凧と糸

Masashi Mori

捧げる祈り

唐突で、息つく暇も無かった。死の宣告とは素早く残酷でせつない。雑多で数奇な幾代もの過去が絡まりあい、青くて丸い惑星に生をうけた。年明け間もない夕暮れの空にあてもなくそよぐ親子が紡ぐ凧、地上から操られる白い線は蜘蛛の糸のようにさざれ今にもちぎれてしまいそうにかぼそく…ゆらゆらと翻弄された。運命そのもの。

夢うつつの中、突き付けられた片道切符。死を経験したことなど無論あるはずもなく、戸惑った。見上げれば遥か彼方、黒い雲がかった先の見えない別世界へ招かれる大人でも一歩を上るのに苦戦するであろう段が広い急な登り階段。夢と現実を差別化するバロメーターなんてないものだろうか。


会社員の満の帰宅時間は大抵9時頃だ。最寄り駅の改札をくぐり、ネクタイをゆるめ、徒歩60秒もかからないロータリー近くの喫煙所で一服する。駅前のスーパーで食料を調達し、疲弊した時は総菜や弁当ですませるが、自炊が基本。1日の仕事の振り返り、明日の予定、週末の楽しみに思いを馳せながら、サラリーマンを題材とした無料の漫画をスマーフォンで見ながら帰路を進む。玄関のドアにカギを差し込み、時計の3時迄回し、カチャっと音が耳に届いたときに安堵し、口にはでないホットしたため息がもれ、一日の終わりを感じる。革靴を右から脱ぎ、スーツをハンガーにかけ、風呂が沸く合間に調理を済ませ、必ず湯船につかり、疲労を代謝してから食事をとるのが満のスタイル。2-3時間かけて缶ビールや焼酎、稀に日本酒を飲みながら、TVを流す。時にはパソコンで動画をあさり、就寝前に読書をして、0時半までに床に就く。ベッドに横たわり、直ぐに深い眠りに引き込まれるのは疲れている証だろうか。


白い外壁には痩けた緑色の蔦が幾重にも絡まっている。細い路地が迷路のようで都内では珍しくない白塗りのアパートメント。錆びた手摺が哀愁を漂わせ、それから推測するに50年以上は経過しているであろう、日本の経済復興を示すかのような建築様式。満が住んでいる301号室の内壁は毎日くゆらせるタバコのヤニでやや茶色く染まっている。唯一壁に飾られている薄い青色のただただ時を計る人の英知が作り上げた遺産がチックタック、チックタックと無機質に音を刻んでいる。4月23日金曜、午前0時半。丑三つ時を迎える前に夢見心地なのか、微かな鼾だけが部屋に響く。

それとなく予兆があった。前触れ。悪寒。床についても、意識は遠くに連れ去ってくれない。灰色の泥。それが正しい表現であろう。とびきり重たく、瞼にこびりつき、離れない。うずうず寝返りを繰り返し、首元は汗で冷えていた。時の経過はもはや推測がつかずおぼろげだ。いらだちを隠せず、眼を開けたが、そこは宇宙さながら漆黒の世界。うす暗く見えるはずの部屋はそこにはなく、一面漆黒。ただだ漆黒。やがて一筋のぼやけた鈍色の点が現れた。遠くから一歩一歩すり足歩行のように丁寧に儀式直前の神主さながら、緊張感が伝わるほどに彼方から、彼(恐らく彼と呼ぶ方が正しい)が近づいてきた。


彼は満を見つめている。一点のみ、胸のあたりを。その奥の桃色の鼓動を。死刑宣告執行人のいでたちは至極漆黒。マンホールの底冷え、あてのない奥底を思わせ、つまさきから頭まで黒づくめ。足元をゆうに超えるマント、先がミシン針のような三角帽子は指先が触れようものなら、ぷつっと音がして、微小な血が溢れんばかり。左手には身の丈をゆうにこえる鈍色の鎌。満が小さいころに読んだ漫画の死神そのもの。

目は一対を見続けて細く光り、横に細く切れ長い凶暴な邪悪な猫を思わせる。全てを見透かされている。睨み続けている。どこまでも奥深く、すべてを悟り、善に対する尊大な憤りを感じる。口角だけは上がり、口元だけは厭らしく緩んでいた。


「あなたは今日まで何不自由なく、生きてきた」

「いや、そんなことはないです」

「いや、住処もあり、定期的な給与、精神面もわりと安定している」

「間違ってはいませんが...」

「人には定められた命の長さがあります。逝ってもらいます」

「それはあまりにも不条理だ」

「察してください」


銅鑼が響くような何重にも響き重なる音のような声。それから突如、執行人の左目から一粒の滴が頬をつたった。それは冷徹さの欠片はなく、透き通った明らかに温もりのあるものだった。

ゆっくりと、一コマ一コマスライドする絵のように鎌を持ち上げ、そこから振り下ろした一太刀は微風すら漂わず、静寂のしじまそのものであった。


満が生きてきた道のり、世界観は平凡だと自己評価する。何を持って平凡なのか。尺度は人それぞれであろう。

午前8時ジャストに携帯電話のアラームが鳴り響き、うたた寝をして5分後に起床。用を足し、洗面所へ向かい、マウスウォッシュを必然として電動歯ブラシに歯磨き粉を少なめに乗せて、稼働させる。下っ腹の出具合が気になりだしてからは糖質を可能な限り接種せず、ゆで卵と野菜ジュースとヨーグルトをかきこみ、髭を整え、整髪し、スーツを着て家を出る。JRと地下鉄を乗り継ぎ、9時前に会社に到着して、そつなく仕事をこなし、会社の同僚や上司、友人知人との宴、予定が無い日は家に帰って食事をとり、眠る。春夏秋冬、心地よい季節から、寒さを防ぐ季節まで、それを繰り返していく。


どれだけ水を汲んでも見満たされない、罅が入った甕のように常に心に隙間があった。空虚に漂う虚無感。真夏の海にプカプカと浮輪に乗るが、浮遊すら感じられないでいる。ただただ太陽の日差しが殴りつけるように睨んでいる。風に揺らぐ凧のように、左右に振られふわふわと。風が強くふけば宙にそよぎ、彼方へはるばる飛んでいく。手繰っているのは宣告人だ。


明るい未来や希望とは。


この物語は田尻満のこれまでの人生を語らう。

彼は東京で生まれ、東京で育った。年齢は29歳。もっぱらSサイズや44サイズを身にまとい、スリムな体系で鼻は映画スター(例えるならイーサンホーク)に引けを取らないほど高く、目は一重でスラっと切れ長い。ファッションはアメリカンカルチャーの影響を受けて、VANSやリーバイスを好む。場所や相手に合わせて、WESTONの641やインコテックスを合わせることも否応なしだ。

東京都武蔵野地区に位置する中央線沿線が最寄り駅の町で生まれた。セミが鳴き始めた蒸し暑い日、陣痛がきてから約48時間で産声を上げたと母から聞いたのは物心がついてからだ。


「生まれる前から手がかかったのよ、あんたは」


彼女はそう言って頬を緩めた。

好みの服、好きな食べ物、一軒家に居を構え、やさぐれたところは皆無といって過言は無い(祖父母のサポートあればこその)。私立の保育園、自宅から徒歩10分程度の公立小学校を卒業。地元の公立中学校へ進学して、昼夜問わず勉強に勤しむことはなく、折衷努力して、運も相まって私立の高校へ進学した。


彼の生まれた町は医学大学、女子大学、外国人学校、私立学校等、学生が多く、日が暮れる頃には喫茶店、居酒屋からは若者の声が店外まで溢れていた。ある意味多種多様な青盛りの若者たちが町を漂い、賑わせ、活性化させていた。一方で高齢者の割合が高く、骨接ぎの医院が乱立し、駅前だけでも5院がしのぎを削る。高層マンションのような高い建物、商業施設がなく、夕日がいつもきれいに映えた。中堅の総合病院のわき道から見える真っ赤な夕日に見とれてしまった。呆然と友人と立ち尽くしては、眺めていた。コンクリートのアスファルトを染めるオレンジ色がいつも彼を優しく包んでくれた。おひさまに照らされた毛布をかぶるように。


誕生日を十数回も重ねていくと、ググッと目に見える、見えてくる世界が枠を広げ、目覚ましい好奇心、小宇宙な大人の世界がギュッと広がりだす。中学校の先輩、友人の兄貴が崇拝対象に代わり、見よう見まねで髪の毛を伸ばし、雑誌を読み漁り、必死で少年から青年へ歩を伸ばした。古着のデニム、スニーカー、レッドウィング等、アメリカンカジュアルを身にまとい、スケボー、サーフィン等のカルチャーに引き込まれる一方で、当然のごとく異性への意識も芽生え、夜な夜な恋する同級生や憧れの先輩を思い、叶い叶わぬ恋、地元の街に溢れる女子高生や大学生に声をかけ、連絡先を交換してカラオケBOXや映画鑑賞、ボーリングにいそしんだ。若干の間が入り、喧嘩(自慢できるほど強くはない)、万引き等、親が学校に呼び出されることもあった。

最寄駅から新宿を経由して、小田急線へ乗り継ぎ、約1時間の通学。別の地域の友人が増え、新たに恋をして、新しい世界が開けた高校生活。新鮮な刺激が全身を突風のようにつきぬけ、あたまの片隅に残っていた思い出せない土地の名前が湧いてでたように何かが吹っ切れた。喪失感の風が彼をまきととった。

大学までへエスカレーター式で上がれる一貫性の学校に通っていたものの、カバンに隠していた、マルボロメンソールが見つかり、停学になった。周期テストの成績は平均点以上、むしろ上位に入っていた。人生とはsmartに進まないものだ。良し悪しの判別は別として、浸食忘れて、熱中したものなんてなく、いずれも途中下車。大学生活だって1年間の留年を別にすれば、何のあつらえもない。


現実との対局。リアリティとの対面。それが彼のテーマ。生きるテーマ。


父親が家を出ていったとき(今でも理由は知らないが)、幼いながらに妙に猜疑心が強かった満は彼を怪しみ、妄想した。目の前から消えた本当の理由は、蒸発(もちろその時は蒸発なんて言葉の意味は彼は知らない)したとさえ、疑心暗鬼に攻め続けた。


高校を中退して、ほぼ駆け落ちのように父親と恋に落ちた母。レッテルを張られることが当然。かといって、一人で生きれるほど強くはないし、祖父母のサポートが良くも悪くも彼女を慎んだ。母親は事あるごとに彼に言い聞かせた。


「勉強しておきなさい。そして字をキレイに書ければ損はしない」

「何の役に立つんだよ」

「今になればわかるよ。人生は過去には戻せない」

「そりゃそーだ」

「ゲームじゃなんだ。だから、いま一生懸命やるんだよ。必ず誰しもが後悔するんだから」

「それは反面教師にしろってことか」


彼女は両目を右上に動かし、3秒間身動きせず、くるっと背を向けて炬燵へ入った。言葉の意味を理解しなかったのか、過去を振り返り悦にひたったのかはわからない。ただ真冬のせいにしたかっただけかもしれない。10代での出産、離婚。彼女は何を捉えて何に向けて進み、後悔をしたのかしていないのか。リアルは捉えられなかった。


それなりに遊び、友人関係の亀裂や劣等感、幾つかの恋(果たしてそれを恋と呼べるのかは不明だが)を重ねて、青い春を謳歌した。文字通り、成熟する前の彩りの淡い季節。無常にもただただ駆け足で去っていく。時間は足を止めない。覆い被さってくる、問われる選択にに虚無感が増していった。


会社員として働きだし、貨幣の対価によりこれまでの経験則が通じない、異なった成長痛が伴う。親知らずのように気づきだしたらずきずきと。

希望した業界や企業への就職は叶わなかったが、スーパーマーケットでは誰もが一度は手に取り自宅に置いてある必需品であろう、日用品を多数輩出するグローバルな外資系企業へ就職した。当初の希望はマスコミ(出版社)への就職であった。大学生時代から、書くことへの興味が出汁を煮出す如くふつふつと湧いてきたからだ。周囲に文筆を職とする知人からの影響が大きく、彼の記す文体や進められた夏目漱石や芥川龍之介を読み漁り、書くことを渇望した。かといって、願いだけでは人生は進まない。コンパスが希望通りに示さぬように。

面接はことごとく不合格。正社員雇用をあきらめ、パートタイム契約からライターとして雇用してもらうことや小さいライティングカンパニーへの就職等々、模索を重ねたが、あくまで自身が思い描くストーリー展開には至らなかった。

コミュニケーション能力、調査能力に長けていた満は現在所属する企業への就職をつかんだ。役割はセールス。小売店を対象に自社商品の多く置いてもらうために交渉を重ね提案を続ける。新宿都心の40階ほどの高層ビルに居を構え、400円程度の定食を提供する飲食店があり、コンサートホールも兼ね備える前衛的なビルに通う。入社5年目、いわゆる中間管理職だ。部下を従え、上司に連なる。役職は主任というタイトルがついている。

ただし…何もかもが順調とは言えない。空想に耽ってはもがいている。恋焦がれる相手は存在するが何ら進展はなく、上司との折り合いは悪い、ライバルは出世街道、著しい成長を見せる後輩達等々、転職も考えていいるが、安定と心地よさとそこそこの年収が彼を縛る。


希望通りの進んだと思えた道に適正、成功、喜びがあるとは限らない。脇道にそれたと思えた道にこそ収まりがよいこともあるのではないだろうか。右往左往とするものの、時だけはもどせない。ある程度の努力とある程度の幸運が自分を支えているのだと。けれども常に虚無感と不条理が寄り添う。


満は目が覚めた。とても心地が良い、雲の上にふわりと浮いている感触。大きなとてつもなく柔らかいマシュマロに包まれているような。

走馬灯のように駆け巡る、彼の人生。案路、生き方。残された人生。


瞼が重い泥に覆われた。きっと彼が近くにいるのであろう。

すり足すら聞こえない、無音、静寂に包まれて、宣告人が闇の奥から目の前に一歩一歩近づいてきた。そして一言彼に告げる。


「たった一つだけ、選択してください」


満は告げた。そして、宇宙のチリとなるように遠い彼方へ無数の色を散りばめながら、飛び立った。


瞼越しに太陽のぬくもりを感じた。橙色が愛おしいく、夢からさめたばかりの高揚感が全身に残る。初春を思わせる清々しい体感。周りを見晴らせば、都内の緑が茂る大きな公園。この幾千年にも連なる大地に彼は体をゆっくりと預けた。夜露のせいか、若干濡れた草も心地よく、寝そべり見上げた空は雲ひとつなく、純粋な紺碧。彼は幾千年前に思いを馳せる。生い茂る原っぱに自由奔放に跳ねる野生動物。彼の身は取りこまれた。当てのない大地へ。

一本一本の指を絡めあい、軽く前髪が揺らぐ程度の風を感じながら、一歩一歩と大地に歩を刻む。揺れ動く意識。いつぞやの過去数代の彼、彼女ら先祖たちは結ばれずに、たもとを分かち合ったのかもしれないと想像してみた。今がその機会かもしれない。ここは希望をみいだし、アタックしてみようと、決心した。覚悟した。


宣告人は告げる。

「よくぞ決心したよ」

「ありがとう。これで前進できるよ」

「そーだな、これで心置きなく…大丈夫だな」


彼はとても心地よく目を閉じた。テレビを見ながら、気づけば深い眠りに入っていたように。

宣告人は鎌をもう一度振り下ろし、箱舟にそっとやさしく、赤子を抱くように満を乗せた。本当に本当にやさしく、虫の音すらひびかない。

最後に真実を伝えなかったのは宣告人の慈悲かもしれない。

彼はすでにこの世から旅立っていた。どれだけ時計を巻き直しても、現実は戻らない。会いたいと願う、愛しい人を頭の右上に思い浮かべる希望。

無常に決められた定めが切なく、それが断たれたその先に沿道はない。


満の目にはうっすらと太陽が輝いて、和紙を濡らした程度に透けて見えた。

死さえ包んでくれる大きな抱擁、大地。醸成され、彼はまた目を覚ますだろう。


END

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