海月堂古書店と浜辺の漂流物の歴史的依存関係について

 古本屋の朝は意外と早い。仕入れた本の整理と、オンラインショップの注文確認と目録更新。元々は古本屋というのはそこに足を運んで、本の状態を確認し、ぺらりぺらりと中身を眺め、そうして品質にも内容にも納得の上で買っていくのが当たり前だった。けれども時代は移ろう。おまけに昨今の新種のウィルスの感染拡大パンデミックのおかげで客足は尚更遠のいた。


 もともと親から引き継いだこの店は、思い入れがなくはないものの、彼にはこの仕事一本で食っていくには知識も情熱も足りていなかった。子供の頃から顔見知りのとある古参の常連客によれば、状態も品揃えもこの界隈の古書店の中でもピカイチだという。あちこち探し回ってどうしても見つからなかった本も、ここに来ればどういうわけか手に入るのだと、そんなふうに。

 だがそれも、先代までの話だ。彼にできるのは、蔵書のリストアップと更新、それから客が求めている本がその中にあれば差し出すし、ない場合も調べ物に疎い客ならネットで検索してありそうな店を案内してやる。魔法のように全てが揃ってる、なんてことは、あいにくと彼の代になってからは起こらなかった。


 こんな古書店にわざわざ売りに来るのは、ネットで取引をするような流行に疎く、けれど、本当にその本の価値をわかって欲しいという切実なケースがほとんどだった。だから、その日の午後遅く、持ち込まれた本の数々を見て、彼はしばし頭を抱えることになっていた。

 美しい、今時なかなかお目にかかれないような繊細に織り上げられた深い藍色の布張りの表紙。紙の質感から、かなり古いもののように見受けられたが、よほどに大切に保存されてきたらしく、開いたページのどこにも黄ばんだ様子さえもなく、虫食い一つない。他にも高級そうな本ばかりが、小さな段ボールに詰め込まれている。


 黒縁眼鏡をかけたその青年は何やら困った様子で、とにかくこれは一財産だから、何とか高く買ってもらえないものか、と先程からずっと彼を拝み倒しているのだ。

「そんなこと言われてもなあ。俺じゃ、判別つかないし、他の店を紹介するから……」

 そう言いかけた時、不意に奇妙に明るく能天気な声が聞こえた。


「受け取っておきなさい、言い値でオッケー!」


 あたりをきょろきょろと見回したが、目の前の青年以外、人影は見当たらない。気のせいかと青年に視線を戻したところで、もう一度その声が聞こえた。

「とにかく、悪いようにはいたしませんから、言い値で買っておあげなさい。ほらほら普段あなたも気軽にいいねってしてるでしょ?」

 ダジャレのつもりなのか何だかよくわからないが、その声は目の前の青年には聞こえていないらしい。ひとまずその声につられるように、青年に価格を尋ね、そのまま素直に支払ってしまった。その額は、今月の収支に明らかに見合わないもので、後から頭を抱えたが、まさに後の祭りである。


「何やってんだ、俺……」

「いやいや、これだけの品ですよ。すぐに元が取れますとも」


 自信ありげな声がまた聞こえて、視線を巡らせると、あの青年が持ち込んだ箱の隅から何かが顔を覗かせているのが見えた。

 にこっとが確かに笑ったように見えて、いやそんなはずはない、とごしごしと目をこすってみたが、しかしそれは幻の如く消えてはくれなかった。


「……カメ?」

「失敬な、カメはカメでも由緒正しきアオウミガメですぞ」

「ワシントン条約ぅ⁉︎」

「はい、ありがたいことに全種保護対象でして、現在は南の島ハワイをはじめ、故郷で皆快適に過ごしております」

 大きさは手のひらサイズだが、それはどう見てもウミガメだった。なのに、ぱくぱくと動く口から紡がれる言葉は滑らかな日本語で、カメに人間に似た声帯があるのか、いやそれ以前に何故日本語を解するのか、ワシントン条約で保護されているものを所持しているのを見つかったら罰則は何だと、さまざまな疑問が走馬灯のように脳裏を駆け巡って一瞬気が遠くなる。


七生ななおさん、落ち着いてくださいよ」

「うるせえこれが落ち着いていられるか……! って、何でお前俺の名前知ってるんだよ⁉︎」

「なぜも何も、わたくしがあなたの名付け親じゃございませんか」


 衝撃の発言に、さらに頭が真っ白になる。何を言っているのかわけがわからない、を素で体験しながら、そのまま呆然と見つめていると、カメはよっこいしょ、と難儀そうに箱から這い出てきた。


「まあ、お目にかかったのは七生さんがまだお小さい頃でしたから、覚えてらっしゃらないのも無理はありませんね」

「マジで、名付け親?」

「ええ、七月生まれの男の子だから、七男、とそう名付けようとされていたお父上に、それじゃああんまりですよと、せめて漢字の変更を申し出たのがわたくしでございます」

「そ、そりゃどうも」

 どうやったって初見、七男しちなんと読まれるに決まっている第一候補よりは遥かにマシなのは間違いない。

「で、そもそも何でお前さん、俺の家に?」

「ああ、それは話せば長いことながら——」

「百四十字以内で頼む」

「ああ、いやですねえもう、そんな無精髭を生やしておきながら、気ばかり若くってせっかちで……」

「俺はまだ二十七だ!」

「ああ、そういえば最近お若くて可愛い彼女ができたんでしたっけ? いいですねえ、お幸せそうで。本がお好きだというのが何より素晴らしいですね?」


 黒目しか見えないその顔が、どうにもニヤニヤと笑っているように見えて、不気味なはずなのに、もはやため息しか出ない。いったいこのカメはどこまで事情通なのか。


「まあ端的に申せば漂流した挙句、浜で行き倒れていたところをあなたのご先祖さまに助けていただいたのです」

「で、そのお礼に竜宮城へ?」

「生憎と、乙姫と竜神様の存在は未だ我々にとっても謎のままなのでして」

 今時のカメは日本の昔話への造詣ぞうけいも深いらしい。

「一般常識ですよ?」

 ふふんと、鼻を鳴らして言いそうなその口調に若干苛立ちが募ったが、爬虫類相手に熱くなっても火傷させるだけだと思い返して、本の箱に手を伸ばす。ところがその手をヒレではたかれた。いや、手なのか。

「そんなに無造作に触っちゃいけませんよ」

「持ってきた奴だって普通に触ってたじゃねえか」

「そこが素人の浅はかさです」

「……俺も変わんねーよ」

 そう言った瞬間、だがカメの黒目がちの瞳がきらりと光った気がした。

「仮にも由緒正しきこの海月堂くらげどう古書店こしょてんを継いだあなたがそんな体たらくでどうします!」

「どうしますって……どうもしねーよ?」

「ああもう、こんな不甲斐ない様子では、お父上も浮かばれますまい……」

 よよ、と器用に泣き崩れる真似を始めたカメに、携帯スマートフォンのカメラを向けたら前足ではたき落とされた。

「カメにカメラを向けるならまず許可をお取りなさい! 肖像権の侵害ですよ!」

「観光目的でいくらでも撮られてんだろ、日常的に」

「それは公的生活パブリックライフ、今は私的生活プライベートです!」


 力説するカメに、完全に圧倒されて当初の目的を見失う。いい加減面倒になって昼食でも食べに出るかと考えたところで、ガラリと店の入り口の戸が開く音がした。目を向けると、初老の身なりのいい紳士が真っ直ぐにこちらに向かって歩いてくる。

 その紳士は、カウンターの上の箱に積まれた本を見るなり、大きく目を見開いた。ついでに大きく口を開けて、わなわなと震えている。あまりにその様子が尋常でなかったので、すわ急激な高熱で熱性痙攣ねっせいけいれんでも起こしたかと身構えたが、ややして胸元を押さえて深呼吸をすると、真剣な表情で彼に詰め寄ってくる。

「あなたがこの店のご主人ですかな⁉︎」

「……お、お客様、ワクチン接種はお済みで?」

 マスクのないその顔は、皺があちこちに寄ってはいるものの渋く端正で、若い頃はさぞかしモテただろうなとどうでもいいことを考える。

「先月二回目接種も完了済ですよ。それはさておき、こちら『深い海の底の、さらにその向こうに』の初版本で間違いないですな?」

「え……?」


 そうっと宝物でも持つように、手袋をした手でその本を持ち上げた紳士は、表紙を見せてさらに詰め寄ってくる。


「ネットでも稀覯本きこうぼんとして有名になりすぎて、全く実物を拝めなくなったあの本が、まさかこんなところに……! ってこちらもこちらも……! なんてことだ。この箱の本、全てこの箱ごといただくことは可能ですか?」


 興奮して詰め寄ってくるその紳士が提示した額は、なんと先程の青年が置いていった金額のおよそ二十倍だった。呆然と頷きそうになった彼のふくらはぎのあたりにぺしんと小さな衝撃が走って振り向けば、小さなアオウミガメが足元で険しい顔——になぜか見える——をしながら首を横に振っていた。

「いけません、その方にお売りできるのは最初の一冊だけ。お値段は言い値で結構ですが」

 せっかくの儲け話に水を差されるのはしゃくだったが、それでもその顔がどうにも真剣に見えてしまったので、やむなく頷いて、目の前の紳士にも同様のことを告げると、名残惜しそうな顔をしつつも素直に頷いてくれた。

 引き出しから手袋を取り出し、丁寧に薄紙で包んで紙の手提げ袋に入れると、紳士はそれはそれは嬉しそうに受け取って、またお邪魔しますよと、スキップでもしそうな足取りで去っていった。


 呆気に取られている間も無く、その日は次々と客が押し寄せ——というほど怒涛の流れではなかったが——とにもかくにも、あの青年が持ち込んだ箱は、気がつけば空になっていた。レジの中には見たこともない金額が収まっている。


「ほら、だから申し上げたでしょう?」

 得意げな声に目を向ければ、レジの後ろの畳の上で、甲羅干しでもしているかの如く両手両足をいっぱいに広げているアオウミガメが見えた。このカメは、客の要望と適正価格を見抜き、的確に助言してくれていたのだ。

「もしかして、うちの店が繁盛してたのって……」

「ええまあ、わたくしの薫陶くんとう賜物たまものでございますね」

 偉そうに首をくいっとあげてふんぞり返り、ついでに勢い余ってごろりと転がって起き上がれなくなっている。

「あ、しまった……! ちょっと、手を貸してくださいませ!」

 迂闊うかつなカメをひっくり返してやると、ほっと息を吐いてこちらをじっと見つめてくる。

「まあ、最初の手ほどきだけですけれどね。ということで、本日からビシビシ参りますので、ご覚悟くださいませ」

「……は?」

 

 いわく、この海月堂では、古書肆こしょしとしての目利きの技は、代々受け継がれてきたものらしい。だが、時に彼のように先代の急逝などの事情で、それが失われてしまうことがある。そのような時に、それによって店が絶えてしまうことのないよう、このカメが伝授にやってくるのだという。

 だが、話を聞く限り、どうやらそればかりでなく、そういった緊急事態でなくともちょくちょくこの店に顔を出しているらしい様子だった。

「まあ、やはり恩人の子孫ともなれば、行く末が気になるもので」

 そう言う真っ黒な瞳には何やら慈愛に満ちた光が浮かんでいる——ような気がしなくもない。

 俄には信じがたい話だが、日本語を流暢にしゃべる時点でただのカメではないことは明らかだ。


「で、その薫陶とやらが終わるまでの間、お前ここに居座るつもり?」

「ええまあ、そうなりますね」

「ダメだろ」

「どうしてですか?」

「ワシントン条約で保護されてるウミガメなんてうちに置いといたら明らかにまずいだろ?」

 それにアオウミガメを飼えるような立派な水槽などない。そう言った彼に、カメはまるで人間のようにあからさまにため息をついてみせた。爬虫類の肺でため息がつけるとは驚きだったが。

「いったいあなたは私を何だと思っているのですか? 姿は小さく見えてもただのカメじゃございませんよ」


 そう言った瞬間、ふっとその姿が揺らいで、目の前に小さな子供がちんまりと正座していた。髪も目も真っ黒で、特にその目は黒目がちで、先ほどまでそこに転がっていたカメを思い出させた。


「……マジか⁉︎」

「こう見えても千年を経たカメですから」

「何の因縁でうちにやってくるわけ?」

「ですからそれは、話せば長いことながら——」


 そうして、本当に長い長い話と、彼の古書肆修行が始まったのだった。

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