6

「いらっしゃいませ」


 久しぶりに不愛想な声を聞き、ある程度遠ざかっていた世界に引き戻されたような気がした。


「オレンジジュースでいいですか?」


 俺は頷いた。以前注文したものを覚えられていたことが、まるで常連客の扱いを受けたようで妙な優越感を覚えた。

 本は―――おぼろげな記憶しかないが―――あまりラインナップは変わっていないようだ。


「お待たせいたしました。オレンジジュースでございます」


 奥から出てきた低い声の彼女が、俺の前にグラスを置いた。今日は先程の店主と似た、店員の服装であった。黒寄りの紺色生地に白いボタンが良く映える。髪も後ろで団子を作っている。


「久しぶりですね」


「久しぶり。ちょっと部活が忙しいのと、門限がね。明日からの帰省が終わったら一段落かな」


「そうですか」


 敬語はいいと以前言ったものの、あえてそれを使う彼女はどこか不機嫌そうで、引きつった笑顔で何かをつぶやいているのが怖い。


「あの……」


「忙しかったんですもんね。仕方ないです」


「これからはもう少し短いスパンで来るようにするから。本当にごめん!」


 俺は立ってできる限りの低姿勢で謝罪した。


「ごめん。ちょっと言いすぎちゃった」


 座って、と促されて俺は席に着く。その隣に彼女は座り、息を吐く。そして話題を切り出した。


「そういえば部活は軽音だったやんね。何の楽器してるん?」


「エレキベース。たまにハモリのボーカルにも入るけど、下手だからあんまりやらない。てかよく軽音だって覚えてたね」


「まあ君のバンドのボーカルが人気だから、自然とね。しかしベースかぁ。かっこいいやんね」


「バンドの音楽とかよく聞くの?」 


「ううん。放課後に楽器の演奏とか、最近あんまりやってへんからかな。楽器演奏ってだけでかっこいいって思う。最近はコーヒー淹れたり料理したりしかしてへんから、ちょっと憧れ」


「今はここで働いてるの?」


「うん、住み込みで」


 少し息が詰まってしまった。こういう話がきっとこれからもいくつか聞くのだろうし、これは序の口のはず。ここで驚いているようだったら、彼女のことを助けることはできないだろう。


「ああ、そんな深刻な顔せんといて! 夏休みの間だけやから」


「そうなんだ。少し安心した」


「親が共働きで、こういう状況でもなかなか取り合ってもらえなくって。逃げるようにここに来たんよ……って、別にそこまで深刻じゃないから、そんな目でこっちを見ないでくれへん? なんか私も悲しくなってくるから」


「ああ、ごめん。なんかこれじゃ俺のメンタルの方が先にやられる気がする」


「もうここで全部話しちゃおうか?」


 彼女はいたずらっ子の笑みを浮かべた。こちらが少しずつでいいよと言ったのに、まさか向こうからすべて一気に話すと脅してくるとは。立場逆転にも程がある。


「まあ今日はこれぐらいかな。全部話しちゃうと、また来てくれなくなるし」


「え、でも……」


「それに、門限あるんでしょ? 無理しなくていいって」


「いや、今日は少し早めに部活が終わったし、親も用事で家を空けているから、晩御飯も外で食べてくるように言われてるんだ。だから、もっと話が聞きたい」


「じゃあ何か注文する? 晩御飯になるようなものだったら限られちゃうけど」


「おまかせしていい?」


「わかった」


 彼女は立ち上がり、カウンターの奥に向かって


「マスター。オムライス一つ。サービス多めで」


と大きな声で言って再び席に着いた。


「で、何が聞きたい?」


 少しの期待が消えたが、残った嬉しさを噛みしめるように、俺は彼女に答え合わせを求めた。


「ああそのことね。まず私の今置かれている状況から。前言った時は曖昧な言葉でごまかしたけど、今の私は夜にしか他の人に認識されないんよ。日が出ている間は、全く他の人と話ができない。他の人とぶつかっても、全く反応がない。それに夜は人として認識されるけど、『私』として認識されない。私以外の全ての人には、第三者としてしか」


「なるほど……え、じゃあ俺は? 暮れかけとはいえ、日が出ている間に見つけたわけだし」


「分かんない。例外だと思う」


「まあ今はそれを考えても仕方がないか」


「お待たせしました。オムライスでございます」


 話が途切れかけたところで、ちょうどホカホカのオムライスが出てきた。俺は会釈をして受け取り、代金を渡す。『マスター』は下がっていった。


「そういえばあの人は?」


「あの人はマスターやけど」


「いやそうじゃなくて、あの人はちゃんと意識してるの?」


「多分他の人と同じ。物分かりがいいって言ったら上から目線やけど、すごく理解のある人。でもあんまり人に興味がなさそう。自分のことをあまり話そうとしないし。色々教えてくれるからすごく助かってるけどね」


 気難しそうな人に見えるが、話はちゃんとある程度通じるようで安心した。


「そういえば勉強はどうなの? 学校行けなくて困ってることない?」


「あー、うん。今は大丈夫。そもそも学校に行けないわけじゃないし。ただ座席がね。授業自体は受けられるんだけど、ずっと立ったままだし、誰とも話せないから嫌になっちゃって、定期テストの一週間前ぐらいから行かなくなっちゃった」


「まあテスト受けられないってなったらモチベーションもないし、正しいと思う。それでここで勉強してるんでしょ? だったらいいんじゃない?」


 彼女は黙ってうなずいた。でも寂しい目をしている。


「もし学校と同じペースで勉強したいなら、帰りにここに寄って伝えることもできるけど」


「いや、それはいいよ。悪いし。どうせ千景と一緒にわいわいやってるんだし」


「え? それどうして……」


「え……あっ」


 彼女は両手で口元を隠した。心なしか先ほどと比べて顔が赤くなっているように見える。


「ごめん。隠れて見るようなことしちゃって。でもできれば、その時間を私に使ってほしかったなって思って。唯一の頼みの綱やったから」


「それはごめん。言い返せない」


 彼女についての話を聞くため、彼女と大津さんの仲を取り持つため、寄るほどの時間がなかったため。そんな言い訳はどれも、自分の不誠実さを肯定するほどの説得力はなかった。


「島野くんの交友関係に口出すべきではなかったと思うし。ちょっとわがまま過ぎた」


「ううん。俺が浅はかだった。ごめん」


 沈黙がカフェを支配した。重苦しい空気が、もどかしさも思考回路もつぶしてしまう。


「冷めちゃうから」


 そうオムライスを指されて、俺はスプーンを動かす。正直ここまで話を聞いて、俺には何ができるのか、全くわからない。


「もし、何ができるのか、考えてもわかんないって思ってるんだったら、それは仕方ないことだと思う。私も話してみて初めて、このことが誰かに解決してもらえるものではないってことが」


「そ、そんなことない! 絶対、どうにかするから!」


 現実から目を背けるように、俺は思わず、彼女の言葉をシャットアウトした。とはいえ、その後に続く言葉が出てこない。


「じゃあ、帰省から帰ってきた日の次の日、どこか連れてってくれへん?」


 彼女は助け船を出すように、俺の空っぽになった皿を持って、カウンターの奥に入っていった。そしてスマホを持ってきて、いつかそうされたようにモザイクの画面を見せられた。

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