閑話 夜は短し恋せよ乙女
ロランがジェレミーと王城を出る少し前の事。
アンリエット・ファリエール公爵令嬢は、ルシェール子爵家の客室に一人座っていた。
王城で第一王子ナルシスに婚約破棄をされ、家族からは罵声を浴びせられた挙句、隣国の皇太子から脅迫まがいの求婚を受け、何もかもに嫌気が差していたアンリエットが、唯一自分に寄り添ってくれた友人・ドロテアの生家であるルシェール子爵家に逗留したいと国王夫妻に申し出て、侍女と女性使用人を付ける事を条件に許された。
現在、ドロテアは父親であるルシェール子爵の下へ報告に向かい、王妃の侍女であるデボラは子爵家の使用人に挨拶に行くと言って、部屋を辞している。
祭典用のドレスからネグリジェに着替え、一人掛けのソファでどこを見るでもなくぼんやりとしていると、客室のドアが控えめに叩かれた。
「失礼いたします。ハーブティーをお持ちいたしました」
「入って頂戴」
入室の許可と共に、ワゴンを押して現れたのは、ルシェール子爵家に宿泊するにあたって付けられて王城の女性使用人――メリーベルだ。
給仕用のワゴンから手際よくハーブティーを給仕し、一礼して使用人部屋に下がろうとした所に、アンリエットが呼び止める。
「あなた、名前は?」
「メリーベルと申します」
「そう。メリーベル。悪いけれど少しの間、話し相手になってくれないかしら? 色々ありすぎて、すっかり目が冴えちゃったの」
「私でよろしければ、喜んで」
メリーベルがもう一脚のソファに腰を下ろしたのを見計らって、アンリエットが口を開く。
「メリーベルは王妃様の侍女じゃないわよね? 侍女服じゃなく使用人服だもの」
「はい。普段は王城のリネン類の管理をしております」
「どうして、臨時とは言え私の世話役に選ばれたの?」
「一緒に来たデボラは以前、私の教育係だったのです。互いによく知る仲なので指名されたのかと思います」
「まあ、そうなのね」
それから共通の知人であるデボラの話でひとしきり打ち解けた後、アンリエットはおもむろにこう聞いた。
「ねえ、メリーベルは恋をした事がある?」
「え? ええと……」
虚を突かれたメリーベルが返答に詰まったのを見て、アンリエットは慌てて釈明する。
「ああ、違うわ。困らせるつもりはなかったの。嫌な思いをさせたのなら謝るわ。ただ、その……こういう話、一度でいいから誰かとしてみたくって」
王立学園は貴族の子息子女たちの学びの場であると同時に、家同士の結びつきを深める場所――即ち、未婚の令息令嬢たちが婚約者を探す場でもあった。必然、未婚の令嬢たちの間では、どのクラスの誰それという令息のどこが良い、と言う噂話で盛り上がる。
幼少の頃から第一王子ナルシスとの婚約が決まっていたアンリエットは、次期王妃としての立場もあって、年頃の少女らしい話に率先して参加する事はおろか、婚約者の居る身で他の男性の話題を自ら口にする事があってもいけない、と自戒していた。
しかしその努力も虚しく、ナルシスからは婚約破棄をされ、家族は慰めるどころか追い打ちをかける始末。
国の為、家の為に決められた相手に嫁ぐことのみを正しいと信じて来たのに、それを教えてきた人間から一気に手のひらを返され、アンリエットはわからなくなったのだ。
「何のしがらみもない恋愛って、一体どんなものなのかしらって、聞きたかったの」
やるせない感情と共に吐き出されたアンリエットの言葉に、メリーベルは少し迷ってからこう返した。
「……しがらみがなくとも、ままならないものですよ」
その答えを聞いたアンリエットは、勢いよくソファから身を乗り出した。
「メリーベル、あなたひょっとして今、恋をしているの?」
「ええ、まあ」
アンリエットの喰いつき様に若干の後悔をしつつもメリーベルがそう答えれば、アンリエットは顔を輝かせて更に質問を畳み掛ける。
「まあ、まあ。どんな方なの? いつから知り合い?」
「ふふ。古株の使用人でして、私が王城へ奉公できるよう取り計らってくれたのです」
実際はもう少し込み入った話ではあるが、嘘を言っている訳でもない。愛想笑いで濁した答えをアンリエットは特に聞き返す事もなく、次の質問へ移る。
「じゃあ、随分長い知り合いなのではなくて?」
「そうですね。もう十年以上になるでしょうか」
十年! と目を見開くアンリエットに、メリーベルはほんの少し物憂げな表情を見せる。
「ただ、付き合いが長いのも考え物でして……それとなく想いを寄せていることを伝えても、若い娘の気の迷いだと、なかなか取り合ってもらえなくて」
「嘘でしょう? こんなに綺麗な女性に言い寄られているのに?」
「まあ、ありがとうございます」
ハーブティーで乾いた唇を湿らせつつ、アンリエットは続ける。
「古株の使用人って言ったわね。その方って随分年上なのかしら?」
「ええ。確か三十五、いえ三十六になった筈ですわ」
「メリーベルは?」
「二十四になりました」
その答えにアンリエットは絶句した。十代での婚約・結婚が当たり前なこの国で、メリーベルは既に『行き遅れ』と言われる年齢なのだ。
それに貴族ではない平民の間では、男性が家族を養えるだけの稼ぎを得られる年齢になってから結婚することも珍しくはないと聞く。
それを踏まえれば、十二歳程度の差であれば、充分に許容範囲内だろう。
「その……あなたの想い人はひょっとして、年上が好きな方だったりするのかしら?」
「そう言った素振りが特にありませんわ」
「……殿方に想いを寄せている可能性は……」
「前に聞いてみましたが、違うそうです」
片頬に手を添えて、メリーベルは物憂げな顔で溜息を吐く。
「特定の相手が居る訳でもなければ、他に浮いた話がある訳でもなし。そのくせ誰彼構わず優しい言葉を掛けるものですから、本当に、ええ本当に困っていまして」
ほとほと困り果てた、と言わんばかりのメリーベルの様子に、アンリエットは浮かんだ疑問を素直にぶつける。
「その方の、どういった所が好きになったの?」
メリーベルは少し考える素振りをした後、ゆっくりと言葉を吟味しながら語りだす。
「……王城に奉公する前、私は家族も財産もすべて失って途方に暮れていました。そんな時に、手を差し伸べてきたのが『彼』だったのです。その誰彼構わぬ優しさのおかげで、今の私があると言っていいでしょう」
「助けられたから、好きになったの?」
「それもないわけではありません。でも、それ以上に」
メリーベルはそこで一度言葉を切った。
思い起こすのは十五年前。血濡れのまま自分に手を差し伸べてきた真っ黒な青年の、彼にしかわからない苦悩を孕んだ言葉。
――『同情じゃねえよ。俺がこうしたいと思ったから、こうしてる』
「……彼の優しさには、どこか無理があるんです。自分の事を後回しにしてでも誰かに優しくあらねばと、己を律し続けるような
その言葉に、アンリエットは身を強張らせる。
次期王妃として、筆頭公爵家の令嬢として、相応しくあらねばならないと律し続けた己が不意に重なった。
「だからこそ」
メリーベルの言葉に意識が現実に引き戻される。そして、続く言葉に息を呑んだ。
「彼がそんな人間だからこそ、私は彼に助けられたように彼を助けたいし、優しくしたいんです」
部屋の中に、メリーベルの言葉の余韻だけが残る。一分にも満たない沈黙を、アンリエットは大きく息を吐いて破り、フワリと柔らかな微笑を浮かべた。
「そう……あなたはそれを恋と呼ぶのね」
「はい。気は紛れられましたか?」
「ええ。とても興味深い話をありがとう。聞けて良かったわ」
アンリエットはもうすっかり冷めきってしまったハーブティーを一気に飲み干して、ソファから立ち上がる。
「今日はもう、寝る事にするわ。引き留めてしまってごめんなさいね」
「とんでもありません。また何かありましたらお呼びくださいませ」
そうして使用人部屋に下がったメリーベルを見送ったままの姿勢で、アンリエットは考える。
王城の庭で子供のように泣きじゃくっていた自分に寄り添ってくれた、唯一の友人。自分を抱き留めてくれた、肌の温もり。
メリーベルは優しさに報いたいという思いを『恋』と形容した。ならば――
――ドロテアの優しさにずっと縋っていたいと思ってしまう、私は。
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