第8話 どうしてこうなった 其弐

 私が、思い出してしまった言葉。

 それは……求愛、である。

 

 いや、そんなことはあり得ないことくらい、百も承知している。

 それなのに何故か、顔にじわじわと熱が集まってゆく。

 

 何故、どうしてという言葉ばかりが頭の中を支配して――私は、強烈な眠気に襲われた。

 

 今日一日、沢山のことが一度に起こりすぎた。

 それでも、疲労を表に一切出すことなく過ごしていた私は、限りなく限界に近い状態にあったのだ。

 それに加え、東宮が私の手に口づけるなどという事態が発生したのだ。

 思考回路が焼き切れかねないほど動揺し、思考した私の頭の中は、それを停止することで自己防衛――すなわち睡眠――をすることにしたのは、ある意味必然と言えよう。

 

 そんなことを考えながら、私は倒れるようにして眠りに落ちた。

 

 支えを失い、倒れ込んだ身体に少しの痛みも感じてないことに、違和感を覚えるよりも前に。

 ……自身の身体が、細く見えるものの、かなり逞しい腕と体躯に支えられたことに、気づくよりも前に。

 

 自身の身体を支えた張本人、東宮の、

 

 「今夜は、昨日に続いて涼しい夜になりそうだな」

 

 などという呟きを、聞き取る前に――

 

**********

 

 カツン、カツン。

 

 人定三つ時(午後十時〜十時半)。

 夜空にぽっかりと浮かんでいた三日月は分厚い雲に隠れ、灯籠の少ない窓の外には、黒一色の世界が広がっていた。

 そんな中、幾つもの灯籠に照らされ、ある程度明るさの保たれた室内では、一人の男の沓音くつおとだけが、長い廊下に響いている。

 その男は、皇族のみが身につけることのできる、濃い紫色の衣を纏っており、彼の頭上には、東宮の証である冠があった。

 彼は、長く艶やかな黒髪を靡かせながら、一定の速度で、しかしややいだ様子で足を進めていた。

 金と紫といった色をを基調とした、豪奢ながらも少しも下品に見えない、洗練された空間――宮廷に、飛龍はいた。

 

 つい先程まで、妃の宮殿を訪ねていたというのに、何故彼が宮廷へと戻ってきているのか。

 その理由は言わずもがな、今日、淳華から提供された彼女の考えについて、皇帝の執務室にて、会議を行うためだ。

 

 夜中にも関わらず、急遽開かれた会議の参加者は、皇帝に楝月。そして飛龍の、現段階でこの情報を共有している三人だけ。

 

 宰相である、左丞相さじょうしょう並びに右丞相うじょうしょうの二人には伝えることになるだろうが、三省の責任者及び、楝月を除いた六部尚書方へは、現段階では連絡を入れることはないだろうと、飛龍は考える。

 

 淳華が言った通り、これは彼女の憶測に過ぎないからだ。

 たとえその内容が、非常に信憑性が高いものだったとしても。

 

 そんなことを考えながらも、皇帝の執務室の扉の前へ着いた飛龍は、手の甲で軽く扉を叩いた。

 入室許可を得た彼は、部屋付きの宦官によって開けられた扉から、部屋の中へ足を踏み入れる。

 

 その場には既に、自身のしゅうとでもある兵部証書、楝月。皇帝、柳龍ユウロンが席に着いていた。

 無言で起拝の礼を取った飛龍に対し、柳龍もまた無言で、自分の席に着くよう促した。

 

 飛龍が今までに経験した中でも、最も緊張することになるであろう会議は、雲に隠された三日月が姿を表すと同時に、始まった。

 

 

 

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