第9話 唯一の『証言者』候補
【西暦2060年3月 東京都世田谷区駒鳥市 リバティ通り 午前11時】
全てが順調で、怖い位だった。
春休み前に行われた期末テストで遠藤沙奈は学年ベスト5に入る大躍進。
4月からの新学期も、これから本格的に始まる受験勉強に関しても何ら恐れる事は無い。
まさに彼女は『我が世の春』を謳歌している最中だった。
(去年は3年生に進級する事すら危ないと思っていたのに、今は楽々試験を突破。
たった2時間の勉強で半日分したのと同じかそれ以上の効果が出る。
ブルーウィンターがあれば、これからの私の人生はバラ色だわ)
以前はなかなか笑顔になれなかった沙奈であったが、今では常に笑っていられる。
時間的な余裕も精神的な余裕も生まれ、遊ぼうが小旅行に出向こうが誰にも咎められなかった。
両親も幸せ。自分自身も勿論幸せ。素晴らしい。文句の付けようが無い。
そう思っていた彼女にも、時折暗い影が忍び寄ってくる事があった。
常習者である彼女のクラスメイトも語っていた『副作用』が、徐々に酷くなってきている気がするのだ。
薬を服用した後の頭痛と吐き気。そして倦怠感。
もう一度薬を服用するか暫く横になっていれば治るのだが、全く不安が無いとは言い切れなかった。
(多少の代償は払わなくちゃ。
自分の実力よりも高いレベルに到達しようとしているんだから)
自分で自分を誤魔化し続けた。こんなものは今の幸福に比べれば些細な事だと。
痛みを伴ってでも目標を達成するべきだと。
彼女はそうやって言い訳を並べていたが、自分が既に薬から離れられない身体になっている事を肌で感じていた。
「あー、楽しかった。次はゲームセンターで遊びましょう。
私結構クレーンゲームの景品取るの得意なのよ」
「えッ、そうなの?だったら私、ノロウサギのぬいぐるみ取ってほしいな。
ノロシリーズ大好きなんだけど、なかなか集めるのが大変で……」
私服姿のクラスメイト3人が大通りを楽しそうに歩いている。
その後を、沙奈が大人しく1人でついてきていた。
そういう風に生きてきたのは昔からの事で、今に限った話では無い。
小学生の頃から沙奈は団体行動が苦手なタイプの人間で、それでいて孤独を極端に恐れている。
孤立や虐めを恐れるがあまり、人からの誘いを断るのが下手。
特に『勉強の為』と言う言い訳がブルーウィンターのせいで使えなくなっていたので尚更断れなかった。
(なんか、話に混ざれないのよね。私……
話したい事が無いワケじゃないんだけど、いまいち波に乗れないと言うか。
何時もただ黙ってついていくだけになっちゃう。駄目だなぁ……)
クラスメイトと遊んでいるのも、クラスの中で高い地位についている生徒に混ざる為。
寄らば大樹の陰と言うことわざがあるが、そうしていれば波風が立たない事は充分承知していた。
両親に叱られてばかりだったからこそ、そうやって人の顔を伺い、恐れる癖がついてしまう。
全ては悪い結果になる事を防ぐ為。
遊んでいて楽しくないとまでは言わないが、本当は1人になる時間も欲しかった。
3人組も、沙奈は勝手についてきているだろうと考えており後ろを振り向く事もしない。
大通りを曲がり、細い路地へと入っていく。
そこから別の大通りに出た所にこの辺りでは有名なゲームセンターがある事は彼女にも解っていた。
「この辺り、日陰になっててちょっと怖いね」
「ホント、夜とか絶対通る自信無い。お化けとか出そう」
路地にはさらに細い裏路地へと続く道が点在しており、マンションやアパートの裏口があったりする。
繁華街とは違い、都会で生きる人々の『生活』が垣間見えるエリアでもあった。
楽しそうに談笑しながら歩く3人の女子高生。
その背後を歩く別の女子高生と言う図式が突如崩れたのはこの時だった。
(!?)
急に横道から滑る様に現れた男が沙奈の背後に回り、ハンカチで口を塞ぐ。
そのまま有無を言わさぬ怪力で彼女を路地裏へと引き摺り込んだ。
彼女達はそれに気付く事無く歩き続ける。
その周辺にいた誰も、彼女が窮地に陥っている事を認識していなかった。
とにかく、この男の手から逃れなければ。
自分が拉致されようとしていると思った沙奈は声を出しながら暴れた。
だが口を塞がれているせいで大声が出せず、暴れてもそれ以上の力で抑えつけてくる。
とんでもない怪力だったが、抵抗出来なければ悲惨な結末が訪れるであろう事は誰の目にも明らかだった。
(逃げなくちゃ。何としても逃げなくちゃ)
口を塞いでいないもう片方の手に、刃渡りの長い包丁が握られている。
刺される。殺されてしまう。そう直感した彼女は賭けに出た。
彼女の胸に迫る包丁の先。その刹那、沙奈は丁度後ろにある犯人の顔に頭突きを食らわせた。
ブルーウィンターを普段から常用し、咄嗟の機転が利く様になったおかげだろうか。
胸に包丁が刺さったが、上手く力が入らなかった為傷は浅い。
そのまま彼女は逃げ出そうとしたが、犯人もとんでもないしぶとさを見せ彼女の腕を掴んだ。
「助けて!!」
大声を出し周囲の人に駆け付けてもらおうとする沙奈。
丁度犯人と向き合う形になったその瞬間、再び包丁が彼女の胸目掛けて突き出される。
ああ、助からない。沙奈は命よりもその時何故か犯人の顔が気になった。
目の前にあるフードをめくりあげ、露わになった顔を凝視する。
そしてその時には、包丁が彼女の胸を深々と貫いていた。
(うわ、気持ち悪い顔……)
そんな事を思いつつ、前のめりの状態で崩れ落ちる沙奈。
虫の息の彼女であったが、犯人はとどめを刺すよりもまず服をまさぐる事を優先した。
ポケットに入っているであろう『薬』を回収し、周囲を見渡した後誰もいない事を確認する。
(万が一と言う事もある。脳を破壊してしまえば『証言者』が生まれる事も無い)
沙奈の脳味噌に刃を突き立てる為、犯人は思い切り包丁を振り上げた。
「おい、そこに誰かいるのか!?」
路地裏にまで届く大きな声。犯人は舌打ちをすると、躊躇する事無く走り出す。
(私服警官が東京中に配備されだした事は知っている。
素人だと思って消そうとすれば火傷するかもしれん。ココは逃げるしかあるまい)
先程沙奈が出した助けを呼ぶ声を聞きつけた者がいたのだ。
彼は倒れている彼女を見つける事が出来たが、その時には犯人の姿は煙の様に消え失せていた。
「おい、大丈夫か!?しっかりしろ!!」
抱き寄せては不味いと判断し、反応があるかどうか確かめる男性。
彼はたまたま営業周りをしていたサラリーマンで、ずぶの素人だったが救急に関する心得は少しだけ持ち合わせている。
「沙奈、沙奈!?ちょっと、嘘でしょ!?」
彼女がいない事にようやく気付き、来た道を引き返してきた3人組も彼女のもとに駆け寄ろうとした。
「駄目だ。下手に動かすと余計に酷くなる。救急車を呼んでくれ!」
有無を言わさぬ剣幕で怒鳴る様に叫ぶ男性。
3人組の1人は震える手で電話をかけると、知人が刺された事と現在地を何とか告げる。
他の2人も顔が真っ青になっており、ぽろぽろと涙を零していた。
父親が医師として勤めている病院に運び込まれた沙奈であったが、既に彼女は息絶えていた。
「そんな、娘が死んでしまうなんて」
彼はその場に膝をつき、泣き叫びたい衝動に駆られたがすんでの所で堪える。
今すべき事は嘆き悲しむ事では無く、ニューマンを作る準備をする事だ。
そう考えた父親はすぐに脳スキャンと身体データの登録を行う様部下の医師に告げた。
ニューマンの製作はエヴォリューションでしか行えないが、脳スキャンの機械は様々な場所に配備されている。
間もなく病院にやってくるであろう警察に対して、彼は決して醜態を晒すまいと心に誓った。
「彼女の脳スキャンデータと身体データはこちらにも渡していただきたい。
事件を解決するうえでの大きな手がかりになる可能性が極めて高いのでね」
「解りました」
父親は現れた刑事に対しても気丈に振る舞う。
『やたらとメソメソするな。意思が弱いからすぐ泣こうとするのだ』
娘にそう言って叱っていた時の情景が、まるで昨日の事の様に思い出された。
(私が泣いたら娘に示しが付かない)
それでも顔色は明らかに悪くなって入り、対面している刑事から心配される。
「お気持ち、お察し致します」
「……今私がすべき事は嘆く事では無く、与えられた職務を全うする事だけです。
患者が待っている。娘の件は部下が万事上手く終わらせてくれるでしょう」
冷たい父親だと思われても構わなかった。
娘に愛情を注いでいなかったワケでは無い。
愛しているし、大切だと思っている。
それでも彼は『今一番すべき事をせよ』と言う己の心の声に従っていた。
ある意味、医者としての自分に責任を感じ過ぎていたのだ。
常に完璧で無くとも完璧に近付こうと努力すべきだと言う信念。
そしてそれが誰にとっても幸福だと思い、娘にその信念を押し付けてしまった。
そこから大きな不幸が生まれた事を父親はまだ理解出来ていない。
「ところで、娘さんの脳スキャンデータはすぐに『使う』おつもりなのですか?」
老いた刑事の質問に対して、彼はどう返答すべきか解らなかった。
「私はそれ程稼げてはいませんし、即ニューマンを購入しようとは考えていません。
1体1億円もするロボットなんて、医者としての稼ぎがあってもすぐには買えませんよ」
娘の『夢』を託す為の存在に愛情を注げるのか。
父親はそれに疑問を抱いており、妻も前と変わらぬ対応が出来るとは思えなかった。
清川凛の両親の時とは違い、血の通った人間の身体を何度も見ているからこそ彼にとってロボットは機械でしか無い。
勿論自分達が考えもしていない不測の事態が発生し、娘の復活が必要になった時の事を考え脳スキャンを行っている。
焦る様な事では無い。彼はそう考えていた。
「そうですか……」
加藤はそれ以上強く薦める事を諦めざるを得なかった。
無理強いしても話がこじれるだけで事件が良い方向に向かうとは思えない。
彼としては、一刻も早く遠藤沙奈を『復活』させてほしいと言うのが正直な思いだった。
(遠藤沙奈の父親にニューマンの事を訴えれば、こちらが何としてもニューマンを作ってほしい事がばれてしまう。
脳スキャンデータの譲渡も、勝手にニューマンを作られる事を危惧され無かった事にされてしまうかもしれない。
彼女が最重要人物であり、警察内で極秘にニューマンを作る可能性すらあると言う事が)
遠藤沙奈の父親にしてみれば、1年か2年待っても困る事はまるで無い。
だが加藤達にとっては凶悪な通り魔事件を解決に導く為にも、事を急ぐ必要があった。
1ヶ月に1度人がどんどんと殺されている。
犯人を捕まえなければ犠牲者が増えるだけなのは解り切っていたが、手をこまねいているのが現状だった。
【西暦2060年4月 東京都千代田区霞ヶ関 警視庁本部解析室 午後7時】
科学技術の発展によって、殺人事件の捜査はDNA検査や被害者の外傷等が特に重要視される様になった。
僅かな手掛かりから情報を読み取り、犯人逮捕に繋がる決定的な証拠を探す。
加藤はその辺りの分野は不得手だったが、優秀な解析班から様々な情報を聞いていた。
「お疲れ様です」
「遠藤沙奈の遺体は病院で死因特定を行った後、こっちに回して解剖したんだったな」
「はい。鋭利な刃物で胸部を刺された事による失血死でした。
下半身も念の為に調べてみましたが性的暴行を受けた形跡はありません。ただ……」
言葉を濁して押し黙った鑑識の男性に対し、加藤はその続きを言う様に迫る。
「突然言葉を切るなんてらしくないな。何かおかしな事があったのか」
脳の断面図を持っていた男性が、2枚の断面図を加藤に手渡した。
「先月亡くなった女子高生の断面図と、今回殺された遠藤沙奈の断面図です。
なにかおかしな所があると思いませんか?」
2つの断面図を見比べてみると、片方の断面図に黒い点の様なものがいくつか見受けられる。
「この4つか5つある黒い点は一旦何なんだ」
加藤にそう言われた男性は躊躇う様に顔を背けた後、目線を逸らしたまま話を続けた。
「……その黒い点は、脳細胞が消滅した後の空洞部分です」
「脳細胞が消滅……?つまり、脳の一部が死んでいるって事か」
男性は再び口をつぐむと、その状態のまま机の上に青い錠剤を置いた。
「これは?」
「遠藤沙奈の着ていた私服の胸ポケットの一部に穴が開いており、内部に入り込んでいたものです。
この薬を調べてみた結果、とんでもない事が判明しました」
男性は加藤に対してこの発見に関して上から『極秘事項』とする様達しが出ている事。
報道機関への発表は時期尚早であり伏せる様に言われたと説明する。
加藤は言い知れぬ不安を感じつつ、その錠剤がどういった類の薬であるのか尋ねた。
「この薬は、恐らく新型の覚醒剤です」
「覚醒剤!?何でそんなものを、女子高生が所持しているんだ」
「恐らく、売人から話を持ち掛けられ、購入したものと思われます」
猛獣の様に低く唸った後、加藤は顎に手を当て怪訝な表情を浮かべる。
「しかし、遠藤沙奈は高校で優秀な成績を叩き出している生徒だったんだろう?
学年ベスト10に食い込む程の。そんな女性がクスリに手を出したと言うのか」
「むしろ、だからこそ手を出していたと考えるのがこの覚醒剤の場合は妥当でしょう」
まだその理由が解らない加藤は椅子に腰を下ろし、青い錠剤をつまみ上げた。
「覚醒剤と学業に関連性があったと言うのか」
「この薬は、覚醒剤と言っても単にハイになる効果があるワケではありません。
一般的な覚醒剤の『作用』とされているのは多幸感に包まれる、感覚が鋭敏になる等様々です。
この薬の『作用』は脳に直接働きかけ、脳細胞の代謝を活性化させる効果があるんですよ」
「脳細胞の代謝……」
「例を挙げるとすれば、『火事場の馬鹿力』を想像してみてください」
近くにあったホワイトボードに、男性は簡易的な脳の絵を描いた。
「人間が普段使っている『全力』と言うのは、かなり抑えられたものになっています。
人間が常に100%の腕力を発揮出来ないのと同じで、力を意図的にセーブしているんです」
男性は車の絵を書き、人間がたった1人でその車を持ち上げている姿を書いた。
「人間は生命の危機を感じた時、リミッターが外れ100%の腕力を発揮する事があります。
脳も普段はその性能を抑えていますが、薬の力で『火事場の馬鹿力』を実現させているのです」
「脳に負荷をかけて、100%以上の力を強引に引き出していると?」
「そういう事になりますね」
彼はそう言った後、脳を模した絵に黒い点を描いた。
「新陳代謝と言うのは、人間の身体にとって必要不可欠なものです。
細胞が新しいものに入れ替わる事によって傷が治ったり、体調が良くなったりする。
ですが、それを極度に促してサイクルを早める様な薬を服用し続けると……」
男性は脳の絵を真っ黒に塗り潰し、椅子に座った後溜息をつく。
「脳だけがどんどんと老化し、脳の『死』へと繋がっていく。
記憶力が低下し、判断力は失われ最終的には生きているだけの屍と化してしまうでしょう」
知能を一時的に上げた代償はあまりにも大きい。
加藤はこの様な薬が裏社会で出回っているかもしれないと言う事実に震えた。
「当然、彼女の脳は既にダメージを受けているんだろうな」
「ええ。ですが致命的な損傷はまだありません。恐らく記憶力もまだ失ってはいないと思われます。
30代、40代まで薬を服用し続けて、その時に崩壊が始まる位のペースかと……」
脳スキャンした彼女の『証言能力』に問題が無い事が解り、安堵する加藤。
彼女から知る事が出来る情報は、薬以外にもまだありそうだった。
「彼女の遺体には『2つ』の刺し傷があったそうだが、それは?」
「それに関しても、興味深いデータがあります」
一度ホワイトボードに書いた絵を消し、今度は女性の胸部を書く男性。
「彼女はまず、一度目の傷を斜めに受けています。
こういった傷は正面から突進して刺した傷とは言いにくい。
傷の付き方や向きから考えると、背後から斜めに振り上げて刺した傷だと考えるべきでしょう。
そう、例えば背後から羽交い絞めにして、逆手に持った包丁を刺したとか」
そしてもう1つの致命傷となった傷を書いたが、その傷は縦方向の真っすぐな線になっていた。
「深々と突き刺さり直接の死因となった2回目の傷は、強い力で腕を前方に突き出した時に出来るものです。
つまり被害者は後ろから羽交い絞めにされ刺された後何らかの方法で抜け出し、犯人と相対した。
犯人は位置を変え被害者と向かい合わせになった時にとどめを刺したと言う流れになります。
今までの一撃で死亡した被害者と違い、遠藤沙奈は犯人の顔を目撃している可能性がある」
謎の覚醒剤を売る人物と通り魔の顔を、両方知っているかもしれない被害者。
加藤にしてみれば、絶対にニューマンとして復活させなければならない『目撃者』だ。
だが、製作に1億円かかると言う事実は覆す事が出来なかった。
「美輪彰浩はニューマンの価格を下げるつもりは無いと公言している。
それとなく近付き人命に関わる問題だからと食い下がったが『裏取引も無い』と言われた。
確かにニューマンの価格を下げれば、世の中にニューマンが溢れてしまう事だろう。
様々な問題が解決していない状態でニューマンが増える事が危険なのは充分承知している。
だが、人が次々に死んでいると言う状況で頑なにルールを守る事が正解だと言えるのか」
「私には解る気がしますよ。自分で決めた規則を守ろうとするのは人の性です。
それに、特例だからと規則を破ればその規則は形骸化して意味を成さなくなってしまう。
諦めるか、1億円を払うかの2択でしょう。上が金を出すとは思えませんがね」
男性が言う事も一理ある。それでも、人の命が奪われ続けるのをただ黙って見ているワケにはいかない。
加藤は椅子に座り込み、額に手を当てたまま俯いた。
「私は定年が近い。恐らくこの事件が、私が担当する最後の事件になるだろう。
警察の捜査を嘲笑うかの様に次々と何の罪も無い女子高生を毒牙にかける……
許し難い犯罪であるし、止めなければ犠牲者が増える一方だ」
「余計なお世話だと思うかもしれませんが……加藤さん。
この事件にはあまり深入りしない方が良いと思いますよ」
鑑識の男性はそう言うと、彼の肩に手を乗せもう片方の手であの青い錠剤を眼前に差し出す。
「通り魔事件とこの錠剤は繋がっている。
そしてこの錠剤……覚醒剤が皇国の外から運ばれてきた事は明らかです。
覚醒剤をよその国から警察に露見される事無く調達してこれる組織は、そう多くない。
この事件には鳳翔会が高い確率で関わっているでしょう。
だからこそ上層部もこの錠剤に関する捜査に対して及び腰になっている」
「悪を見過ごすと言うのか!?」
思わず椅子から立ち上がり叫んだ加藤を、男性は諫めた。
「皇国は今、鳳翔会と本格的に事を構えたくないんですよ。
第三次世界大戦の傷は完全には癒えていない。
30年経過しているとは言え、まだまだ歩き始めた赤ん坊の様なものです。
そして戦後の闇から生まれた鳳翔会とは対立しているが彼等はまだ大きな動きは見せていない。
思い切りぶつかり合えば多数の死傷者が出る。
政府はいたずらに事を荒立てたくは無い。そういう事だと思いますよ」
「つまり、上から1億円が出てくる事はまず期待出来ないと言う事だな」
警察という組織に身を置いている以上、命令に逆らう事は出来ない。
群れの行動を乱す者は排除されると言う社会の常識は、加藤も弁えていた。
「ともかく、通り魔に頭を悩ませているのは政府も我々も同じ。
覚醒剤が絡まない様にして犯人を捕まえれば、加藤さんの目的も果たせるでしょう。
世の中には妥協が必要だと言う事です」
「妥協か。実に嫌な言葉だ。皇国になっても『事なかれ主義』は全く変わっていない」
加藤は天井を仰ぎ見た。
正義と言う言葉がいかに脆い土台の上に立っている事か。
全てにおいて正義を行使する事は出来ないと言う現実を突き付けられ彼は歯がゆさを感じていた。
「俺は、腐った連中と同じにはなりたくない。
被害者遺族の涙を無駄にするワケにはいかん。
必ず犯人を捕まえてみせるぞ。この通り魔事件だけは『妥協』している場合では無いのだ」
部屋から退出し、何処かに出かけていく加藤を、男性は憐れむ様な目で見つめる。
(この国に生まれて、まともな正義感を持った人が幸せになる事はまず無い。
組織の都合、国の都合に振り回され正義など外面だけである事を思い知らされる。
そしてそれを少しずつ変えようとしているのが、ニューマンでありエヴォリューションなんだ)
ニューマンには無限の可能性がある。
国の考え方を変える力すら持っているかもしれないのだ。
皇国が主導しているニューマンの製造は、逆転の一打になり得る。
勿論歯車が少しでも嚙み合わなければ、亡国の兆しになる事もあるだろう。
この国がどちらの道を選ぶのかはまだ解らない。
(結局、ロボットを作っても管理するのは人間だからな……)
男性もコーヒーを沸かす為に給湯室へと向かい部屋から姿を消す。
蛍光灯の光が、机の上に置かれた青い錠剤を静かに照らしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます