


 笑うなときたか。どうしよう、本当にとんでもなくしょーもない理由だったとしたら。最悪、笑ってしまってせっかくできた関係が全部おじゃんになる可能性もある。

 だから、僕は極力笑わないように、彼と同じくらいキリッとした顔を作る。


「はい」

「言うぞ! 笑うなよ!」

「うむ!」


 さあ、どんな理由でもどんと来い!


「…………実は、天宮さんに気に入られるためなんだ」

「…………???」


 クエスチョンマークが頭の上でマイム・マイムを踊り始める。花いちもんめでも可。


「ほら、きちんと経緯を説明しないと。氷室くんが数学の教科書を見る竜吾みたいになってるよ」

「俺はここまで間抜け面してねえよ! っと、ちゃんと説明するぞ……。

 俺のクラスに椎名ってやつがいるんだが、そいつが天宮さんと友達でな」

「うん」

「この間遊びに行ったときに、天宮さんの好きなものが何か聞いたんだ。まあ教えてもらえるまでにいろんなモンおごらされたが。そしたら、天宮さんはどうもお笑いが、特に漫才が好きだと話を聞いてな」

「なんだって?」

「この間遊びに行ったときに……」

「その後」

「椎名におごらされた」

「もっと後」

「天宮さんはお笑いが好きらしい」


 …………え、そうなの? 配信ではそんなこと言ってなかったから初耳だけど……。いや、そりゃ僕は彼女とはそんな親しい間柄じゃないし、彼女を動画で一方的に知っている、彼女からしたら一般視聴者Aでしかない存在だし、趣味なんて複数あって人に言える趣味とそうでない趣味なんてのもあるから配信で言わないことに何も問題はないけど……。僕は知らなかったけど、大海君は知っていたのか……。


「で、それなら俺も漫才をやって天宮さんに見てもらおうと思ったんだ」

「あのさ、竜吾。重要なことを忘れてるよ」

「なんだよ」

「竜吾が天宮さんを好きだという話がないと、話がつながらないよ。

 つまり、天宮さんの気を引きたくて漫才を始めたってそういう話なんだよ」

「馬鹿野郎! 俺は天宮さんのファンなだけだ! 好きとかそういうのは……」

「考えてないの?」

「…………彼女になってくれねえかなーとは思うけど」


 少し困ったような、照れたような、複雑な表情の大海君。きっとその胸中はもっと複雑なんだろうけど、僕にもその気持ちが痛いほどわかる。気持ちがわかるだけに僕も複雑だった。

 大海君は態度こそ多少粗暴ではあるけど、顔は彫りが深くてワイルドなかっこよさがあるし、体格も良い。見てくれはかなりモテる男のソレなのだ。天宮さんの友達の椎名さん(女性だよなたぶん……)と遊びに行けるぐらいで、それを特別なことだと思ってなさそうなあたり、きっと一般的な女子受けも悪くないのだろう。交友関係も広いみたいだし、世間一般的に言う陽キャというカテゴリの人間なのかもしれない。そんな彼が真剣に天宮さんにアタックしたら、割とうまくいく気がする。

 …………ああ、それ以上は想像したくない。

 そんなことを考えていると、大海君が言う。


「…………ま、理由としてはこんなもんだ。何か問題あったかよ」

「問題はないけど……。人気な芸人さんたちの中には、モテたいからという理由でお笑いを始めた人もいるぐらいだから。でもなぁ……」

「なんだよ」

「いや、その理由だと教頭への説得は難しいよなぁって」

「…………そりゃそうか」

「まさか教頭先生に『恋愛成就のために漫才頑張ってます!』なんて言えないもんね」

「だから恋愛成就とかそういうわけじゃなくてな……」

「やっぱり難しい課題だね。ここで三人で唸っていてもいいアイデアは出ないかも。

 もう今日は結構時間経っちゃったし、また明日集まって考えようよ」


 そう言いつつ小篠君はお腹をさする。…………さてはお腹減ったから帰りたいと思っているな?

 とはいえ、確かにもう十六時を回っている。そろそろ帰らないと夕食の準備ができない。


「そうだね。また明日にしよう」

「うん」

「…………雅、ちょっと先に行っててくれるか?」


 立ち上がる小篠君に対して、大海君が落ち着いた声で言う。

 すると小篠君は少し首をかしげたものの、すぐにうなずく。


「わかった。…………僕がいると邪魔だろうしね」


 なにやら意味深なことを言ってそのまま教室を出ていった。

 僕も帰るか……。ああそうだ、バッグは教室に置いてあるんだった。


「ちょっと待て」

「何? 早く帰ろうよ」

「待てって言ってるだろ」


 僕が立ち上がった時、大海君は凄みを感じさせる声を放った。そして、ゆらりと立ち上がって大股で僕に歩み寄る。

 え、なに? 何か怒らせるようなことしたかな……。

 僕が思わず身構えた瞬間―――。


「…………悪かった」


 彼が頭を下げた。


「え?」

「何回かお前を馬鹿にしたり、暴行を加えたり、酷いことしただろ。それは、謝らなきゃいけないことだ」

「………………」

「けじめとして謝りたかった。それだけだ。じゃあな」


 やや速足で大海君は教室から出ていった。その後ろ姿は普段の彼より小さく見えたけれど、これまでよりも真っ当に見えた。

 謝ろうと考えるまでに色々あっただろう。何せ彼が僕に暴行を加えたのは一度だけではない。

 僕と関わらないようにして、これまでのことをなかったことにする選択肢もあったはず。だけど、今日の機会に僕と協調することになったから、彼は禊として謝ることにしたのだ。それはとても誠実なことに僕には思えた。

 だから、僕もまた彼に対して誠実なことをしようと、そう思った。

 校門の前で二人と別れて、まだまだ日が高い帰路を歩く。アスファルトの反射熱で非常に暑い。

 長袖のシャツの袖をまくって半袖にしているから、生地が重なったところが特に暑く感じる。焦げちゃうんじゃないかと思うぐらい地肌に直射日光が突き刺さる。電車通学している人たちは今頃きっと涼しい電車の中なんだろうな……。

 ハンカチを取り出して額の汗を拭く。周りには住宅しかないから、日差しから隠れられるところがなく、とめどなく汗は流れてくる。

 いくら拭いてもキリがないからしまうか……。家に帰ったらそのまま冷房の効いた部屋でのんびりと本でも読みたい。冷たい飲み物……そうだな、アイスティーでも飲みながら。

 よし、今から買いに行こう。夕食の材料も一緒に買ってしまえばわざわざ家に帰ってからまた出かけなくて済む!

 僕はいつもの帰り道からそれていきつけのスーパーへ急ぐことにした。


「…………あっつ」


 …………やっぱり、歩いて行こう。熱中症になったら大変だからね。




 約十分歩いて僕はスーパーに来た。めっちゃ涼しい。外と中で全然違う世界だ。外はサクサク、中はジューシーな鶏のから揚げぐらいギャップがある。

 とりあえず夕食の買い出しからやっちゃおう。カートを押して店内を歩く。

 夕食なーどうしようかなー。食べ飽きたけどそうめんでいいか。そうめんだけだと彩りが悲しいから、夏野菜を使ってサラダでも作ろう。ゴーヤが安いみたいだからチャンプルーも作ろう。それなら肉も食べられるし、いいんじゃないかな。

 カゴにゴーヤやトマトやきゅうりを入れていく。またそうめんかと父さんは文句言うかもしれないけど、献立を考えるのは面倒なんだ。

 夕食に必要なものは買った。あとは飲み物の類だな。せっかくだからペットボトルで売っているような市販のアイスティーじゃなくて、茶葉から自分で作ってみようかな……。

 そう思って茶葉が置いてあるコーナーへとカートを押していくと、見覚えのある姿がそこにはあった。


「うーん、どっちがいいかなぁ」


 天宮さんだった。二つの商品を見比べて何やら悩んでいる様子。

 話しかけるべきか? いや、でも理由がないよな……。所詮いちクラスメイトだしな……。僕に話しかけられてもたぶん迷惑だろう。転校の手続きとか、音楽活動で忙しいだろうし、僕にかまけている余裕はないはずだ。

 あ、そう言えば有志発表が廃止されそうになっているという話はもう聞いたのかな……? 仮に知っていたとしたら、今はそれでナーバスになっているかもしれない。そっとしておいてあげよう……。

 回れ右して他の安売りされた商品でも見ておこう。たしか洗濯洗剤がそろそろなくなるころだから、買い替えないといけないし―――。

 そう思ったんだけど、肩にポンと手が置かれた感触がしたので振り返る。


「や、氷室くん。偶然だねっ!」

「おわっ!」


 天宮さんの顔がまつ毛の一本一本見えるぐらいドアップで目の前にあった。今まで全然気が付かなかったけど、瞳がキラキラしていてすごく綺麗。肌も白磁器のようにすごく透明感があって、それでいて病的な白さではなく健康的な色合いだ。

 それにしても……。


「白磁器って実際に見たことないんだよな……」

「…………何が?」

「あ、いや、気にしないで……」


 白磁器のように美しい、という表現は小説で見かけることあるけど、実物見たことないから想像しづらいよな、なんて思っていたら口に出ていたらしい。となれば彼女も可愛らしく小首をかしげるわけだ。

 って、それどころじゃないんだ。


「ど、どうしたの? 何か、その用事とか……あるの?」

「ないよ? 用事がないと話しかけちゃ駄目……?」

「そんなことはない!」


 天宮さんに話しかけられて嫌な気分になる男子はいない! 用事がないのに話しかけてくれても一向にかまわん! …………ああ、でももう転校しちゃうんだよな。そんな夢のような毎日は遠い夢に終わってしまうのか……。

 天宮さんはパッと笑顔になる。


「よかった~。あ、でも本当に嫌なことだったら言ってね?」

「嫌なんてことはないよ」

「…………その割に目が潤んでいるのはなんで?」

「か、花粉症さ!」

「もう八月なのに?」

「八月にだって花粉は飛んでいるんだよ」

「へえ~、そうなんだ」


 彼女が転校することを思い出したらなんか涙が出そうになっちゃった。でも、なんとかごまかせたみたいだ。

 僕の目の潤みなんて忘れたかのように、彼女の興味はカゴの中へ向いた。


「何を買いに来てるの? きゅうりやトマト……?」

「夕食の買い出し。あとは暑すぎるからアイスティーか何か作って飲もうかと思って」

「ならこれとかいいんじゃない?」


 そう言って天宮さんはカゴに茶葉の缶を入れる。お菓子を入れる小さな子供みたいで微笑ましい。それを拾い上げる。


「アッサムティー……?」

「うん。喉にいいんだよ」


 ああ、だからここで商品とにらめっこしていたわけか。きっと家で飲むものや食べるものにも気を使っているのだろう。

 それにしても70gで約三〇〇〇円か……。いいもの飲んでいるな……。さすがにこんな高級なものをガブガブ飲むわけにはいかない。丁重に棚へ戻した。


「えー戻しちゃうの?」

「あ、ごめん……。でも結構高いからさ……」

「まあね。私もそっち買うのはちょっとな~って思った」


 買わない方の処理を僕に任せようとしたわけか。可愛い顔してなかなかずるいことをする。いや、可愛いからずるいことするのか?

 でも、どんな些細な事でも天宮さんと関われる今の時間がとても嬉しい。この時間は僕にとっては万金に値する。

 ずっとここにいたい、けど家に帰って夕飯を作らないとな……。

 3000円のアッサムティーの隣に置いてある安売りされた適当な茶葉を選びカゴに入れる。


「じゃあ、僕はこれで……」

「帰っちゃうの?」

「あ、うん。ほら、生野菜買って帰るからあまり遅くなると傷んじゃうし……」

「そっか、そうだよね。じゃあ私も帰るよ」


 天宮さんはアッサムティーの茶葉の缶(さっきのよりちょっと安いの)を手に取ってそのままレジの方へ歩いて行った。

 …………あまり落ち込んだ様子はなかったけど、廃止の話を聞いてないのかな?

 と言っても確認する術はないのでセルフレジでささっと会計をすまして、食品をマイバッグに、それ以外のものは通学バッグに入れて店を出る。

 うわ~あっちぃ。日が傾いているというのにうだるような暑さは変わらない。こんな暑さじゃ野菜がすぐ傷んでしまう。氷ぐらいもらってくるべきだったかな……。

 できる限り早く帰ろうと思った僕の前に天宮さんが立ちふさがる。


「来た、来た。帰ろ?」

「…………天宮さん。まだ帰ってなかったの?」

「? 私も帰るって言ったよ?」

「………………?」


 じゃあ帰ればいいじゃん。なんで僕の前に立ちふさがるの?


「もー、にぶちんだなぁ。一緒に帰ろうって話じゃない」

「………………」


 ………………。

 ええ!? 一緒に帰る!?


「そそそそ、それはtogetherということでしょうか!?」

「Yeah, Let's go home together!」


 喜んで!




 スーパーからのいつもの帰り道を歩く。もう見飽きた景色だというのに、とても色鮮やかに見えた。

 普段なら少し重く感じる買い物袋もなんのその、足取りは羽のように軽い。それもこれも僕の隣で天宮さんが歩いているからだ。


「へ~、氷室くんっていつもあのスーパーで買い物してるんだ」

「家から近くて安いから……。大量に買い物するとあんまり遠い場所は大変なんだよ」


 自転車でもたくさんは積めないからなぁ。自動車が運転できたらもっと大きなところで買い物してもいいかもしれない。

 いや、どうかな……。ポイントカードを使えば結果的にこっちの方が安いからこの地に住んでいる限り結局あのスーパーに通い続けるかもしれない。

 そうそう、この地に住んでいると言えば……。


「天宮さんもここら辺に住んでいるんだ」


 ずっとついてきているから、家の方向が逆ってことはないだろう。徒歩であることを加味すればこのあたりからそう遠くないはずだ。

 そう思っていると、天宮さんは一瞬だけ目を丸くして、そして顔をしかめる。


「やだなぁ、同じ中学校に通っていたじゃない」

「…………え、そうだっけ?」


 そうだったかな……。クラスメイトの名前も顔ももうほとんど覚えてないからな……。同じクラスはもとより、クラスメイトじゃなかったら思い出せる自信がない。

 …………駄目だ、思い出せない。素直にホールドアップ……はできないから肩をすくめる。


「ごめん、まったく覚えてないや……」

「…………そっか。でもでも、同じクラスだったよ」

「いつ?」 

「一年生の時。一年B組だったでしょ」


 確かに一年B組だったような覚えがある。

 その時同じクラスだったって? さすがに天宮さんと同じクラスだったら覚えてそうなものだけど……。いや、でも彼女を意識し始めたのは高校生になってからだから、そのころを覚えてなくても不思議じゃないか。

 でもこれも忘れてたと言うと、また渋い顔されちゃうし、嫌われてしまうかもしれない。


「そ、そうだ。そうだった……確か同じクラスだった……」

「…………ホントに覚えてる?」

「覚えてる、覚えて、ますよ?」

「じゃあ、問題。中学一年生の文化祭で私がやりたかったことはなんだったでしょう」

「………………」


 やりたかったこと? なんだろう、今の彼女に関係していることなんだと思うけど、彼女がインターネット上に演奏をアップし始めたのは高校生になってからだ。

 だけど、その前からギターの演奏はやっていたという話だから、やはり音楽関係の何かだろうか。…………音楽関係と言っても広すぎるよな。そこから文化祭でできそうなことを絞り込むとなると……。


「もー、やっぱり忘れてるんでしょ?」


 天宮さんの声が時間切れの合図だった。彼女は宝箱を見せるかのように愛おし気に言う。


「私たちの中学の文化祭って基本的に合奏か合唱か、それをクラス単位で発表するものだったでしょ? その合唱で、私が伴奏をやりたかったんだ」

「…………でも、普通はそういう場の伴奏はピアノでやるんじゃないかな」

「うん。だから先生に却下されちゃった。ギター始めて何年か経ってたから実力的にはできるけど、先生としては中学の文化祭の合唱はピアノでやるものだって考えがあったんだと思う。結局はピアノが上手な相川さんが伴奏を担当したよ」


 相川さんと言われても顔も下の名前も思い出せないけど、天宮さんが上手と言うならきっと上手な人だったんだろう。

 ここまでは天宮さんのほろ苦い思い出だ。言い方は悪いが、それに関係していない僕が覚えていなくてもしょうがないと思うんだけど……。

 僕の疑念はよそに思い出話は続く。


「でも、当時の私にはショックなことだった。実力を見てもらえないこともそうだけど、先生に言われた言葉が……。先生は冷たく言ったんだよ。『ギターなんてやめろ、どうせプロにはなれないんだから』って」


 当時の……男性教諭かな? 彼女はその人の真似をした。


「『天宮は成績が悪い、うつつを抜かすな』とも言われた。私、ずっとやってきたから何もかも否定された気がして、本当に悲しくて……」

「…………酷いな、それは」


 まるで教頭みたいな奴だ。僕たちの考えや望みを勝手に下に見て、考えを完全否定する最低な人間だ。天宮さんの目の前だから極力怒りは抑えようと思ったけど、それでも少し言い方に怒りが出てしまった。

 引かれてしまうだろうか、と思って彼女の顔をうかがうと、意外にも彼女は……太陽のように明るく笑っていた。


「やっぱりそう言ってくれるんだ」

「やっぱり?」

「あの時も氷室くんは怒ってくれたよ。先生が私に酷いこと言った時、立ち上がってすごい剣幕で……。これも覚えてない?」

「………………」


 そう言われたので、硬く閉ざされた頭の中のアルバムをこじ開ける。

 …………思い出したくないことの方が多かった中学校生活。その最初のページが天宮さんの言った出来事だった。

 そうだ、その通りだった。当時の僕は文化祭の決め事なんて面倒だと思って、一番前の席でボーッと黒板を眺めていた。誰が伴奏をやろうがどうでもよかった。音楽の素養がない僕が伴奏に選ばれることはありえなかったので、早くこの退屈な時間が終わらないかとそう思っていた。

 そんな時だ。後ろの方で天宮さんが立ち上がって「私がやりたいです!」と元気に言ったんだ。先生にピアノが弾けるのかどうか聞かれて、ピアノはあまりできないけどギターならできるから、それでやらせてほしいと天宮さんが言ったときに、先生が天宮さんのことを馬鹿にしたんだった。

 その先生は確か音楽の教師ではなかったはずだけど、とにかく一方的に天宮さんをこき下ろすものだから、最初は普通に聞き流していたけど、だんだん腹が立ってきて……。


「…………思い出した。それで最前列だったのをいいことに先生の胸倉つかんで殴ろうとした気がする」

「そうそう! みんなあっけに取られていたし、私も最初は驚いたけどそれでも嬉しかったんだよ。私に代わって怒ってくれた、私のために言ってくれたんだって思って」

「…………そんなたいしたことじゃないよ」


 本当にたいしたことじゃない。その時は天宮さんのことを守ろうとか、擁護しようとか、そんな気持ちはなかった。ただその先生の言い方が気に入らなかっただけだ。

 怒りのまま行動したら、それが結果的に彼女を助けることになった。ただそれだけのことなんだ。

 だけど、彼女はなおも僕に微笑みかける。太陽が道端のたんぽぽも照らすように。


「それでも私は救われたよ」

「………………」

「今日だって私と同じように救われた人はいるはずだよ。自信もって」

「今日って……」

「教頭先生のこと。友達から聞いたんだ」


 アルファあたりから話が伝わったのかな。なんだか少し恥ずかしい。

 教頭先生の話を知っているということは、有志発表のことも知っているのだろうか。


「その、有志発表のことだけど……」

「廃止になりそうって話でしょ? 聞いてるよ」

「…………そっか」

「教頭先生も酷いよね。私は好きでやっているけど遊びではやってないのに、勝手なことばかり言って。

 みんなそうだよ。みんな本気でやりたいことをやろうとしているのに……」


 口調こそ荒くはないが、言葉の節々に怒りがにじみ出ている。

 普段あまり見られない一面が見られて少し嬉しい。だけど、彼女には怒りも不安も似合わない。この学校で彼女が作る最後の思い出は綺麗なものであってほしい。絶対に有志発表ができるようにしなければならないと思う。

 ひそかに拳を握りしめていると、天宮さんがある家の門扉で止まった。


「どうしたの?」

「ん、私の家ここだから……」

「あ、そうなの?」


 表札を見ると確かに『天宮』の文字が彫られていた。大きいというわけではないけど、普通に生活する分にはじゅうぶんな家だ。よく手入れされた庭もあるし、綺麗なブルーの自動車もある。きっと、天宮さんはこの家でたくさんの思い出を作りながら成長したのだろう。

 その家を近々手放すことになるのは、寂しいことのように思える。


「…………この家に何年住んでいるの?」

「んー? 生まれてからずっとだよ」

「そっか……」


 ということは十五年以上ここに住んでいるのか。

 今、彼女は僕の想像以上にいろんな気持ちを抱えているに違いない。だから、かけてやる言葉がわからない……。


「どうしたの?」

「…………絶対に、有志発表を成功させたいなって」

「それは……私も同じ気持ちだよ。何ができるかわからないけど、私頑張るから。教頭先生に認めてもらえるように。もっとたくさんの人に私の歌を届けるために!」


 えいえいおー! と小さな声で鼓舞し、拳を上げる天宮さん。

 可愛らしいと思うと同時に、その姿がとてもまぶしく見えた。やっぱり、自分の夢や未来に向かって真っすぐな人は……とても尊く気高い。


「じゃ、また! 夜配信するから見てね!」

「あ、うん」


 彼女は手を振ってそのまま門扉を開ける。

 …………すごく名残惜しい。彼女と二人きりで夕暮れの帰路を歩く機会は二度とあるまい。重い足取りを引きずるようにして僕は帰路についた。

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