2話 ぶつかる言葉と蝉の声

 ここにいたいという夏目の言葉を1度喉の奥まで飲み込む。しばらくの間考えた後、俺はその答えを口にした。

「じゃあ、行かなければいいじゃん」

 そうだ。行きたくないなら行かなければいい。名案だと思って口にしたのに、夏目は眉を面白いくらいに八の字に下げていた。

「え、駄目だよ。そんなのできっこない」

「なんでだよ。ちゃんと嫌って言えばいいじゃん。どうせ親にも行きたくないこと話してないんだろ?」

「そうだけど……」

 夏目は大人しいから目立ちはしないけどけど、結構しっかりしている。先生にはいつも褒められていたからとてもお利口さんなんだろうと勝手に思っていた。目を泳がせる夏目の様子から、きっとその通りだったんだろう。

「話してみなきゃ分かんねえだろ」

「でも、きっと引越しはやめられないよ。だから」

「じゃあ逃げればいーじゃん」

「逃げるって一体どこに」

「どっか遠くに。お前の親が諦めるまでとにかく逃げる」

 去年の夏休みにテレビで見た映画の逃走シーンを思い出して少し胸が踊った。

「無理だよ」

「分かんねえじゃん」

「無理だってば!」

 ムキになった夏目の大声にびくりと肩が動いた。驚いた拍子にすぅと脳内が冷めていく。たしかに無謀な話だったかもしれない。一瞬だけめちゃくちゃ面白いとおもってしまったけど、夏目を怒らせてしまった。本人はどうする気もないのなら仕方ないのだろう。

 気づけば日差しが強くなっている。シャツが汗ばんで気持ちが悪い。夏目との会話よりも家の冷房の方に価値を見出してしまった俺は、視線を合わせずに言った。

「暑いし、帰ろう」

「……うん」

 さっきまで静かに感じてしたはずなのに、廊下は蝉の声がうるさかった。その音に消えないようにわざと少し踏み込む足に力を入れる。とた、とたと俺の足のリズムより少し遅れたタイミングで夏目の足音がなる。それを聞くことに集中していればあっという間に玄関の前まで着いてしまった。

 1度後ろを振り向いたが、夏目はシャツの裾を強く掴んだまま下を見ている。シャツの生地が少し可哀想だ。

「シワになっても知らねーぞ」

 靴箱から誕生日に買ってもらったお気に入りの黒いスニーカーに指をかける。

 その時だった。突然、夏目は俺に声をかけた。

「あのさ」

 さっきの声に負けないくらい大きく、でも決して怒っている様子ではなく。意を決したような真っ直ぐな瞳で夏目は大きく口を開いた。

「まだ、間に合うかな?」

 その問いに俺の口角が痛いくらい上がったのを感じた。

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