第8話 青い冬の誘惑

【西暦2059年9月 東京都世田谷区駒鳥市 九十九学園高等学校校舎内 午前10時】


「貴方達が生まれる前、2029年時点での『日本』はこれだけしか領土を持っていませんでした」

 巨大な黒板に書かれた大雑把な日本地図。

 北海道・本州・四国・九州・沖縄・その他の諸島が書き込まれている。

「第二次世界大戦が勃発する前、日本がこれ以上に領土を持っていた事があります。

 今現在我々の領土となっている樺太もその頃下半分は獲得していたのです」

 女性教師は右に書かれている樺太を指差し、次に少し後ろに下がって全体を見る様促した。


「そして2059年現在、第三次世界大戦の戦勝国となった日本は国の名前を改め世界有数の他民族国家となりました。

 日本・台湾・パラオ・北方領土と樺太、そして2080年にはさらに領土が増えます。

 アメリカ合衆国が最大の同盟国および大戦にて最も協力的だった我々に対してプエルトリコの自治権を譲渡してくれるからです」

 日本人・台湾人・パラオ人・ロシア人・アメリカ人・スペイン人を一括して統治する超多民族国家。

 世界的に見れば領土はそこまで多くないものの、世界を牽引する国である事に疑いは無い。

「私達が世界に発信していかなければならないのは、他民族との友情を深めていくのは可能であると言う事。

 親日的なロシア人が樺太に残留し、親日的なアメリカ人およびスペイン人が現在多数プエルトリコに移住。

 彼等がこういった活動を後押ししてくれています。

 他の国々に向けて、『我々は1つになれる』と言う理想を示していくのが私達の使命になっていくでしょう」


 そう言いながら、教師は黒板の余白部分に様々な情報を書き込んでいく。

 傀儡国となった台湾やパラオの総督官となった日本人の名前、首都、主な特産物……

 一番前に座っている生徒ですら、その文字を読むのは小さ過ぎて難しかった。

「皇国の臣民である私達は、近代日本史において少なくともこれだけの事は知っておかなければなりません。

 日本史Ⅰの後半部分全てが該当するので、頭に入れておく様に。

 小テストにも、期末テストにも出る近代日本史の重要ポイントですよ」


 その後、関連する世界史として膨張するインド、それを警戒するアメリカ合衆国と言った大国の利害関係。

 皇国が親日的な性質を持つインドを宥め、結果としてニューマンの製造方法が伝わった等と言った情報が生徒に話された。

 僅か30年前とは世界地図の内容が一変し、第三次世界大戦の敗戦国はその全てが別の国に吸収されたか大国の傀儡国となっている。

 大戦の火種となった『かの国』は金の力で多くの国を懐柔していた為、爪痕は世界中に広がっていた。

「核ミサイルこそ落とされませんでしたが、東京大空襲によって多くの臣民が命を落としました。

 私達は結果として戦勝国になれただけで、アフリカの敗戦国の様に何処かの国の奴隷になっていた可能性も充分あります。

 その事実を深く受け止め、毎日の平穏な生活に感謝しなければなりません」


 女性教師が話している間にも黒板にはまた大まかな世界地図が描かれ、様々な情報が記載されていた。

 大国の指導者、首都、敗戦国の場合は何処の国に属する傀儡国なのか……

 国土が広過ぎる為、二度と反抗出来ない様にバラバラに分割されている国すらあった。

「こちらは世界史Ⅰのテストに出る内容になります。

 Ⅱでは単なる地理的情報だけでは無く、各国の政治に深く触れていく事になるので事前に目を通しておいてください」

 授業が始まってから休み時間を告げるチャイムが鳴るまでの50分間。

 教師がマシンガンの様に喋り、書き、生徒にテストに出る範囲と覚えておくべき箇所を教えるだけの作業。

 和気藹々とした雰囲気は何処にも無く、周囲は常にピリピリした空気に包まれていた。


「沙奈、今度の日曜日皆で遊園地にでも遊びに行かない?

 午前中私の家で勉強会をして、午後には気持ちを切り替えて楽しくやろうって言う企画でね。

 もうメンバーは5人位集まってるんだけど、貴方もどうかなと思って」

 授業と授業の間に設けられた10分間の休み時間。

 トイレから戻り自分の席に座った遠藤えんどう沙奈さなは他の女子に声をかけられた。

「ゴメン、ウチはお父さんがそういうのに行くなって五月蝿くて……

 悪いんだけど、他の人を誘ってもらえない?

 ワザワザ声をかけてくれたのに、本当にゴメンね」

「そう。家が厳しいんじゃしょうがないね」


 声をかけてきた女生徒の態度が一気に変わり、周囲の温度が変化する。

 こうなる事が解っていても、沙奈は彼女達の誘いに乗る事が出来なかった。

「あの子、付き合い悪いよね。ちょっとアタシ達より顔が良いからってさぁ」

「調子に乗ってるのよ。沙奈の家は代々医者の家系らしいから。

 そりゃアタシ達みたいな『後ろ盾無し』の相手なんてしたくないでしょうし」


 沙奈は銀縁の眼鏡をかけストレートの長い髪が特徴的な美人だったが、他のクラスメイトには距離を置かれていた。

 先程の誘いも、沙奈が断る事が解っていてワザと声をかけたものだ。

 沙奈が大人しい性格であるのをいい事に生徒達は彼女のある事ない事を吹聴して回っていた。

 (私だって、行けるものなら皆と一緒に勉強会や遊びがしたい。

 でも、私にはそれが許されていないから……)

 クラスの中で孤立していく中、父親の言葉が何度も頭の中で再生される。


『沙奈。お前は学業において一番になれ。

 私の娘だぞ?折角努力して九十九つくもに入ったのだから、中辺りの成績で満足していてどうする。

 将来医者になる者は、学校の成績で舐められる事等決してあってはならんのだ』

 世田谷区の一等地に立つ東京皇国博愛病院。

 その病院の主任執刀医を務めている遠藤えんどう邦夫くにおの長女として彼女は生まれた。

 海外からの患者も多数担当し、その名が世界に轟いている名外科医。

 その娘として彼女は物心ついた頃から医者になる道を強制的に選ばされていた。


『貴方は私と違って才能があるんだから、看護婦程度で満足してちゃいけないの。

 九十九から東京青雲大学理学部に入れば、間違いなく医者としての道が開けるわ。

 男の子がいないウチでは、貴方だけが頼りなのよ』

 父親も母親も、沙奈に過度の期待を押し付けていた。

 その圧力と期待に打ち勝つ事等到底出来ず、彼女は親が用意したレールの上を進んでいく事になる。

 幼少期から勉強、勉強、また勉強。

 クラスメイトと遊んだ記憶は殆ど無い。

 クラスメイトはテストにおけるライバルであり、越えるべき壁。

 沙奈は何時の間にかそういった価値観を持つ事に慣れてしまっており、正常な考え方が出来なくなっていた。


 (あの子達は良いなぁ。本当の『天才』で。

 学業と遊びを両立する事が出来る、本物の逸材。

 それと比べると所詮私は紛い物。

 人より何とか多く勉強して必死に食らいついているだけ。

 必死で掴まっている理由も、『親に褒められたい』だけで……)

 我ながら惨めな人生だなと沙奈は自分の短い人生を振り返る。

 

 九十九学園高等学校に入学した時から、彼女の戦いは熾烈さを増していた。

 期末テストの結果によっては即退学させられると言う程厳しい学校。

 毎年赤点を含む学年全体から見た成績下位1割が脱落させられると言うシステムは生徒達を恐怖に陥れていた。

 沙奈の成績は全体で見ると可も無く不可も無くと言った中位程度。

 勿論生き残りこそ果たしてはいたが、両親に叱責されるのが常となっていた。

『本当に一生懸命やっているのか!?怠けていたんじゃあるまいな』

『学年1位……いえ、トップ10には入らないとあの人は納得してくれませんよ』

 一生懸命勉強しているのは間違いないのだ。

 寧ろあらゆる事を犠牲にして勉学だけに励んでいる。

 それでも、『普通』の頭脳を持つ女子高生にはこの成績を叩き出すのが精一杯だった。


 (ああ、小テストはともかく、冬休み前の期末テストの結果が悪かったらどうなるんだろう。

 私、ちゃんと家に入れてもらえるのかな)

 こんな成績で満足する様な人間は私の娘では無いと言われ、家から閉め出される。

 それ位の事は平気でする父親だと解っているからこそ、沙奈はますます気が重くなった。

 クラスメイトからは避けられ、家に帰っても味方がいない。

 何処にも縋る所が無く、彼女は精神的にどんどん追い詰められていた。


【西暦2059年9月某日 東京都世田谷区駒鳥市 駒鳥公園内 午前6時】


 ある日曜日の早朝、彼女は自宅から近い所にある駒鳥公園を訪れる。

 両親が近くにいると言うだけで精神的に疲弊してしまう沙奈にとって、公園の休憩所は数少ない避難場所の1つだった。

 (秋の風が気持ち良いわ)

 人の数は少ないが、早朝から元気にランニングをしている若者の姿も見受けられる。

 これだけ頑張っても裏切られるのかと言う諦念と悔しさが彼女の心を暗くしていた。

 (何処に行っても、頭の中のお父さんとお母さんが『勉強しろ』と囁いてくる。

 食事や風呂は最低限の時間しか取らせてもらえず、覚えたのは教科書と参考書の内容だけ。

 私は全てを捧げているのに、どうして良い成績を取る事が出来ないの?)


 放課後は進学塾での勉強と帰宅後も勉強。

 詰め込み教育の極みであったがこれだけ学びを強制されると頭に入らないのが人間である。

 楽しく学ぶと言う状況では無く、むしろ精神的な重圧で成績がなかなか上がらなかった。

 上がらなければ叱責されると言う悪循環の中で、沙奈は奇跡が起こるのを祈る事しか出来なかったのである。


 頭の中に出てくる鬼の様な形相の両親に恐怖を感じ、彼女は思わず両手で顔を覆った。

 泣き叫びたかったが人が近くにいるのでギリギリの所で堪える。

 こうして負の感情を自分の中で処理しようとすればする程、ストレスは蓄積されていった。

「お困りの様ですね」

 不意に声をかけられ、沙奈は驚きと狼狽を隠せぬまま顔を上げる。

 先程まで誰もいなかったハズの場所に、灰色のスーツを着た男性が立っていた。


「貴方は、一体誰なんです!?」

 沙奈が怯えている事を察したのか、眼鏡をかけた若い男性は警戒を解こうと微笑んでみせる。

「これは失礼。自己紹介が遅れてしまい申し訳ありません。

 私はこういう者です」

 ネクタイをしっかり締め、高そうな革靴に汚れ1つ付いていない純白の手袋。

 見た目は真面目なサラリーマンの様に見えるが、内から漏れ出ている獣性は彼女の足を竦ませてしまっていた。


『知能指数向上研究所所員 阿武隈あぶくま みつぐ

 差し出された名刺の裏には研究所の住所と連絡先である電話番号が記載されている。

 名刺に書かれている内容を読んだ後、沙奈は『貴方の頭脳を変える!』と言う煽り文の意味を尋ねた。

「我々研究所の所長である神原かんばらさんが、画期的な薬の開発に成功したんですよ。

 商売になるからと言う理由で、まだ公には知られていませんがね」

 懐に入った瓶を取り出した阿武隈は、その瓶から青い錠剤の様なものを掴み沙奈の前に突きつける。


「この薬の名は『知能覚醒薬』。俗称は『ブルーウィンター』。

 その名の通り人間の記憶力・知識吸収力を強化・増大させ、格段に頭を良くする薬です。

 効果は服用してからおよそ1時間。

 勉強に集中したい時や、どうしても落とせないテストの直前等に使用するのが効果的でしょう」

 有無を言わさぬ迫力で畳みかけてくる阿武隈。

 沙奈はこのまま彼の話を聞いているのは危険だと思いはしたが、目の前に差し出されている『希望』に縋りたいと言う気持ちもあった。

「我々はこれだけ多くの顧客を獲得しており、そして全ての御客様が心から満足してくれています。

 貴方もこの波に乗り、大学受験に合格して栄光の道を歩む事が出来るのですよ」


 鞄の中から取り出された書類には、様々な女性の顔写真と情報が記載されている。

 (えッ、彼女は……)

 沙奈はその中から、少し前に自分を遊園地に誘ったクラスメイトとその取り巻きの名前を見つけた。

「貴方が通っている学校の生徒もいるでしょう。

 皆、それだけ必死なのですよ。

 何としても受験戦争を勝ち抜き、良い企業に入って成功者としての切符を掴もうとしている。

 貴方の場合は医者になる事が最終目標でしたね。

 この薬があれば、東京青雲大学の医学部に入る事など針の穴に糸を通すより簡単です」


 一切の遮りを許さない、滑らかな語り口。

 一流の詐欺師は語りも一流だと言うが、沙奈は彼の言葉に対して完全に吞まれてしまっていた。

「我々も慈善事業ではありませんからね。これはれっきとしたビジネスです。

 10錠セットで2万円。

 ですが、今回はお試しと言う事で1錠2000円でお譲りしましょう。

 冷静に考えてみてください。

 大学受験に挑んで合格するまでには恐らくかなりの額がかかると思われます。

 しかし、その後の『リターン』を考えれば先行投資のレベルじゃありませんか。

 貴方が医者になれば、何千万、いえ何億もの収入が見込める。

 凄腕の執刀医として名を馳せる事になれば、すぐに取り返せる額だと思いますよ」


 どれだけ、自分の事が知られているのだろう。

 女生徒達のデータブックから見るに、家族構成や通っている高校等の情報は既に見抜かれていると思うべきだった。

 (私が断ったら、お父さんやお母さんに何らかの被害が及ぶんじゃ……?

 私は蛇に睨まれた蛙なんだ。もう、逃げ出せない)

 追い詰められると、人は正常な判断を失ってしまう。

 スーツを着た一般人の様に振る舞っているが、この男は間違いなく『カタギ』では無い。

 警察に駆け込もうとしたら、その前に処分されてしまう可能性すら脳裏をよぎった。


「何も難しい事はありませんよ。

 ブルーウィンターはごく一般的な『チュアブル錠』で、水無しでも噛めば簡単に飲む事が出来ます。

 事前に飲んでおくだけなのでカンニングを疑われる心配も無い。

 効果をお疑いになるのであれば、今ココで購入し飲んでもらっても結構ですよ」

 にこやかな笑顔の裏に、獣が獲物を追い詰める時の獰猛な表情が隠れている様に見える。

 様々な圧力に負け、沙奈は震える手で阿武隈の掌の上に置かれた錠剤を指で摘み上げた。

「お買い上げ、誠に有難うございます」

 地獄の窯の蓋が開いた事を、彼女自身薄々感付いていたが最早止める事が出来ない。

 今はただ、この薬が彼女にとっての『救い』になる事を信じるしか無かった。


【西暦2059年12月 東京都世田谷区駒鳥市 九十九学園高等学校校舎内 午後2時】


 遠藤沙奈の人生は、この数か月で一変していた。

 小テストは満点。成績は常に学年のトップ10入り。

 突然の変化に教師も両親も驚いていたが、他の生徒達は特に驚きはしなかった。

「アンタも『こっち側』に来たんでしょ?これで堂々と遊べるね。

 今度カラオケに行こうよ。もう何人か誘ってあるんだ」

 遊びながら好成績を叩き出していたクラスメイト達は天才でも何でも無かった。

 ブルーウィンターの常習利用者。

 だからこそ、呑気に遊びながら天才の様に振る舞っていられたのである。


 実際、阿武隈が語った薬の効果は本物だった。

 1錠噛み砕いて飲めば、参考書の内容がすぐに頭の中に入ってくる。

 そしてテストの前に飲むと覚えていた事柄の全てを頭の中の引き出しから簡単に取り出す事が出来るのだった。

 (これなら間違いなく合格出来る。その為にも、ブルーウィンターの購入はかかせない)

 2万円を親に怪しまれる事無く捻出し続ける為には、バイトをして稼ぐしか無い。

 優秀な生徒の仲間入りを果たした沙奈が両親の反対を押し切ってケーキ店でバイトを始めるのはそれ程難しい事では無かった。

 結果を出し続けていれば、大体の無茶な願いも受け入れられる。

 金を稼ぎ、阿武隈に電話をして公園で会いブルーウィンターを受け取る日々。

 何時の間にかそれが常態化しており、沙奈にとっては当たり前の事になっていた。


「期末テストで優秀な成績を残した生徒は表彰され、学園長から直に表彰状を受け取る事が出来ます。

 しかし、赤点を取った者は追試無しの即退学です。

 赤点を取っていなくとも、学年全体の成績下位1割は退学する事は予め承知していますね」

 女性教師がテスト用紙を裏にした状態で配りながら、そう告げる。

 今の沙奈には恐れるものなど何も無かった。

 ブルーウィンターさえ飲めば、学業に関する一切の苦痛から解放される。


 (医者になれる。私は間違いなく医者になれる。

 お父さんやお母さんに自慢の娘だと喜んでもらえる)

 久しぶりに見た父や母の笑顔が、彼女に勇気を与えていた。

『この成績が続けば、絶対、東大に合格する事が出来るな。

 やはり私の娘だ。そのうちやり遂げると信じていた』

『あの人もとても喜んでいますよ。今夜は御馳走にしなきゃね』

 不正がなんだ。ドーピングがなんだ。

 光り輝く未来を掴む為に、薬の力に頼って何が悪い。

「それでは始め!!」

 清らかな川の流れの様にクリアな頭の中から、学んできた事柄を探し出す。

 答えを導き出す速度も、答えを書く速さも尋常では無かった。


【西暦2059年12月 東京都世田谷区駒鳥市 鳳翔会所属神原組事務所内 午後2時】


 鳳翔会は『本部』と傘下である『舎弟の組』に分かれており、組織は樹木の様に細分化している。

 子分の子分と言う図式も暴力団の世界では珍しい事では無く、神原組もその中の1つだった。

「今年1年でブルーウィンター漬けにした高校生のリストです。

 1週間に10錠購入で1人あたりの貢ぎ金が8万円。

 男子・女子合わせて既に500人以上の生徒がブルーウィンターを使用しています。

 シノギの合計は計4000万。本部への上納金が2000万。

 ブルーウィンター購入の経費は400万かかっていますので、我々の利益は1600万。

 それでも充分過ぎる程稼げていますし、今後購入者はさらに増えていくものと思われます」


 事務所内でホワイトボードに様々な事柄を書き込んでいく阿武隈。

 あの時とは違い、スーツ姿ではあるが黒いサングラスをかけている。

「しかしなぁ阿武隈。サツに駆け込むガキがいたら厄介な事になるんだぞ。

 その辺りの対策はちゃんと練っているんだろうな」

 頬に傷のある髭面の男が、阿武隈にそう言葉を投げかける。

 その男の隣には唇の分厚い、ヒキガエルの様な風貌の男が座っていた。


「心配御無用。このブルーウィンターの素晴らしい点は、その副作用にあります。

 最初は服用後軽い頭痛や吐き気がする程度ですが、使えば使う程脳細胞に負担がかかっていくのです。

 30台後半で認知症の症状が出始め、40台半ばには廃人となります。

 薬を常用している為頭がおかしくなっていくのにも気付きにくく、解っても既に手遅れ。

 最初に渡した者達に異常が現れる直前でシノギを止めても、その時には既に数億の稼ぎが我々の懐に入っているでしょう」

 神原組組長の神原かんばら直樹なおきは笑いながらヒキガエル顔の男に肩を回す。

「黒田。お前のおかげでウチは鳳翔会一番の稼ぎ頭として本部からも評価されている。

 今じゃ他の組も皆ブルーウィンターで稼ごうとしているが、お前が薬を見つけてこなかったらこの現状は無かった」


 神原組の組員、黒田くろだ龍二りゅうじは醜悪な笑みを浮かべた。

「ロシアで画期的な覚醒剤が製造されていると言う話を阿武隈が聞きつけてきましてね。

 そこから先は樺太経由で薬を大量に買う方法は無いかとずっと考えていましたよ。

 二階電脳堂と手を組んで、高性能PCの中にブルーウィンターを隠して密輸すると言う方法を思い付いたんです」

 鳳に直接直訴して、二階電脳堂の力を借りる。

 難しい仕事であったが、億単位の収益が見込めると言う事で本部も了承した。

 そして今、実際に大金が彼等の懐に転がり込んできている。


 警察も全く動いておらず、神原組は幸福の絶頂を味わっていた。

「このまま何事も無くシノギが上がり続ければ、お前が本部に招聘される事も夢じゃない。

 そうなれば、神原組は事実上鳳翔会のナンバー2になれる。

 俺も幹部待遇されるかもしれんと考えるとまさにブルーウィンターは組の救世主だな」

 人を騙すには『嘘の中に真実を入れる』のが最適であるとされている。

 ブルーウィンターの『頭を良くする』と言う効能は本物である為、高校生達は薬漬けになっても自分が騙されているとは思わなかった。

 副作用が出る前に、より多くの子供を騙して薬を買わせる。

 彼等は警察をも騙して逃げ切ると言う計画が頓挫するとは全く考えていなかった。


「いいか、来年も再来年もバカなガキが高校に進学してくる。

 そいつ等を騙して薬を買わせ、ブルーウィンター無しでの高校生活など考えられない身体にしてやるんだ。

 多くの卒業生がブルーウィンターを服用していたと言う事実を示せば、相手の警戒心も薄れる。

 売って売って売りまくるぞ。鳳翔会の『皇国浄化計画』を成功させる為にも」

 神原の檄に対して、他の組員達も同調しやってやるぞと言う気概を見せる。

 彼等はロシアからブルーウィンターだけで無く銃やドローン等兵器を大量に購入していた。

 手に入れた巨額の金を使い、彼等は政府を転覆させると言う野望まで抱いていたのである。


 実際、かなりの数の武器が揃い計画の進捗状況は50%近くまで進んでいた。

 鳳がニューマンに己の野望を引き継がせたいと思うのも、この計画を何としても成功させたいと考えているからである。

 浮かれている組員達の中で、黒田龍二だけは彼等とは違った意味での笑みを浮かべていた。

 この『計画』の影に隠れて、彼は自分が進めている別の『計画』を成功させるべく動いていたのだ。

 (神原組が俺の隠れ蓑になってくれる。俺も俺のやるべき事をやるだけだ)

 阿武隈も知らぬ彼の『もう1つの顔』が浮かび上がってくるのは、この日からさらに時が経過してからの事だった。

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