閑話 人生における唯一無二の救い
俺が『ラブ・クローバー』に出会ったのは、母さんがヤクザと不倫を始めてしばらく経った頃だ。
刑事をしている父さんに知られたら離婚待ったなしの状況で、俺は優しかった母さんに見切りを付けられず、かと言って父さんに打ち明ける勇気すらなく。
只々、都合の悪い事から目を逸らして、上っ面だけの『平和な家族』を漫然と続けていた。
乙女ゲームを手に取ったのは、そんな後ろめたい日常をやり過ごすための、現実逃避の一環だった――いや、現実逃避と言うよりは、俺なりに母さんが不倫に
ともかく、それが『ラブ・クローバー』を知るきっかけで、俺の前世で唯一没頭した物語との出会いだった。
単なる恋愛シミュレーションに留まらないストーリーの重厚さと分岐の量。それに伴うエンディングの多彩さに圧倒されるのにそう時間はかからなかった。
旧版をクリア後に即移植版とハードを同時購入して、エンディングをすべて回収した後のシークレットストーリーまでやり込み、攻略本から設定集、公式グッズをコンプリートするに至るまでの作品は、仮に俺が列車の脱輪事故で死ななかったとしても、生涯出会う事はなかったと断言できる。
そんな『ラブ・クローバー』をプレイする中で、俺が最も惹かれたキャラクターは、主人公のエミリーでも、他の攻略対象やサブキャラでもない。
プレイヤーの攻略を邪魔する悪役令嬢こと、アンリエットだった。
家柄・人格共に申し分のない、フランセス王国次期王妃の呼び声高き、完全無欠の公爵令嬢。
第一王子ナルシスルートだけではなく、ナルシスの取り巻き令息のルートにおいても、各令息の婚約者に協力するという形でプレイヤーの前に立ちふさがる、最大の難敵でもある。
だがしかし、彼女がプレイヤーから嫌われていたかと言えば、そうではない。寧ろ登場人物内で一、二を争う人気キャラクターと言っても過言ではないだろう。
公式の人気投票で女性プレイヤー人気不動の一位がトマトなら、男性プレイヤー人気不動の一位がアンリエットである。
『ぐう聖』『言う事成す事全て正論』『俺たちにこんな善人を破滅させる公式は鬼畜』と、本編履修済みプレイヤーから悲喜こもごもの声を寄せられる、これまでの乙女ゲームのテンプレ悪役令嬢とは一線を画した令嬢に、俺も例外なく虜になった。
何せ悪役は悪役でも、彼女のそれは『必要悪』だ。
婚約者を持つ高位貴族の令息たちに、身分違いも甚だしい主人公が近寄る事を簡単に許しては、令息たちの身の安全を守れず、婚約者である令嬢たちの信用と立場を危うくし、ひいては、王侯貴族を上位とする厳格な身分秩序の崩壊にも繋がりかねない。
それが見て見ぬふりをしてしまえば、次期王妃として、そして公爵令嬢としての立場がなくなってしまう。
だからこそアンリエットは公爵家の人間として、真っ先に主人公を糾弾するのだ。それでナルシスに疎まれようとも、何が正しい事なのかを、自らの行動で証明する。
嘘で取り繕った現実の理不尽から目を逸らす事しか出来なかった俺に、
そんな彼女の生き様に、俺は――……
「――……様、ギルフリード様!」
不意に、聞き慣れた男の声が俺の意識を引き戻す。
「ギルフリード様、お気づきになられましたか」
声の主は、幼馴染みのベンノだった。ベッドに仰向けになった俺を見下ろしたまま、端正な顔を安堵に緩めたかと思うと、すぐに深い後悔を眉根に刻み込んだ。
「申し訳ございません。貴方の傍に居りながら、不覚を取りました」
ベンノの言葉に、俺は意識を失う前の事を思い出す。
隠しルートでその存在が明らかになる『機密書類』を出しに、ファリエール公爵を呼びつけた事。そして階下に向かう直前、結界で隔離された事。ベンノを襲い、機密書類を奪った人間を追いかけて隠し通路に入り、それから――……
「ベンノ、侵入者はどうなった?」
「……捕らえたとの報告はありません。私が来た時には既に、ギルフリード様だけが通路で倒れておられました」
「そうか……」
最悪の報告を耳にして、噛み締めた奥歯がギリリと鳴る。
――……ふざけやがって。
登場人物の中で誰よりも正しい振る舞いをしているのに、誰よりも報われない悲劇の令嬢。
アンリエット・ファリエールの存在こそ、クソみたいな現実を生きていた俺が正気で居るために必要不可欠な、唯一無二の救いだった。
――だからこそ、どんな手段を使ってでも、俺が彼女を救うと決めた。
『ラブ・クローバー』の世界において、アンリエットは主人公が存在する限り、あらゆる形での破滅を免れない。
旧版はまだいい。
しかし移植後の新版においては、主人公がバッドエンドを迎えた上でアンリエットもまた破滅を迎える、最悪のバッドエンドが存在するのだ。
新版で登場する新キャラクター、ライヒェン皇国皇太子ギルフリードに転生していたのは僥倖だった。
皇太子と言う立場と前世からのゲーム知識をフル活用し、どのエンディングを迎えたとしてもアンリエットを救えるよう万全の準備を整えてきた。
「こんな所で、頓挫させてたまるものか」
腹の底から湧き出る怒りを自覚しながら、俺は熱を持った右目をそっとなぞった。
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