1話 夏休み前日
これから話すのは夏目雫との10年間だ。
あいつときちんと話したのは、小学校最後の夏休みの前日だった。それも、夏目の引越しが担任の口から告げられた直後だった。
時計の針が12時をわずかに過ぎた頃。
俺は、大して良くもない通知表と給食着を無理やりランドセルに押し込んでいた。帰ってもすることも無いから、のんびりと帰る支度をする。ほかの奴らは習い事や遊びが忙しい様でさっさと教室を後にしていたが、生憎いつもの遊び相手は今日から祖父母の家にいくとのことだ。
「帰ろ」
誰に言うでもなくぽつりと零して真っ黒なランドセルを背中にのせる。
その時、一瞬だけ夏目と目が合った。
2人だけの静かになった教室で、夏目は帰りの会の時と同じように席についていた。
すぐに目を逸らして、再度その横顔を除く。
夏目とは今年初めて一緒のクラスになった。それもあってか、今までほとんど話をしたことがない。加えて小学校高学年にもなれば恋愛だの恋人だのとませた話が飛び交う。クラスのからかいの的になりかねないから、女子とは迂闊に話せないのだ。気にせず話しかけられる奴もいるが、少なくとも俺はそっち側の人間ではない。
声をかけずに帰るのはあんまりだろう。かといって笑顔で「バイバイ」と手を振る勇気は無い。
「帰らねーの?」
「う〜ん、もう少ししたら帰るよ」
夏目はなんとも言えない顔をしながら、指先で遊んでいる。
「おまえ引っ越すんだな」
「……うん」
気まずさを紛らわすために出した話題だったが、おそらく失敗してしまった。夏目の表情が曇りだしたから慌てて「すまん」と言えば、一瞬キョトンとした後くすりと笑った。
「どうして謝るの?」
「嫌だったかなって」
「別にいいよ。引っ越すことは変わりないんだし」
「そんなもんなの?」
「そんなもんだよ」
淡々と話しているけれど、その手は微かに震えていた。
帰りの会での別れの言葉では、明るく笑顔だったのに。周りの女子数人が泣いていたのをむしろ慰めていたくらいだ。
もしかすると強がっていたのかもしれない。そんな夏目を1人残す気にもなれず、向かいの机に座れば「行儀悪いよ」と言われたが気にしない。
「いつ引っ越すんだっけ?」
「8月の最初の土曜日」
「じゃあ、あと2週間もねーじゃん。今年の花火大会もお盆くらいなのに」
勿体ない、なんて言おうとしていれば声が聞こえた。
「本当だよ。みんなで浴衣着るの楽しみにしてたのに」
「そっか」
しばらくの沈黙のあと、ぽそりと落とされた空気に溶けそうな声。
「まだここにいたい」
夏目は唇を噛み締めていた。
それに、頑なに視線を合わせようとしなかった。
きっとそれは、夏目の心からの願いだったのだ。
泣きそうなくらいの本音だったのだ。
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