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「おはよ。ちゃんと来てくれて良かった」


 カフェの最寄駅に、彼女はなぜか学校の制服姿でやってきた。


「おはよう」


「待った?」


「いや、さっき着いたとこ」


「まあそう言うのが常識やんね」


 彼女は来た方とは異なる方へ歩き出した。


「今日って制服指定だっけ?」


「ううん。私が着たかったから着ただけ。一応一目は気にするようにしてるから、普段は私服を着てるんよ。今日は島野くんと歩くから、別に不自然じゃないかなって思って、久しぶりに着てみてん」


「そっか。てっきり学割用に着てきたのかと」


「昼、どこかお店に入れるわけじゃないから」


「あ、ごめん」


「ううん。正直こういう会話も、できる人がいるだけで楽やから。これからも気にしないでほしい」


「わ、わかった」


「それに、今日はカフェのメニューのサンドイッチ、作ってきたから。昼ご飯は心配しなくていいし。外暑いけど、そこは勘弁してね……って、そんなに見つめてどうしたん? 制服のしわが気になるん? あ、まさかそういう目で」


 俺はハッとして弁明の言葉を考えて口から流す。


「いや、そんなことはない! ただ、制服を着てると確かにクラスにいた気がするなって思って、あと年相応に見えるなって」


「それって、普段は老けて見えてるってこと?」


「あ、いや……それは」


「いいよ。別に。もうそれぐらいの月日を過ごしてきた感覚はあるし。おばあさんですよー」


「こんなおばあさんいたら若いチャラ男に引っかかりそうだけどな」


「ちょろいってこと?」


「ああ何言ってもダメだ」


 俺たちは楽器店に着いた。彼女は楽器に刺すオイルを買いたかったらしい。俺はベースを見て時間を潰すことにする。


「ベースってこんな値段なんや」


 軽音楽器ゾーンに入ってきた彼女が、隣で物珍しそうに見ている。


「やっぱり高い方がいい音出るん?」


「いい音っていうか、音質の違いかな。トランペットはそうなの?」


「うん。吹きづらいけど、慣れたらいい音が出る。私のはそんなに高くないから、ちょっと憧れあるかな」


 彼女は透明のボトルを片手に聞いてきた。俺は頷いてボトルを受け取りレジの方へ歩き出した。


「いいの?」


「お金ないし。見てるだけで楽しいからいいよ」


 彼女は申し訳なさそうについてきた。そんな顔しないでほしい。誰にも見られなくとも、幸せそうな笑顔のままでいてほしい。そう心の中で思うだけで声に出さず、俺たちは店の入り口に立った。

 その時、開いた自動ドアの向こう側が見えた時、俺は息が詰まった。


「えっ、なんで?」


 様々な感情に顔が染まった大津さんがそこにいた。隣を見ると、彼女は案外落ち着いているように見えた。


「千景、話したいことがある」


「え、それはそうやけど、それより島野くんは」


「千景!」


 ハッとして彼女の顔を見ると、涙が頬を伝っていた。その隣を中年の女性が通り過ぎて行った。視線を戻すと、大津さんも泣きそうな目をしていた。


「俺、席外すよ」


 二人を見て、考えて、搾りだした一声はそれだった。


「ちょ、ちょっと。島野くんにも聞きたいことがあるんやけど」


「うん、お願い」


 二人の反応は異なっていたが、俺は彼女の方を尊重した。

 別にそうする必要はないが、俺はその場を走り去っていた。大津さんがちゃんと彼女と向き合うには、俺の存在は早く消えた方がいいと思ったから。大津さんには、彼女にだけ集中してほしいと思ったから。

 気づいたときには、俺は息を切らして、あのカフェの前に立っていた。


「何かありましたか?」


 ドアを開けて汗だくのまま入ってきた俺を見て、『マスター』は穏やかに言った。


***


 俺はいつも通りカウンターに座り、オレンジジュースをもらう。そして今日の事の顛末てんまつを、『マスター』に全て話した。話の節々の相槌から、『マスター』は彼女の事情の詳細を知っているのだと確信が持てたが、俺以外に彼女のことが見える人がいることが知らなかったようだ。


「私はてっきりあなたが唯一の理解者だと思っていたんですが、そうではなかったのですね」


「まあ、まともに話すのは今日が初めてだと思いますけどね。」


「そうですか」


 『マスター』はもう一人いた客を見送り、カウンター席の隣に座った。そして、この話は彼女以外誰にも話したことがないという前置きを挟んで、語り始めた。


「私も実は妻がいまして、かつて同じようなことがありました。妻の両親と、私たちの子どもが、事故に遭って、皆その場で死亡が確認されたそうです。もちろん私たちは、暫く気を病んでいましたけど、何分妻の親族はほとんど病弱か不幸で早く亡くなってしまっていましたから、妻を支える自分がしっかりしなければと思い、私は妻を遊園地に連れて行きました。ですがその時、人数分注文して渡されたチケットは、私の分だけでした。もちろん不思議に思ってそれを返却し、帰ったのですが、その途中に寄ったいずれの場所でも、妻は認識されませんでした。あとは日々を過ごしていくうちに、日の出ている間は認識されないという見解に至りました」


 何分老いた身ですから、どうせただのボケだろうと相手にされないわけですよ、と『マスター』は白髪頭を掻く。


「すみません。辛いことを話させてしまって」


「いいんですよ。本人にも一言伝えましたし」


「あの、それで解決法ってあるんですか? 何かできることだけでも、教えていただきたいんです」


「単刀直入に言うと、それは無理です」


「えっ……無理?」


「長年考えてきても、私には答えを出すことができませんでした」


 思わずため息をついてしまった。とても失礼とは思いながら、それでも落胆する気持ちが前に出てしまった。


「それにしても、どうして何も話してあげなかったんですか? きっと同じ人がいるって言ったら、少しは気の持ちようが変わると思うんですけど」


「まあ、あの子に深くかかわることは避けたいと思っておりましたので、特別な存在として見られないため、でしょうか」


「でも、あなただったらきっと力になってあげられますよ。数少ない彼女を意識できる人間……あれ、どうして彼女のことを認識できてるんでしたっけ」


「それは、私があの子の祖父に当たるからです」


「えっ、でも全く知らない人みたいな言いようされてましたけど」


 『マスター』は、自分が父が他の祖父に当たること、そして彼女が幼いころに息子が離婚して彼女の母親が異様に自分たちを嫌っていたこと、彼女を遠ざけていたことを教えてくれた。

 初めて彼女がカフェに来た時に、雨に濡れていた彼女が干そうと取り出したノートの表紙を見て、ようやく意識したとのことだ。おおよその事情は抽象的な情報から推測できたものの、自分が祖父だということをばらしてしまうと彼女を路頭にさまよわせることになるということも推測できたため、他人のふりをしてかかわってきたらしい。たしかに家の方で悪い人のような扱いをされていたら、トラブルになりかねない。


「内緒ですよ。口止め料として、今日はお代を返しておきます」


「いえいえ、それは困ります」


「そうですか、じゃあその代わりに」


と言って、『マスター』は一枚の紙を渡してきた。


「最近妻が亡くなって、人手が足りなくなってきたんです。バイトになっていただけたら、これからここでオレンジジュースをまかないで出しましょう。学校の方で禁止されていたりしませんか?」


「それは大丈夫ですけど、これって断ったらどうなるんですか?」


「私が悲しみます」


 一番心が痛む理由が来た。


「わ、わかりました。とりあえず両親と相談していいですか? 部活とか学業とかありますし」


「かしこまりました」


 『マスター』はにこやかに手を振って見送ってくれた。外に出た時には、もう夕日が町を照らしていた。

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