海月堂古書店綺譚
橘 紀里
七月の秘密基地
なんて日だ——!
そう小さく呟いてみたけれど、聞こえるのは耳鳴りがするほどうるさい蝉の声だけだった。登校時間もとうにすぎた炎天下の公園では当然だ。誰もいないその場所は、まるで知らない場所のように見える。
ある少年は、いつもと違う行動をとったおかげで特別な本を手に入れて、思いがけない冒険をする。そんなことが、彼女にも起こればいいのに。
背負っていたランドセルを木の根元に置いて、さて何をしようかと目を上げた時、唐突に、彼女の目の前に真っ赤な色の何かが落ちてきた。
「……はい?」
「痛ぇ……」
低いその呻き声に、なんだかがっかりした気持ちになる。空から落ちてくる人といえば、少女と相場が決まっているはずなのに。それから運命を変えるほどの大冒険が始まるのではなかったか。
赤い落下物はアロハシャツを着た男の人だった。横向きに腰を押さえて呻いている背中は大きい。彼女の父親よりさらに頭一つ大きいくらいだろうか。
「空から落ちてきたところを見ると、あなた天使ですか?」
「夢見がちなお嬢さん、悪い男に引っ掛かる前に、現実を見ような?」
「じゃあ、目の前に急に不審者が現れたということで、通報を」
「あっ、待って待って! もうちょっと夢見ててもいいかもしれないお年頃だった?」
すちゃりと彼女が
あからさまにホッとした様子になったその人に、かえって不審者要素を感じて彼女が少し身を引くと、彼も慌てて手を離した。その瞬間、ぐえっと蛙が潰れたみたいな声を上げた。
「……腰、痛めてます?」
「いや、ちょっと打っただけ、多分」
それからようやくその人は現状に気づいたらしく、目を丸くした。
「ちょっと待て、お嬢ちゃんなんでこんなところにいるんだ? どう見ても小学生だろう。あれ、もう夏休み?」
「まだ七月の初めですよ」
「じゃあなんで?」
「
目の前にしゃがみこんで、両膝に肘をついて頬杖をつきながらそう言うと、彼はまじまじと彼女を見つめて、何やら深いため息をついた。今時不登校だとか、さぼりだとかそんな生徒は珍しくはないけれど、実物を目にするのは初めてだったのかもしれない。
「空から降ってくるおじさんより、珍しくないと思いますよ?」
「お、おじさん……!」
「あ、おじさまの方が適切でした?」
「いや、それ変わんねーし! っつーか小学生からしたら、
「そんなことないですよ。その髭がなくて、アロハシャツじゃなかったら、お兄さん呼ばわりだったかもしれません」
「髭とアロハはマイナス?」
「私は格好いいと思いますけど」
そう言うと、その人は妙に嬉しそうに笑いながら自分の頬を撫でた。その笑顔が、まるで子供みたいに屈託がなくて、なんだか同年代の男子みたいに見えた。
「髭の良さがわかるなんて、お嬢ちゃんは将来有望だな」
「……なんの話、してるんでしたっけ?」
「君が学校サボって、こんなおじさんと二人で髭の話してる理由について? あ、ランドセルは?」
黙ったまま、木の裏にぽつんと置かれたキャメル色のそれを指し示すと、その人は何だか難しい顔になった。
「本当にサボってんのか」
「ええ、まあ」
相変わらずしゃがんだ膝に頬杖をついたままそう頷いた彼女に、その人はさらに困惑したように頬をかいた。けれど、何かの結論に至ったのか、急にニッと笑う。
「まあいっか。お嬢ちゃん、名前は?」
「知らない人に個人情報を不用意に教えちゃいけないって」
「固ぇな……。お嬢ちゃん呼ばわりもめんどくさいだろ?
「とりあえず、人に名前を聞くならまず先に名乗っては?」
「ああ、こりゃ失礼。俺は、ナナオ、七月生まれだから
わかりやすくていいだろ、と笑うその顔に、彼女は思わず息を呑む。あまりの符合に。
そんな彼女に首をかしげながらも七生は、で? とごく自然な感じで、思ったより柔らかな笑みを浮かべてこちらを見る。
「え?」
「俺は名乗ったけど?」
「……ああ、
「フヅキって、七月の文月?」
目を丸くした相手に、彼女はためらいながらもこくりと頷いた。それでか、と頷いているから、彼女が驚いた理由にも気づいたらしい。けれど、そこには触れずに言葉を続ける。
「で、ふーちゃんは何でこんなとこで学校サボってんの? 何年生?」
「五年です……って、ふーちゃん?」
「あ、ふみちゃんの方がよかった?」
「どっちも嫌です」
「あ、そう? じゃあ文月」
「何で呼び捨て?」
「可愛いくない?」
不意に飛び出したそんな台詞と、ニッと上がった口角の感じが格好良く見えてしまって、彼女は頬に押し付けている手をさらにぎゅっと押し込んだ。そうして、頬が緩んでしまいそうになっている自分を自覚して、そんな事実に唖然とする。
目を見開いた彼女に、七生は眉根を寄せて顔を覗き込んでくる。
「あ、セクハラっぽかった?」
「じゃなくて、笑えたな、と思って」
するりとこぼれた言葉に、七生が一瞬だけ戸惑って、それから、何だか憐れむような顔になる。きっと勘のいい人なんだろう。けれど、明後日の方向に勘違いしているだろうこともわかったから、違います、と少し強い声で否定する。
「そういうんじゃないです」
「何がよ?」
「そんなお気楽じゃないんです」
「お気楽じゃない小学生なんているのかよ?」
「少なくとも、平日にこんなところで空から降ってくる人よりは、大変だと思います」
「いやそこはどう考えても空から降ってくる方が大変だろ?」
口の端を上げて、皮肉げに笑ったその顔が何だか意地悪に見えて、彼女はふいと視線を逸らす。何も知らないくせに、と言うのは簡単だったし、彼女の
「どうせ木の上で昼寝でもしてたんですよね?」
「昼寝じゃねーよ、作戦を練ってたんだよ」
「作戦? 木の上で?」
「ああ、何しろここは俺の秘密基地だからな」
そう言って、ゆっくりと立ち上がる。どうやら腰の痛みは治まったらしい。そのままするすると木の上に登っていった。それが何の木なのかはわからなかったけれど、幅広の濃い緑の葉に覆われたその中に入ってしまうと、まるきり外からは人がいるようには見えない。
「文月」
その響きに、びくりと体が震えた。動けない彼女に、もう一度、低い声が降ってきた。
「こっち来いよ、そこ暑いだろ」
わんわんと耳がおかしくなるほどの蝉の声の中で、けれどのその声は真っ直ぐに伝わってくる。ゆっくりと膝を伸ばし、木の下に歩み寄ると、何だかものすごく楽しそうな顔をした七生が大きな手を差し伸べていた。
素直にその手を握ると、ぐいと軽々引き上げられる。ショートパンツから剥き出しの膝が木肌に引っかかって少しだけ擦り傷を作ったけれど、七生は気づいた様子もない。手を離すと、そのままするするとさらに上の方に登っていく。ちょいちょいと手招きをして笑うその顔につられるように、おっかなびっくりその後についていくと、ちょうど木の股のような所に落ち着くように示された。
太い木の枝はしっかりしていて、彼女が乗っても揺れもしない。周囲は緑の葉に包まれていて、日の光も遮られ、風が心地よく吹いていた。
「地面にいるより涼しいだろ」
「そうですね。でもうるさいですね、蝉」
すぐ近くに大量にいるらしく、耳鳴りがするほどの声が響いている。
「ああ、でも風情があっていいだろ、
難しい言葉だ、と思うと同時にそれを前に聞いた時の声が重なって、どくんと心臓が鳴った。我知らず胸元を押さえて俯いた彼女の顔を、七生が覗き込んでくる。
その眉が困ったようにしかめられて、それからぽりぽりと頬をかいた。
「はい、あーん」
突然の言葉に反射的に口を開けると、何かが放り込まれた。固くて甘い感触が広がって、驚いて目を上げると、滲んだ視界の向こう側でまた少し困ったように笑う顔が見えた。
「何……ですか、これ」
「秘密基地には、食料がないとだろ?」
ニッと笑った顔は今度はごく自然で、だから彼女も何とか体勢を整え直して、背を木の幹に預ける。深呼吸を一つして、うるさいくらいの蝉時雨を浴びながら。
「今日で、忌引きが終わったんです」
なるべく特別な響きがのらないように、飴を舐めながら淡々と口を動かす。七生はじっとこちらを見つめている。
「こんな風に、蝉の声がすごくしている中で、急に一人になって。で、ぼんやりしているうちにみんな終わって、今日から学校に行かなくちゃいけなくなって」
でも、戻れるわけがない、と思った。だから、こんなにも辛い日には、いつもと違う行動をすれば、何かが不思議なことが起こるんじゃないかと。
そんなことは起こらないと、どこかではちゃんとわかっていたけれど。
「で、俺がお前さんの運命の相手?」
「違いますけど」
「何だよ、違うのかよ」
「急に目の前に人が落ちてくるとかあんまりないと思うけど、でも名前の由来が二人とも七月とかだってそんなに珍しくもないと思うし、最後にお父さんが言ってた言葉が『蝉時雨が好き』だったとかも多分関係ないと思うし、それから、くれたこのいちごミルク味の飴がすごく好きなのも単なる偶然だろうし」
全部偶然だ。運命なんてない、神様なんていない。
でなければ、やりきれない——あんなひどい現実が、彼女に与えられた
「人は、見たいものしか見ないし、どんなことにだって可能性を見つけるから」
例えば無数に空にある星と地上のピラミッドの位置関係を勝手に紐づけて謎を見つけたり解明した気になっているみたいに。
「あのなあ」
なおも言い募ろうとした彼女を呆れたような声が遮って、それからぐしゃぐしゃと頭を撫でられた。撫でられたというよりはほとんどただかき回された感じだったけれど。
「小学校五年生って、みんなそんなに難しいこと考えんの?」
「……人によるかと」
その答えに、七生は片眉を上げて肩を竦めて、その大きな手でぐしゃぐしゃと彼女の髪をかき回しながら続ける。
「お前はまだほんの子供で、そんでもってここは俺の秘密基地。どんな秘密も、恥ずかしい空想も妄想も、ここから漏れることはないから、安心しとけ」
自分こそ、木の上で足をぶらぶらさせて子供みたいなくせに、見下ろしてくる顔は大人で、まだやっぱり少し困っているくせに優しかった。
だから、彼女はもっとずっと小さな子供みたいに、その場所で、膝を抱えて顔を伏せたのだった。
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