閑話 こうして彼は雄鶏になった
「どうしたものかなあ……」
二十五年前の、雪がちらつく真夜中のこと。
フランセス王国のスラム街で、当時まだ侍従長ではなかったジェルマンは途方に暮れていた。
足元で身じろぎもせずに倒れているのは、同僚だった男。王国の重要文書を盗み出し、戦争中のクローディア共和国に持ち出そうとした裏切り者は、脇腹から血を流し既にこと切れている。
文書は回収し、裏切り者は死んだ。任務自体は完了しているのだが……。
「問題は、この子なんだよねえ」
ジェルマンはそう呟くと、自分の腕の中で気絶している少年を見下ろした。
まだ十歳にも満たないであろう、黒髪の如何にも浮浪児らしいやせぎすの少年。
彼がつい先程まで自分の命を脅かしていたなどと、ジェルマン本人でさえ信じられなかった。
足元の
一つ間違えれば、倒れていたのは裏切り者ではなく自分だった。ジェルマンはそう断言できる。
『オジサン見ない顔だね、人探し? 見つけたらいくらもらえるの?』
数日前そう言って近づいて来た少年は、裏切り者の情報で自分たちをおびき寄せた。
そして地の利を生かして分断し、闇夜に紛れて確固撃破。
こう言ってしまえば簡単に聞こえるが、それをフランセス王国暗部である『雄鶏』に実践できる人間は多くない。
まして何の後ろ盾もない痩せっぽちな少年がたった一人で、だ。
――さて、君は何者なのかな。
ジェルマンは手袋の指先を
狙うのは直近の、裏切り者と接触した時の記憶。そこから遡って、この少年が他国の暗部の回し者や連絡員であるかを確かめる。
「
固有術式を起動し、少年の脳に接続。記憶中枢と同期開始――……
「――っ……!?」
途端、ジェルマンの脳に流れ込んできたのは、全く見知らぬ異国の風景だった。
何本も立ち並ぶ真四角の塔が競うように天を突き、黒く固めた道の中央を車輪の付いた色とりどりの箱が恐るべき速さで通り過ぎて行く。
女がズボンを穿き、肩や脚を出しているのに誰も何も言わない。道行く人々は手に薄い板を持ち、皆がその板を覗きながら無表情で歩いていた。
――なんだここは。
ジェルマンは少年の記憶を
建物も、道も、人も。何もかもが違い過ぎる。接点が何一つ見つからない、この世のどこからも隔絶された場所。
そんな感想を抱いた瞬間、言いしれない悪寒が背筋を伝う。ジェルマンは慌てて固有術式を解除して、意識を現実へと引き戻す。
先程と変わらぬスラムの路地裏の風景に、堪らず安堵のため息を零した。
再び、腕の中で気を失っている少年に目を落とす。
――この子は、本当に何者だ?
いつの間にか汗で濡れていた背中が震えたのは、冬の空気のせいばかりではないだろう。
――得体が知れないなら、ここで殺しておくか?
裏切り者の逃亡に手を貸し、工作員五人を殺害した。『処分』の理由は充分ある。
だが、ジェルマンは躊躇した。
幼い子どもを殺すことにではない。彼を怯ませたのは『未知』への恐怖だ。
当時のジェルマンの心況は、喩えるなら災いを封じた開かずの箱を、箱を開けずに覗いてしまったようなもの。
箱の中身は信じられないような事ばかりで、とても周りには告げられない。
もしこの不可思議な記憶を持つ少年を短絡的に殺害してしまえば、これから先なんらかの形で損害を被るのではないかという、なんともあやふやで漠然とした不安が彼の手を止めたのだ。
もしも彼が『雄鶏』でなければ、何も見なかった事にして逃げ去るという選択肢も取り得ただろう。
しかし現実問題、ジェルマンは任務の達成と、同僚五人の死について報告しに戻らなければならない。
彼にはこの少年が裏切り者に加担し、『雄鶏』に大きな損害を与えた経緯と目的について話す義務がある。
――一体どうすればいいのか。
その逡巡が、ジェルマンの運命を決めてしまった。
「……殺さねえの?」
腕の中の少年が目を覚まし、薄く開いた目でジェルマンを見上げる。
「……報告に行くのが憂鬱でね」
ジェルマンの現実逃避の軽口に、意外にも少年は真摯に応じた。
「問題が起きた時は早めに報告した方がいいよ。報告、連絡、相談は早いほどすぐ対応できるわけだし」
「問題を起こした張本人に言われるとこんなにも腹立たしいものなんだね。初めて知ったよ」
そう言ってジェルマンは手袋を外したままの手で、少年の頬をやや強めに挟み込む。
「なんで彼に手を貸したんだい? 何の得にもならないだろうに」
「
少年曰く。
彼は盗みで日々の生計を立てていた。魔法の存在を知ってから独学で隠蔽術式を作り上げ、闇夜に紛れて食料を盗み、細々と食いつないできた。
しかし、不衛生なスラム街で、僅かな食事しか食べられない子どもが健康でいられるわけもなく。とうとう寒さと栄養失調が祟って体調を崩してしまった。
虫とネズミが這い回る廃屋で、一人死にかけていたのを助けたのが、足元に転がっている裏切り者だ。
裏切り者は少年を魔法で治療し、住処を整え、温かい食事を用意した。
「『なんで助けた?』って聞いたら、『最後に罪滅ぼしをしたかった』ってよ。ああ、コイツ死ぬ気だなあって思ったから、その前にいっちょ恩返ししたろと思って」
「そんな漠然とした理由で私たちと戦ったのかい? 命まで懸けて」
そう言うと少年は一笑してジェルマンにこう返す。
「元々大した命じゃねえよ。スラムに生まれちまった時点で人生詰んでるからな。いつどう死んでもおかしくねえなら、やりてえようにやって死ぬだけさ」
少年が語った思想に、ジェルマンは内心で感心していた。
ジェルマンは会話を始めた時から、『
少年の発言にも、態度にも一切の嘘はない。
十歳にも満たない子どもがごく自然に未来を諦め、他人のために命を投げ出すことを躊躇わないのは、ハッキリ言って異常だ。
だが、その異常性に忌避感はない。
むしろフランセス王国の存続のため、時には命を捨てる選択を迫られる『雄鶏』の理念に通じるところもあって好ましいとすら思った。
「じゃあ私が安全な食事と寝床を提供したら、君は私のために戦ってくれるのかな?」
気付けばジェルマンはそう言っていた。予想外の言葉に少年は目を瞬かせる。
「えーっと……それ懐柔? 仲間五人も殺してるけど」
「君の仕業だなんて誰も信じないよ。彼の死に物狂いの反撃、と言う方がよっぽど説得力がある」
もちろん、善意からの提案ではない。この不可思議な記憶を持つ少年を安易に殺害してしまう事への不安を、少年を監視下に置く事で解消したいという打算がジェルマンにはあった。
もっとも、少年への純粋な興味が混ざっていないと言えば嘘にはなるが。
「んー……」
少年は渋い顔をして足元に転がる
迷う少年の耳元で、ジェルマンはそっと囁いた。
「長生きすれば、恩返しになるんじゃない?」
少年は思いっ切り眉根にしわを寄せてジェルマンを見上げた後、大きな溜息を吐く。
「……タダ飯喰らいになる気はねえから、仕事と給料も寄こしてくれ」
「いいよ。交渉成立だ」
少年を自分の腕からそっと下ろして握手をしようとしたジェルマンは、まだ少年の名を聞いていない事に気がついた。
「君、名前は?」
「ねえわ。なんか適当に付けてくれる?」
適当に、と言われてジェルマンは周りを見渡せば、足元の死体が真っ先に視界に入る。
「じゃあ、彼から貰おうか」
「あー……そういや俺、この人の名前知らなかったわ」
少年の言葉に苦笑しながら、ジェルマンは彼に名前を告げる。
「彼はローランド。でもそのまま付けるのはちょっと味気ないな」
ジェルマンは跪いて少年と目を合わせた。
「ロラン、でどうだい?」
「……ロラン」
黒髪の少年――ロランは、自分の名前を口の中で何度も呟くと、やがてしっくり来たのか、ジェルマンを見て頷いた。
「俺は、ロラン。アンタは?」
「ジェルマンだ。よろしく、ロラン」
こうしてまだ侍従長ではなかったジェルマンは、後に自分の片腕となるロランを『雄鶏』に迎え入れる事となった。
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