打ち上げ花火と君の約束
一緒に打ち上げ花火を見にいきませんか、というその楽しげなお誘いの言葉とは裏腹に、唇を噛み締めて言うその顔はあまりにも思い詰めた様子だったから、彼はその相手の頭をもはや脊髄反射的にぐしゃぐしゃとかき回した。
初めて会った頃から比べれば、ぐんと伸びた背と髪。
「そんな怖い顔して、どこに討ち入るって?」
「それは十二月です。うち、しか合ってないし、花火全然関係ないですし」
膨大な読書量で同年代の少年少女に比べれば圧倒的な語彙と知識を誇る彼女は、いつもそんな風に、彼のどうでもいい小ネタを毎回丁寧に拾ってくる。小学生だった頃から、妙に歴史やファンタジーに詳しいなと思ってはいたが、本好きな両親の影響でずっと本の虫として育ってきたらしい。
「何で急に?」
「嫌なら、別にいいですけど」
ふいと顔を逸らして小さく言う声は、不機嫌そうな顔よりもはっきりと落胆を示していて、思わず頬が緩んでしまう。
彼女と出会ったのは、小学五年生の時。年の離れた弟がいる彼からしてみれば、遥かに賢そうに見えても、どこか危なっかしい妹を見守るような気持ちで世話を焼いてしまったのが全ての始まりだった。それから季節は何度も巡ったけれど、いまだに互いの連絡先も知らないままだ。
それでも不思議と遭遇率は高かった。月に一度か二度、ふらりとこの場所を訪れると、ほとんど必ずちんまりとそこで本を読んでいる姿を見かける。もしかして、かなりの高頻度で来ているのではないかと危惧したこともあったが、訊いてみるとそういうわけでもないらしい。
ただ、どうしても必要な時だけここに来ると、たまたま彼に行き合うのだと。
「偶然……ねえ」
「……何です?」
「いんや。嫌とは言ってねえだろ。こんなおっさんと花火見に行きたいだなんて、どういう風の吹き回しだ?」
付かず離れず、知っているのは下の名前と学年くらいの微妙な距離感。
「あれ、
「高校二年です」
「マジか。女子高生か!」
「もう一年以上経ってますけど」
気づくの遅……、と明らかに呆れた顔を見ながら、ふと気づく。文月、と言うその名前の由来に。
「あれ、誕生日いつだっけ?」
「誕生日はもう過ぎました。満十七歳です」
「いつ⁉︎」
「……
「七月七日⁉︎ 何だよ言えよ!」
彼の誕生日は何かの話題のついでに伝えていた。特別その日に会うわけではなかったが、前後の日に、個包装の飴とかチョコレートとか、そんなものを渡されるのが何となく慣習になっていた。気づかなかった自分も自分だが、それにしたって、となんだかじわりと湧いた
けれど、そこには踏み込むべきじゃない、と理性が警告するから、とりあえずそんな感情には見て見ぬ振りをして、ふわふわと光に透ける柔らかい髪をぐしゃぐしゃとかきまわしてやる。
「なら、夜店でなんか好きなもの買ってやるよ」
「夜店?」
「行くんだろ、花火」
そう言って、いつも通りの人の悪い笑みを浮かべてやれば、その顔が一瞬固まって、それから心底何だかホッとしたように緩んだ。だがその表情に、あれ、と首を傾げる。もう少し無反応か、あるいは別の反応を期待していたような気がして。
「何かあるのか?」
「あ、いえ、助かります」
「助かる?」
「ええまあ」
曖昧な言葉に首をかしげながらも日程を確認する。それから一応念のためにと連絡先の交換も。アカウント名は文月、とだけ設定されていて、結局苗字は不明のままだった。これを機に聞いてみても良かったのかもしれないが、NANAOとしか表示されていない彼のアカウント名に対して文月も何も尋ねてこなかったので、結局聞けずじまいになった。
そのままなんとなくぼーっとして——文月はいつも通り本を読んでいた——いつもより早く、彼女が帰る気配を感じて目を向けると、いつもと変わらない静かな表情があった。
これからは、いつでも連絡を取ろうと思えば取れることが何だか不思議な——逆に何だか不安な気がして、わけもなく声をかける。
「文月」
「……何です?」
振り返った顔は怪訝そうだった。ずっと、こうして会うようになってから、別れ際には各々自由解散が常だったから、あえて声をかけることはほとんどなかった。見送るのが彼、というのだけは何となく暗黙の了解になっていたけれど。
「
ぽろりとこぼれたそんな問いに、文月は何やら考え込む風情になる。彼女の事情を思えば、浴衣は難しいかもしれない、とようやく気づいて慌てて取り消そうとしたが、本人は、何かを納得したかのようにこくりと頷いた。
「そうですね、いい考えな気がします」
「……なんか他人事っぽくね?」
「まあ、半分くらいは」
眉根を寄せた彼に、だが文月はそれ以上は答えず、じゃあまた来週、と言ってぺこりと頭を下げて、そのまま去っていってしまった。
それから一週間後の夕刻、彼はいつも会う公園からは駅二つ離れた川沿いの神社で浴衣を着て彼女を待っていた。藍染の渋めの柄に、帯には真っ赤な金魚柄の
「……何、張り切ってんの、俺」
ぼそりと呟いた時、とんとんと背中を叩かれて、振り向くとまず白地に淡い紫の花の浴衣が目に入った。帯は濃藍、普段は座ったまま顔を合わせることが多いから、低い位置にあるその顔を見下ろすのは何だか新鮮な気がした。普段はふわふわと流しっぱなしか一つに結んでいるだけの髪は、編み込んだ三つ編みをアップにして簪風のクリップでまとめている。細いうなじから首筋が露わになっていて、何だか目のやりどころに困って顔に視線を戻せば、不思議そうに見上げる表情とぶつかった。
「……七生?」
「何だよ?」
「髭が、ない」
「変か?」
「変じゃないけど、なんか若いです」
「そりゃまあ、女子高生のお嬢さんとデートとなれば、俺も張り切るわけよ」
半ば自棄気味に、それでもなるべくふざけて見えるようにニッと笑えば、文月はしばらくまじまじと彼を見て、それからふわりと笑った。あんまりにも無防備な笑みに、どきりと心臓がおかしな音を立てたが、気づかないふりをする。
「……文月こそ、ずいぶん可愛く仕上がってるじゃないか」
「友達に相談したら、やってくれました」
「友達、いるんだ?」
「少ないですけど」
少し俯いたその顔に、ああ、失敗したなといつもの癖で頭に手を乗せようとして、けれどきちんとまとめられたそれをかき回すわけにもいかず、浮いた手の下ろし先に悩んでいると、不意に聞き慣れない男の声が飛び込んできた。
「高瀬?」
びくり、と文月の肩が震え、一瞬助けを求めるように彼を見上げた。それで、今日の花火の理由をすぐに悟ってしまう。やれやれと内心でため息をつきながら、さりげなく彼女を自分の体で覆い隠し、その声の主を振り返る。
すっきりと短く刈り込んだ髪と、引き締まった体は何かのスポーツ選手だろうか。ずかずかとこちらに歩み寄ってきたその少年の目線の高さは、彼と変わらない。高校生にしては随分背の高い方かもしれないな、なんてことをのんびりと考える。
「あんた誰?」
何やら敵意に満ちている眼差しを別とすれば、ずいぶんモテそうだな、というのが第一印象だった。次いで、初対面の年上の相手にあんた呼ばわりで、マイナス五十点。
「俺? 七生。少年は?」
「あんたに関係ないだろ。俺は高瀬と約束してたんだ」
「へえ?」
片眉を上げて、ちらりと振り返ってみれば、文月はごく微妙な動きで首を横に振っている。ぎゅっと、その手が彼の浴衣の背中を握りしめていて、じわりとまた奇妙な熱が上がった。それはまずいぞ、と心の中で呪文のように唱えながら、ひとまずは、いきりたつイノシシみたいな少年に向き合う。
「生憎と、
それから、先ほど下ろし損ねた手をごく自然に見えるように文月の腰に回す。思ったより柔らかくて細いその手触りに、やってみてから後悔したが、一応抵抗がないのを確認した上で、そのままくるりと
「な……ッ」
「何? まだなんかあんのか?」
聞こえてきた抗議じみた声に、今度は薄笑いを浮かべたまま、顔だけで振り返る。目に入った少年は、思った以上にギョッとしたような顔をしていたから、もしかしたら何かがダダ漏れていたのかもしれない。
とりあえずはそのままひらひらと空いた方の手を振って、もう振り返らずに歩き出す。
人の流れに乗って、気がつけば、土手までたどり着いていた。なるべく人の少ないところまで歩いてようやく足を止める。そこで腰に回していた手を離すと、ほっと息を吐くのが聞こえた。
「あー……、やりすぎたか?」
がしがしと頭をかきながら、あらぬ方に視線を向けたままそう呟くと、くすくすと笑う声が消えてきた。目を向ければいつになく、楽しそうに笑う顔が目に入った。
「……文月?」
「いえ、助かりました。上野くんのあの顔……」
「何、俺そんなに人相悪かった?」
「っていうか、お前なんかにうちの娘はやらん、みたいな?」
堪えきれなくなったように声をあげて笑うその顔に、彼もふっと頬を緩めて笑う。
何か言おうとしたその時、ドォンと心臓に響く近さで轟音が鳴った。同時に、暗かった空にぱぁっと鮮やかな光の花が咲く。都会の空はそれほど暗くはないけれど、それでも赤や黄色、緑に青、次々と開いては消えていく花火は十分に目を引くほど明るく美しい。
ふと見下ろせば、文月は何だか呆然としたようにその空を見上げていた。じっと、魅入られたように、瞬きも忘れたように空を見つめる瞳に、ややしてきらきらと光るものが盛り上がる。堪えきれなくなったように一筋こぼれでたそれを、気がつけば親指と手のひらで拭っていた。
迷子のようにこちらを見上げてきた顔を、少しだけ逡巡してから、やむなく自分の胸に引き寄せた。
「どうした?」
「あの日、約束してたんです——お父さんと」
短い言葉は、それでも十分に伝わってしまった。よしよしと、多分必要とされる通りにその頭を撫でてやると、それでも笑う気配が伝わってきた。
視線の先には、柔らかく、それでも今まで見たことがないくらい少し困惑した顔があった。ひっきりなしに鳴る破裂音と降り注ぐ光の色で、その頬の色はよくわからなかったけれど。
「あれ以来、花火、見てなかったんです」
「そうか」
でも、と文月は続ける。
「今日は、七生が一緒に来てくれてよかった、です」
「そりゃよかった」
腕の中から感じる熱を、川から吹いてくる風がほんの少しだけでも和らげてくれればいいけれどと思いながら、どうしたものかなと考える。いくらなんでもまずいだろう、とやっぱり理性は警告していた。けれど——。
「……そろそろ敬語じゃなくてもいいんじゃね?」
こぼれた問いに、ごく当たり前に、何で、と問い返してくるだろうと思ったのに、聞こえてきたのは、別の言葉だった。
「七生は、それでいいんですか?」
「……どういう意味?」
「わからないなら、いいです」
そう言って、ふいと逸らした顔は、ちょうど打ち上がった
いやだめだろ、と意味もなく一人で心の中でつっこんで、けれど彼女を引き寄せたままの腕は解かれる気配がない。自分の腕のはずなのに。
「……ただの虫除けじゃなかったのか?」
「それだけなら、浴衣なんて着てきません」
予想外に率直な答えと、不意に向けられた真っ直ぐな視線に目を奪われる。先程まで浮かべていた涙の名残が、今は違う色を浮かべていることに気づかないほど鈍感でいられれば楽だったかもしれないのに。
「後悔すんなよ?」
言ってから全力で後悔しそうになったけれど、強張っていた文月の顔が一瞬にして、ちょうど打ち上がった花火みたいに綺麗に輝いたから、ああもうだめだな、と彼は白旗を上げたのだった。
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