第1話 東宮は驚愕する

 「――は?」

 

 東宮、飛龍は驚愕していた。

 それはもう、生まれてこのかた感じたことがない程。

 そして、冷酷かつ無慈悲で、表情筋の凍り付いた東宮という仮面が完全に剝がれ落ちてしまう程に。

 幸いなことに、執務室に飛龍以外の人間は居なかったため、実害と呼べるようなものではなかったが。

 それでも、表情筋が死んだも同然の飛龍が、そこまで動揺している理由。

 それはただ一つ。


 自身の妃――東宮妃、淳華から、文が届いたからだ。

 

 ――否。それだけなら、ここまで驚くことではない。

 いや、淳華から文が届くということだけでもかなり驚いただろうが、それくらいの驚きならば、表情を取り繕うことは容易い。

 問題は、その内容だ。

 冷酷な龍の平静をも奪ったその文字の羅列は、手本のように流麗な字体で、流れるように綴られている。

 平静がことごとく奪い去られた頭の片隅で、彼女らしい字だなという心底どうでもいい思考が生まれ――即座に消えた。

 ある程度信頼のおける宦官によって検査され、封の切られた状態で渡されたその文には、こう綴られている。

 

『東宮、飛龍第一皇子殿下

 連日の蒸し暑さ故、二日ほど寝苦しい夜が続きましたが、昨日は久方ぶりに涼しい夜となり、よく眠れたことと存じます。

 東宮は多忙中と察されますが、少々気になる出来事がございましたので、筆を執らせていただくことと相成りました。

 私は、本日の晡時一つ時から二つ時頃まで、珖徳妃より茶会へお招きいただき、彼女の宮殿を訪れたのですが、そちらの宮殿で些か不可解な事態が発生いたしました。

 東宮への文ゆえ、恐らくどなたかの検査済みでしょうから、ここに詳しく記すことは避けたいと思います。

 しかしながら、このことは外交問題にひびの入るきっかけとなりかねないこと。ひいては戦乱の火種となるやもしれないことを危惧したため、私の推測を聞いていただきたく存じます。

 そのため、お時間の空き次第、性急に私の宮殿へいらしてくださるよう、お願い申し上げます。

 もし、近日中にお会いすることが困難ならば、兵部尚書、明楝月に詳しい内容を綴った文を送っておりますので、そちらに事情をお聞きください。

 ですが、できることならば直接お会いして説明したいので、私の方へ出向いて頂ければとてもありがたく存じます。

 ご来訪を心よりお待ち申しております。

                                  明淳華』

 

 ――これは本当に、彼女からの文なのだろうか。

 書かれていた“頼み事”が、先日までの淳華の態度とあまりに違うので、思わずそんなことを思ってしまう。

 だが、書き出しの季語と見せかけた皮肉に、やはり彼女本人の文だと実感させられ、思わず苦笑する。

 しかし、訪れられるのは迷惑だが、それでも直接会って話したいという彼女の要求に、これは只事ではないのだと肌で感じ取った。


 実を言うと、飛龍は今日、もともと淳華の元へ訪れるつもりだったのだ。

 昨日は臨時の仕事が舞い込んだため、彼女へ会いに行くことは叶わなかったが、気が付くと彼女のことばかり考えていたから。

 その理由はさっぱりわからなかったが、本人に会えばはっきりすると。

 そう、思って。


 しかし、そんな個人的な感情を持ちながらも、この一件は飛龍ではなく東宮として冷静かつ冷徹に処理する必要がある。

 そう、少しばかり強引に思考を切り替えた飛龍は、本日中に彼女の宮殿へ向かうことができるよう、残していた執務を終わらせるべく、資料を紐解いた。

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