閑話 主人公はただ幸せになりたかった
王城の地下牢で、エミリー・ココット男爵令嬢は座り込んでいた。冷たい空気から身を守るように、ボロボロになった衣服を胸元で握りしめる。
――どうしてこんなことになっちゃったんだろう。
腫れあがった顔でハラハラと涙を流しながら、エミリーは自問する。
彼女が『ラブ・クローバー』を知ったのは、高校三年生の時。大学受験の息抜きに見たゲーム実況の動画がきっかけだった。
『有りそうでなかった本格派乙女ゲーム』という触れ込みで売り出されていたそのゲームは、母親の形見の指輪で好感度を
しかし実際にプレイしてみると、乙女ゲームとは思えない理不尽なバッドエンドへのフラグがそこかしこに詰め込まれており、選択肢を一つ間違えただけで地下牢送りにされたり、場合によっては主人公が容赦なく殺された。
特に注目を浴びたのは『トマトエンド』と呼ばれる、とあるキャラクターによって主人公の腰から上が握りつぶされる衝撃のエンディングで、『なぜこれで一般販売が許されたのか』とネットで物議をかもす程。
大変シビアなバランスの下に成り立つゲームだが、その難易度ゆえにハッピーエンドに辿り着いた時の達成感は凄まじいと言われ、実際彼女も最初のハッピーエンドを見た時は、生まれて初めてゲームに泣かされた。
大学に合格した後、入学祝という名目でソフトを手に入れた彼女もまた、多くのユーザー同様に『ラブ・クローバー』をやり込み、攻略サイトを参考にしつつも無事に全キャラクターのハッピーエンドに到達。
そうして大学に入学して三年後、新規のゲーム機への移植と追加ルートの存在が公式から発表され、就職したら初任給で絶対にハードと一緒に買おうと決意していた矢先、居眠り運転のトラックに撥ねられてしまった。
そんな彼女の前世――西暦2000年代の日本で暮らしていた記憶が蘇ったのは、十歳の時。
今世の養父ココット男爵が、下着一枚で寝室に押し入って来た時だ。
恐怖のあまり絶叫して気絶。ショックで熱を出して三日間寝込み、目が覚めたら完全に前世の自分になっていた。
そして今世の自分の名前を聞いた時、ここが生前にプレイした『ラブ・クローバー』の世界である事を知ると同時に、絶望した。
――私が王立学園に入学するのは十六歳。あと六年も、変態オヤジと一緒に居なきゃいけないの?
丸一日泣きじゃくった後、彼女は覚悟を決めた。
ゲームの知識がある自分なら、学園に入学さえすれば幸せになれる。
――絶対に、幸せになってやる。私は、主人公なんだから。
屋敷に居る唯一の使用人である老家令と、通いの家政婦に協力してもらいながら、養父と物理的に距離をとりつつ寝る間を惜しんで勉強に励んだ。
ココット家は男爵家とは言っても一代限り。財産もさほど多くない上、養父が自分を性的な目で見ている状況では、全寮制の学園に入学する資金を出し渋られ、入学を断念させられる可能性が高い。
と言うか、あの養父なら絶対にやると彼女は考えた。
更に『ラブ・クローバー』では、キャラクター攻略のために一定以上の『ステータス』が必要だ。学力は特に一定以上なければ、どのキャラクターも好感度を上げられない。
他にも体力・魔力・料理・おしゃれ度などのパラメータがあるが、体力・魔力は学園の授業や部活で上げればいいし、料理・おしゃれ度は前世の知識である程度カバーできた。
並行して、『勉強に必要だから』と買ってもらったノートに自分が覚えている限りの攻略情報を書き連ね、入学後に攻略するキャラクターの目星もつけておく。
そして攻略に必須のキーアイテム、母親の形見の指輪は常に肌身離さず持っていた。
もしこれを養父に取り上げられて、返して欲しければ身体を許せなんて言われたら、目も当てられないからだ。
受験前日。暴行されて受験に行けなくされないよう、扉の前に作ったバリケードがガンガンと乱暴に揺らされる音を頭から被った毛布越しに聞きながら、彼女は二度とこの家には戻らないと誓う。
こうした努力の甲斐あって、彼女は無事王立学園への入学を果たすことになった。
――ああ、自由だ! 私は自由だ! ようやく、ようやく幸せになれるんだ!
六年間、自分を性的な目で見てきた養父と同居し気が抜けない暮らしをして来た彼女は、ようやくここでゲームの世界に転生できたことに感謝した。
何せ自分は全てを知っている。どのように立ち回れば捕まりも死にもせず、他の誰にも手に入れられないハッピーエンドを独占できるかを知っている。
攻略対象に選んだのは、第一王子のナルシス。彼女が最初に攻略したキャラクターだ。
彼を選んだ理由はいくつかある。思い入れがあるというのも一つの理由ではあるが、ほとんど打算で選んだと言っていい。
まず、攻略に必要なパラメータの合計値が全キャラクターの中で最も低い。次に性格も分かりやすくて扱いやすい。
具体的には、未来の王となる事へのプレッシャーを和らげるような発言の選択肢を選べば、あっという間に好感度が上がる。『ラブ・クローバー』の中では一番攻略が容易なキャラクターであった。
そして未来の王妃ともなれば、王妃教育のために王宮住まいになる。実際に王妃ともなればたとえ家族でもそう簡単に会える立場にはならない。つまり、養父とも物理的な距離が取りやすく、彼女に良からぬ事をしようにも出来なくなるのだ。
しかしキャラクター本人の攻略が容易な反面、死亡エンディングのフラグが最も多いのもナルシスルートの特徴だった。
そう、みんなのトラウマ『トマトエンド』である。
ナルシスルートを攻略する上で『トマト』との遭遇は避けられず、また『トマト』以外のキャラクターにも警戒が必要になる。
その最たるキャラが、侍従長ジェルマンだ。
ナルシスに王城へと招待され、そこで単独行動を選んで侍従長との遭遇イベントを発生させてしまった場合、翌日には問答無用でトマトエンドへと直行となる、『ラブ・クローバー』の鬼畜仕様を代表するキャラクターの一人。
プレイヤーからは穏やかな老紳士でありながら歩く死亡フラグでもある事への畏敬を込めて、『侍従長さん』と呼ばれている。
――……取り調べ、本当に怖かったなあ……。
つい先程までの侍従長の尋問を思い出し、エミリーの目から涙が溢れた。その記憶をかき消すようにギュッと目をつぶり、再び思考に没頭する。
王城で侍従長との遭遇イベントを発生させず、無事にアンリエットによるいじめイベントを引き起こした時点で、エミリーの幸福は約束されたはずだった。
強いて言うならば、『トマト』の動きが原作と違っていたのが不安要因ではあったが、ここに至るまでに死んでいないのなら気にしなくていい、と判断した。
――本当に、どこで間違ったの?
好感度とフラグ管理を万全にした上で臨んだ婚約破棄イベントまでは問題がなかった。
ゲームではこのシーンから数年後、二人は結婚式を挙げる。主人公エミリーがココット男爵に引き取られる前に暮らしていた教会で、身分や立場に縛られない永遠の愛を誓い合うのだ。
それなのに、彼女は地下牢に入れられ、ナルシスも次期国王の資格を失ったという。
「……私、これからどうなっちゃうの……?」
彼女は全てを知っていると思っていた。彼女にしか手に入れられないハッピーエンドがある事を確信していた。ゲームの知識通りに動けば、何の問題もなかった。
しかし裏を返せばそれは、ゲームで描写されていたこと以外は何も知らない事を意味する。
ゲームに出て来なかった場面である現在において、地下牢に入れられ外界との接触を絶たれた彼女に打つ手は――ない。
その事に気付いてしまった彼女を襲ったのは、目を逸らせない程の不安と恐怖。そして、最悪の可能性。
「もしかして……私、死んじゃうかも、しれない……?」
彼女が前世において見たバッドエンドの一つ、『地下牢エンド』。
ライバルである悪役令嬢とのやりとりでフラグを立ててしまった場合に起きるそれは、攻略対象と悪役令嬢が結婚した数日後、地下牢で出た一人の獄死者を刑吏たちが
「……やだ……やだ、やだやだやだっ……!」
二の腕に指が食い込むほどに自分の身をかき抱いた彼女は、赤子のように泣きながらいやいやと頭を振った。
「死にたくない、死にたくない死にたくない死にたくない、死にたくないっ!!」
――だって私、自分らしい事なんて何も出来てない!!
家ではひたすら学園に入ることだけ考えて、学園に入ってからはひたすらナルシスを攻略してハッピーエンドを目指すためだけに行動してきた。
それらは
「誰かぁ! 誰か助けてぇ! 私まだ死にたくない、こんな所で死にたくないのよぉーーー!!!」
自分の死を生々しく想像できてしまい、居ても立っても居られなくなった彼女は、鉄格子をガシャガシャとデタラメに揺らしながら叫ぶ。
しかし誰もいない地下牢から返事がある訳もなく、叫び疲れた彼女は鉄格子を掴んだまま、泣き咽びながら崩れ落ちた。
前世と今世を合わせても味わった事のない恐怖に頭を支配された彼女からは、自分以外の転生者が居たことを考える余裕はとうになくなっている。
――誰でもいい、誰でもいいよぉ。
――攻略キャラとか、モブとか、もうそんなのどうでもいいから。
――誰か、誰か……
「ああ、かわいそうに。こんなボロボロにされてしまって」
唐突に、彼女の上から男の声がした。
柔らかく染み入るような声に導かれるように顔を上げたエミリーの目の前には、いつの間にか見知らぬ男が立っている。
暗くて顔はよく分からないが、左耳だけに下げているイヤリングの輝きにどうしようもなく惹きつけられた。
「大丈夫。僕は、君の味方だよ」
キラキラ、キラキラ。
男の言葉に呼応するように煌めくイヤリングの光に魅入られたエミリーは、無意識に男に向かって手を伸ばす。男は彼女の手を取って、そっと囁いた。
「さあ、おいで。君を幸せにしてあげる」
その夜、エミリー・ココットが地下牢から消えた事に気付く者はいなかった。
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