第9話 この内なる想いを永遠に忘れない

 僕が『マニアッグ』のバイトを辞めてから一ヶ月が経った。


 無職になった僕は学生生活を満喫し、誰もいない休業中の学校の食堂で、自販機で購入した缶コーヒーをすすり、物思いにふけっていた。


 しばらくは働かなくてもバイトで稼いだ貯金があるから、食費だけなら、一人での生活に支障はない。


「あつつ……」


 しかし、問題はこっちだ。

 何で暑い昼間からこんなホットコーヒーを飲まないといけないんだ。

 大体、冷たい飲み物のすぐ横に熱いのを並べるのも悪いぞ。


 ちょっと押すボタンにカメムシが付いていたからポケットティッシュで逃がそうとして、手が滑っただけじゃんか。


『蜘蛛の糸』の物語のようにカメムシを救った? のだから、カメムシの精霊が現れて、願い事を叶えてくれるのではないのか?


(待て、カメムシの精霊ってなんだ?)


 まあ、きちんと自販機を確認しなかった僕にも落ち度があるか。 

 僕は考えを改めて、彼女のことを思い巡らしていた。


 ──彼女と別れても、バイトを辞めても、刹那のことが頭から離れなかった。


 それもそうだ。

 向こうから一方的に別れを告げられ、僕の尊重は無視だったのだから。


「よお、相棒。いい加減、自分の気持ちに正直になったらどうだい?」

「その声は片城かたじょうか」


 何の悩みもなさそうな能天気な片城が不意に現れる。


 僕と同じく制服を着ているが、そちらは部活動なのだろう。

 衣服代に割けるお金があまりなく、私服は着用していない僕とは根本的に違うのだ。


「何だよ、優希、その反応は。オレはスパイか、何かか?」

「だったら何でほふく前進で僕に迫って来てるんだよ?」

「ああ、すまないな」


 僕の忠告を何とも思わずか、片城がそのままの姿勢で僕に近寄ってくる。

 キモいな、コイツは爬虫類か……?

 制服も汚れるぞ……。


「だから会いに行ってこいよ。それに今は夏休みだろ?」

「そうだな」

「なら、その足を離してくれ」

 

 片城の頭を容赦なく足蹴あしげにしている僕。

 同性に興味はないゆえのさがだった。


「ああ、片城が抱きつかないと約束できたらな」

「何だよ、久々に会えたんだぞ。抱擁くらい良いじゃないか」

「暑苦しいだけじゃないか!」


 僕は片城の頭から足を離し、心からわき出た感情で彼の動きを止める。

 靴の足跡が残る片城は涙目で訴えながら、僕に『それでいいんか?』と何度も問いかけていた。


 僕は片城からの言葉を静かに受け止め、名残なごり家に行く決意をするのだった。


****


 電車に揺られて小一時間。

 鈍行列車で行かないと辿り着けない田舎の町。

 人目をはばかるかのように、刹那せつなはこの町に住んでいる。


 汚れの少ない空気を吸い込み、身体中の糧とする。

 ずっと眠っていた感情が不意に目覚めを起こした。


 終わらせよう。

 彼女との始まりと終わりを……。


****


『ピンポーン♪』


「はい、どちら様でしょうか?」


 時刻は7時、名残家にて。


 こんな早朝にも関わらず、何の違和感にも気づかずに玄関の扉を開ける人影。

 相手は花柄のパジャマ姿の順子じゅんこさんだった。


「あっ、優希ゆうき君……どうして?」

「刹那に会いに来ました」


 その『会いに』と言葉を発した途端に順子さんの顔色がぱあーと明るくなる。


「ありがとうね。優希君。わたくしたち、ずっとあなたが来るのを待っていたのよ」


「……待っててね、すぐに刹那を呼んでくるから」


 順子さんが玄関を抜けて、二階へと階段をかけ上がる音が響く。

 毎度ながら、どういう運動神経をしているのやら……。


****


「どうして……」


 そこにはやつれた表情の刹那が立っていた。


 順子さんの話では刹那は、その美少女アイドルという立場のせいか、僕と別れてからすぐに新しいアイドルの彼氏がくっついてきたらしいけど、散々弄ばれたあげく、相手側からフラれたらしい。


 向こうは別れ際に、刹那の体が目的だったと屈託なく笑い、そこに妹と同行していた碧螺へきらの彼氏にぶん殴られたとか。


 その件で傷ついた刹那は、本当に心から好きでいてくれた僕に新たな恋心を抱いていたらしい。


「刹那、今日は泊まっていくから」

「えっ……」


 多少なりとも動揺していた相手を前に、僕は自分の気持ちを確かめるように、彼女と同じ床で寝ることを望んだ。


 この意識では初めて入るピンクに彩られた刹那の自室。


 順子さんが夜勤だったその夜、僕は刹那に内からほどばしる愛を初めて与えた……。


****


「おはよう、優希お兄ちゃん」


 翌朝、僕が洗面台で歯磨きをしている最中に碧螺から声をかけられた。


「はんだ、ニヤニヤひて。ろうかしたのは?」


 だが、歯磨き中なのでうまいこと言葉が喋れない。


「昨日の夜中、お姉ちゃんの初めてを奪ったでしょ?」

「ぶぶっー!?」


 僕は思いっきり、歯磨き粉を噴いた。


「あーあ、汚いなあ」


 碧螺が近くにあった雑巾でその血痕? を拭く。


「お姉ちゃん、複雑そうな顔つきで内股歩きだったからねえ」


 彼女の話では女性は経験済みになると、外股染みた歩きから遠慮がちな歩き方になるらしい。


「それにうっすら生えていた鼻の下のお髭も剃っていたし」


 しきりと無駄毛を気にするのも一人の女性として成長した証だと説明する碧螺。

 この妹は本当にそっちの経験がないのだろうか。

 やたらに洞察眼に優れている。


 最近の学生はあれこれ進んでいるとは聞くが、まさかここまでとは……。


「どうしようかな。お母さんの決まりでおうちでのそんな行為はしたらいけないしきたりなんだけどな~。

お母さんにチクっちゃおうかな~?」


 そうだ、黙っていてもいずれはバレる。

 僕は口うがいを済まし、ありのままの真実を碧螺にも伝えることにした。


「ああ、それでも構わない」

「えっ、どういうこと?」

「今日を期限に彼女とは正式に別れるからさ」


「ええっー!!!!」


 碧螺がとんでもないオクターブの声を上げる。

 今、空を優雅に舞っていたカラスが何羽か、気絶したかも知れない。


「初めてを奪ってから? 本職は悪魔デーモンキラーかよ!?」

「何だよ、そのチートな殺し屋設定……。まあ、僕にも色々あるんだよ」

「その理由は何さ?」

「バイトを辞めた僕には経済支援もできないし、何より相性が悪すぎる」


 現にこの前の遊園地での占いコーナーでも運勢は最悪だったし……。


「何さ、お金がなくても一緒にいるだけでいいし、相性なんて付き合いを続けていればどうにかなるじゃん」

「いや、もう僕が決めたことだから」


「この、分からず屋のちんどん屋!!」


『バコーン!』


「ふがっ!?」


 次の瞬間、頭から鈍い音がして、痛みと共に僕の思考が真っ白に吹き飛んだ……。


****


「お姉ちゃん、それでいいの?」


 刹那の部屋で、碧螺が彼女を問いつめている。

 僕は高い位置から二人を見下ろしている状態だ。

 座っている場所は例のタンスの上だろうか……。


 そうか、またこのフランス人形で殴られて、魂だけが入れ替わったのか。


「お姉ちゃんは優希お兄ちゃんが好きじゃないの?」

「好きだけど……」

「じゃあ、どうしてよ?」

「向こうが好きじゃなくなったって言ってきたんだよ」 

「お姉ちゃんはそれでいいの?」

「うん、好きでもない人とは付き合えないから。それに刹那は……」


『あなたを永遠に忘れないわー。

愛を失ってもー♪』


 ピンクのCDラジカセからの曲が耳に入ってくる。

 それは苦しくて切ない失恋の歌だった。 


 刹那は感情表現が苦手だったので、こんな風に音楽を流して現状を伝える部分がちらほらあった。

 今回の歌詞からして、刹那は僕と別れたくはなかったということに……。


 僕が人形じゃなかったら彼女の本音は分からないままだった。


 そうだ、最初に別れを告げた時、刹那は泣いていたじゃんか。

 だったら今の僕にすべきことは……。


「刹那、このフランスパン……じゃなかった、フランス人形を持って優希響ゆうきひびきを走って追いかけろ!」


「なっ、何、天の声!?」

「お姉ちゃん?」


 人形からの高らかな声に思わずハッとした刹那の足は、僕の座る人形の方へと移動していた。


「ごめん、碧螺。刹那、優希君と話をつけてくる」

「うん、分かった。でもフランス人形も持っていくの?」

「うん、優希君が好きらしいから」

「お姉ちゃんって変わった性癖の男とばっかりくっつくよね」

「何? 刹那は引っ付き棒じゃないから」

「うん。知ってる」


 刹那は碧螺をゆっくりとハグして、何言か耳に話しかけた後、人形を手にしたまま、玄関を後にした。


「お姉ちゃん、待って……。生まれ変わったらってどういうことなの!?」


 碧螺が背中越しに叫んでも、刹那の耳には届いていないようだった……。


****


「優希君!」


 刹那が人の僕を呼び止める。

 そこで歩みを止める僕。


「優希君!」

「キスしてもいいよね?」

「えっ?」


 刹那を視点に定め、意思がない脱け殻の人間の僕は必要以上に異性を求めていた。

 早速、公衆の面前で刹那に近寄り、不埒な行為に及ぼうとする。


「おい、お前! いい加減にしろよな!」


 刹那の手から床に転がっていた人形の僕は人間の僕にげきを飛ばす。

 何かの危機を感じたのか、人間の僕の動作がピタリと止まった。


「あれ、フランス人形から優希君の声が……?」


 刹那が目を丸くして人形の僕を見つめている。


 とうとうバレてしまったか。

 でも今はそれどころじゃない。

 刹那を悪い虫から離さないと……。


『優希君、凄いじゃないですか。腹話術が使えるのですね』


 周りの視線が気になったのか、照れ隠しの彼女が、いつものメモ帳に筆談し、人形の僕へと見せる。


 どうやら今の僕のこの姿は間接的なものと捉えているようだ。


(そうだよな、本体と人形と魂が入れ替わるなんて、普通じゃ考えられないことだよな……)


 それを理解した僕は、ゆっくりと小さな口を開く。


「刹那、アイドルなんていいから、僕とやり直そう」

『それは駄目なんです。

刹那たち、名残家は多額の借金を背負ってしまいましたから』

「えっ、何だって?」


 借金……。

 やはり片親の生活で二人の子供を育てるのには無理があったか。

 特に女の子はイベントや衣装などで色々とお金がかかる。


『刹那はアイドルになって借金の返済をするために一般人の優希君と別れるのです』 

「それがアイドルになりたかった本音か……」


 僕の呟きさえも気にもせずに、さっきから静かに文字を走らせていた刹那の腕が止まり、人形の僕の片手を掴んで、何やら手渡してくる。

 この円状のひんやりとした感触は……。


 それは僕がプレゼントしたはずのシルバーリングだった。


「刹那、これはどう言うことだよ!」

『どうしたもこうしたもないです』


 そのまま、刹那は二人の僕を押し退けて、目の前から去ろうとする。

 彼女の瞳から一粒の涙が流れていた。


「さようなら。あなたを永遠に忘れません……」

「刹那、待ってくれ!」


 彼女の後ろ髪にいくら叫んでも、所詮は人形という動かぬ身。


 僕も、彼女と同じく、この切ない想い出を永遠に刻みつけるだろう。

 人形の姿になっても切実に……。






 

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