第8話 『巨人の暴腕』
鍵穴から洩れる光を発見したセルジュは、即座に伝達術式を起動した。
「メリーベルさん、いいですか」
『どうしたのセルくん』
「殿下の部屋に誰かいます」
女子寮に向かったメリーベルに端的に状況だけを伝える。一瞬の間を置いて返答が来た。
『数は?』
「気配からして一人。このまま『対応』に当たるッス」
『わかったわ、こっちも警戒しておく。気を付けてね』
「ウッス」
短いやり取りを終え、伝達術式を解除。そのまま身体強化術式に魔力を回す。
ナルシスが婚約破棄騒動を起こした原因を調べるために来た自分たちと、同じタイミングで学園に侵入している何者か。
おそらくメリーベルが向かった女子寮、エミリー・ココットの部屋にもいる可能性は高い。
証拠の確保に来た自分と鉢合わせたのなら、考えられる目的は――証拠の隠滅だ。
――合流する時間はない。単騎突撃。速攻で沈める。
セルジュは素早く判断し、ドアに近づいて合鍵を差し込む。一度深く息を吐いて、精神を研ぎ澄ました。身体強化術式で鋭敏になった五感が、ドアの向こうにいる侵入者の足音を拾う。
隠密任務で足音を殺すのは鉄則。つまり向こうは、誰も来ないと油断しきっているのだ。でなければ不用意に灯りを点けて部屋を荒らしなどしない。
背後関係を吐かせるために、侵入者は生け捕りが望ましい。室内での取り回しが不便なことも合わせて、腰の剣は抜かずに素手での格闘を選択。
足音から相手のおおよその位置を割り出したセルジュは、鍵を開けて部屋の中に飛び込んだ。
乱暴に開いたドアの先、覆面をつけた細身の侵入者が振り向いた時には、セルジュは既に侵入者の眼前に迫る。
侵入者に馬乗りになり、押し倒した勢いと重力の乗った拳を顔面に振り下ろした。
高価な照明魔道具の下で、肉越しに骨がぶつかる鈍い音が、二度、三度、四度。
「――っい!?」
五度目の拳を振り抜こうとした時、セルジュの左腿に鋭い痛みが走った。痛みに気を取られた刹那、侵入者が左の掌をセルジュの顔に向ける。
「【炎よ】」
覆面の下からくぐもった詠唱を聞いたセルジュは、右足の筋力だけで咄嗟に後ろへ跳ぶ。
同時に侵入者の掌から炎が吹きあがり、たった今まで頭があった場所を焼いた。
セルジュは跳んだ勢いを利用して後転。痛覚遮断術式を起動して左足の痛みを無視し、即座に次の行動に移れるよう腰だめの姿勢で立ち上がる。
侵入者はセルジュに掌を向けて牽制しながら、四つん這いになって立ち上がろうとしているが、頭部に浴びせられた容赦ない殴打が三半規管を揺らしたのか、その動きは緩慢だ。
――逃がさねえ、畳み掛ける!
セルジュは防御術式を起動。魔法のダメージを無視して侵入者に再び飛びかかろうとした瞬間――
「っ!?」
突如、左脚から力が抜ける。転倒を防ぐために、肉体が反射で両手を床についた大きな隙を侵入者は逃さなかった。
「【疾風よ、切り裂け】!」
掌から生み出された無数の風の刃が正面から全て直撃し、その衝撃がセルジュの身体を吹き飛ばす。
「っぐぅ!」
セルジュは全身に切り傷を作りながら転がり、ドアの横の壁に背中から叩きつけられた。
起動した防御術式が功を奏し、致命傷はない。痛覚遮断と身体強化も正常に起動している。
だと言うのに、身体が思うように動かせない。
――くっそ……毒か。
左腿から突き出る細い金属の柄。おそらく、即効性の麻痺毒が塗られた針だろう。既に下半身の感覚がなく、指先も痺れ始めた。
侵入者は来客用の椅子を支えにしながら、ゆっくりと立ち上がる。
肩で息をしながらも足取りはしっかりしており、身動きが取れないセルジュから目を離さず、ジリ、ジリ、と窓の方に後ずさっていく。
――マズい、逃げられる……!
セルジュの中で警鐘が鳴る。ここで逃がしてしまえば、婚約破棄騒動の手掛かりをつかむ機会が失われてしまう。
だが麻痺毒を打たれた脚は動かせず、自力での追跡は不可能。メリーベルを呼ぶ時間はない。
――それだったら……これに賭けるしかないッスね……
セルジュが思考を巡らせている内に、侵入者が窓の前に辿り着く。鍵を開け、窓枠に足をかけて背を向ける。
侵入者の視界から外れた、一秒にも満たない隙。
反撃には充分だった。
「……『
壁に背を預けたまま、セルジュは何も持っていない右手で何かを掴む。
「っう゛!?」
途端、身体を窓枠の外に半ばまで躍らせた侵入者は、突然、胴体の猛烈な圧迫感と激痛に動きを止める。
まるで巨大な手に身体を掴まれているかのように、前に進むことが出来ない。
セルジュが痺れ始めた右腕を緩慢に持ち上げれば、侵入者も宙に浮く。
侵入者は四肢を振り回して逃れようとするが、抵抗も虚しく室内に引き戻され、天井近くまで持ち上げられた。
『
その名が表す通り、セルジュの手の動きに連動して重力の方向を自在に変更する術式は、
セルジュにとって一撃必殺の切り札ともいえる術式だ。
侵入者は拘束から逃れようと手足を振り回し、身をよじっているが、実体を持たない重力の手に干渉できる道理もなかった。
最初からこの術式を使って侵入者を捕縛できるのであれば、毒も怪我も負わなかっただろう。
しかし残念ながら『
「は、は……俺に毒、使って良かったッスね。全然、手に力入んねー」
そう、力加減ができないのだ。
『
しかしながら生まれ持っての恵まれた体格に、『雄鶏』として幼い頃から鍛えていた事もあって、彼の握力は常人のそれを大きく上回る。
リンゴを素手で
そんなセルジュが十全の状態で『
全員もれなくリンゴの搾りかすに変えてしまうからだ。
この術式を使って人間を生きたまま捕縛するならば、フチまでなみなみと水を注いだコップを、中身を一滴も零さずに持ち上げるような集中力と慎重さが必須となる。
敵の前で悠長に力加減の調節している暇などあるわけがない。
今、侵入者を無傷で捕らえられているのは、麻痺毒によって握力が低下しているからだ。
相手を殺してしまうか否かの賭けに、セルジュは勝った。
「お、のれぇ!」
拘束を自力で解除できないと悟った侵入者は、ならば術者をと、麻痺毒が回ったセルジュに掌を向ける。
だが、攻撃魔法の詠唱を唱えるよりも、セルジュが『腕』を動かす方が早い。
「んじゃ、お疲れッス」
手首のスナップだけを使って、セルジュは侵入者を真横に放り投げた。
横方向の重力の加速を受けた侵入者は目にもとまらぬ速さで吹き飛び、轟音と共に壁に大の字に叩きつけられる。
「――カ、ハ……」
天井近くの壁に蜘蛛の巣状のヒビを入れた侵入者は、自らの重みで壁から剥がれ、顔面から床へと落下した。
――手応え的に死んではいないはず……ッス
セルジュは侵入者が動かないのを見て、制圧完了と判断し、伝達術式を起動する。
「メリーベルさーん……」
『セルくん、大丈夫? こっちは無事よ』
「すんません……制圧したんスけど、毒で動けないッス……」
『了解、増援を呼ぶわ。治癒術式で応急処置できそう?』
「ウッス……」
無事にメリーベルと連絡を取り、セルジュは身体強化と防御術式を解除。痛覚遮断はそのままに、治癒術式を起動する。
いくつもの術式を並列起動していたために、魔力・体力の消耗が激しく、加えて敵の風魔法で受けたいくつもの切り傷からの失血も酷い。
「はー……疲れたッス……」
壁に背中を預けたまま、大きな脱力感と共に、セルジュは意識を手放した。
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