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 机を後ろに運んで、箒を持って教室の隅に待機していると、放課後の遊びの約束についての話が聞こえる。テスト終わりの悲喜交々の感情に包まれた箱の中は、今は開けた窓から入る風にさらわれて、妙な落ち着きのみが残っている。明日もテストは残っているのだが、少しくらい遊んでもいいのかなと思ってしまう。


「なあ、俺らも明後日どこか行かない?」


 俺の隣にも、同様に感化された人間が一人。


「いいけど、どこ行く?」


「どこって、そりゃカラオケとか」


「だとしたら人数揃えないとな。よし」


 箒で地面を掃きながら人を探す友人を目で追いながら、俺は欠伸をかみ殺し、最近のヒットチャートを思い浮かべる。が、ハイトーンの曲しか思い浮かばず、カラオケに行くこと自体を考える方向に思考が飛んだ。


「よし、人集めれた……って、どうした?」


 どうやら眉間にしわが寄っていたようで、向けられた心配の目に、俺は苦笑いで応えた。


***


「それぐらいオク下で歌えばいい話じゃん」


「まあそうだけどさ……」


 下校の途、首にかけたタオルで汗をぬぐった。

 高い声出せるやつにはわからない、とは言わない。とりあえず声を出せばカラオケになるから行こうぜ、のノリだからだ。とにかく遊びに行きたいから、それっぽいアドバイスをしているだけで。高い声が出ない人が一オクターブ下の高さで歌って、低い音が出ないことくらい、彼もわかっている。ただ俺も遊びに行きたいから。

 俺はスマホを取り出した。


「どこ空いてるかな」


「よっしゃ」


 露骨なガッツポーズ。その後ろにいる数人のクラスメイト。みんな夏休みの話をしている。俺は軽音楽部の練習と、夏休みの課題と、あとは今隣にいるボーカルとの遊びの約束と……。それなりに充実している。盆を過ぎると程よく暇もあって、ちゃんと休める。

 歩いている木立の前方で、ジジッと何かが落ちた。それでもまだけたたましい夏の道を抜けて、ネット予約をしたカラオケ店を見つけた。


「生徒手帳持ってる?」


「あ、やば忘れた」


「俺も。定期券でいけるかな」


「俺保険証持ってるけど」


 悲嘆に暮れる彼らを励ますように、


「俺持ってるから、何とかなる」


と言い、賞賛の声に押されて集団の先頭で入店した。


***


「じゃあまた明日ー。赤点回避しろよー」


 主催の二人は、その他をバス停で見送り、駅の改札を通った。もうすっかり夕方になってセミの鳴き声もおとなしくなり、人がまばらな二・三番ホームは静かである。


「と言ったものの、明日のテストどうしよ……」


「保健とか覚えたらいいだけじゃん」


「それよく言えるよな。一言一句違わず答えるテストに何の意味があるのさ。やる気出ん出ん」


 副教科は前日でいいと言っていた、少し前の彼はどこへやら。俺からすればむしろ保健しか明日テストがないから、気分は楽なのだが。保健のテストを楽と思うか苦と思うかの論争は、今日の掃除中の話題の一つとしてあった。

 やる気が出ないと言った彼は、それ以来ずっと教科書に釘付けで黙ってしまった。俺は周囲に目を向ける。向かいのホームでは、こちらのホームに来る電車に乗るために走る学生やサラリーマンが見えた。あとはそれを怪訝そうに見る登山帰りの集団と、塾帰りの子供たちと、等々。

 その中で、一人の少女に目が留まった。歳は俺と変わらないぐらいだろうか。大きな黒カバンを地面において、辺りをきょろきょろしている彼女は、周りから浮いているように見えた。いや、風景から透けているように見えたという表現の方が正しいだろうか。その仕草は挙動不審というわけではなく、むしろ落ち着いているように見えたのは、走る彼らを見たからだろうか。俺みたいに何とはなしに眺めるのではなく、一つ一つに興味を持っては失っているように見えた。


 途端、彼女と目が合った。

 それが思い違いではないことはすぐ分かった。向こうも口を開け、叫ぼうと。

 その、存在を意識させる目線を、向かいのホームを通過する列車が遮った。線路が空っぽになった時には、それは消えていた。

 さっきより人が増えた向かいのホームを目で探っても見つからない。気のせいだろうか。幻覚を見るほど疲れていないし、線路の奥の違和感は確かにある。

 結局自分の立つホームに電車と駆け込み客達がやってきて、その音に反射して、俺は無意識に隣の友人の肩に触れていた。


「お、さんきゅ」


 そこでやっと俺は呼吸を思い出し、胸の高鳴りに気づいた。入り口から遠いところのボックス席に座っても、もう目線は前の空席にある。

 探さなくとも、もう一度姿を視認しなくとも、彼女がいたことは確かだ。まるで脳に焼印を入れるかのように、俺の頭の中では彼女の存在が記憶された。見間違いとは全く思えず、彼女が瞬間で消えた事実に戸惑いを隠せなくなる。


「なぁ、今話していい?」


「無理。最寄り着いたら教えて」


 俺は手持ち無沙汰になり、スマホを取り出した。しかし、電源を入れる前に、消えかけた記憶の存在に気づく。そして今、ただに戸惑っているだけであることに気づいた。

 彼女のイメージは、パレットに一滴垂らした絵の具が、ぽとぽとと落ちる水によって広がっていくように、どうしようもなく薄れていく。

 とにかく明日、向かいのホームに、少し早く。

 それだけ思って、俺はスマホをいじる。

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