第16話 再びの夜
その夜は雲が厚く垂れ込め、月も星もすっかり覆い隠されて、まるで新月の夜に戻ったかのようであった。
岬にある館の、海に突き出たバルコニーがある2階の部屋は、遠目にもはっきりと分かるほど、
そのバルコニーに人影が現れる。
どうやら、闇に乗じて外壁を登って来たらしい。
人影は、開け放たれたままのガラス戸から、部屋内へと身体を滑り込ませた。
中では、バルコニーに背を向けて、部屋の主が椅子に座っていた。
本を読んでいるらしい。
内容に入り込んでいるのか、主は侵入者に気づいていないようだ。
人影は、その椅子に向けて拳銃を構える。
その時、パタンと音を立てて、ガラス戸が閉じられた。
「・・・きっと来ると思ったぜ。殺し損ねた俺を殺しに」
椅子に座っていたジェフリーが振り返る。
その眼に映ったのは、銃口をこちらに向けていた、顔の真ん中に刃物傷のある男。
ジェフリーの馬車を襲った、週末強盗の主犯だった。
男は息を呑んで、閉じられたガラス戸へ振り返る。
ガラス戸の前には、スウェイが立っていた。
深紅に光る瞳で、スウェイは
彼の両手の間に、紅に輝く
パンッ!
スウェイが両手を打ち鳴らす。
すると紋章は弾けて、
部屋内が一瞬、紅く光って、すぐに元の通りになる。
刃物傷の男は、その異様な光景に目を見張ってうろたえる。
逃げ出す出口を目で探すが、バルコニーへ通じるガラス戸にはスウェイが、部屋の出入り口にはシャラが立っていて、簡単には通り抜けられそうも無い。
おもむろにジェフリーが立ち上がった。
「あんたが律儀で良かったよ。・・・もっとも、俺を殺さないと大金が手に入らないだろうからな」
言いながら、ジェフリーは男へと近づく。
「週末強盗で稼いだ金を持って逃げちまえば良かったのになぁ。・・・そんな
ジェフリーの言葉の終わりと重なって、銃声が響き渡る。
同時にジェフリーが、背中から床へと倒れ込んだ。
刃物傷の男が手にしていた拳銃から、硝煙が立ち上った。
「はっ!ざまぁ無ぇぜ、てめぇ。話の続きはあの世でやりやがれ!」
恐怖心からか、引きつった笑いをして、男は倒れているジェフリーに言い捨てる。
そして、ガラス戸の前に立つスウェイへと銃口を向けた。
スウェイを撃って、ガラス戸からバルコニーへ逃げ出そうという算段らしい。
だが、引き金を引こうとした拳銃に、何かが巻きついた。
細い朱色の鎖だ。
「ひっ!」
男が思わず手を離すと、銃は絡め取られて、上半身を起こしていたジェフリーの手に収まった。
ジェフリーは空いた方の手で、左胸をまさぐっている。
「・・・なんだよ、シャツに穴が開いたじゃねぇか」
ブツブツと文句を言うその手には、拳銃の弾丸があった。
刃物傷の男の顔から、血の気が引いて行く。
至近距離から心臓を狙ったはずだ。
なのにジェフリーの胸からは、血の一滴すら滲んでいない。
「痛くは無ぇけど、衝撃はあるのな」
弾丸を上着のポケットに入れて、ジェフリーは部屋の扉の前に立つシャラを見た。
「銃撃ごときで倒れる貴様が
黒髪の少女は表情ひとつ変えず、平坦に言ってのける。
ジェフリーは「ちぇっ」と口を曲げた。
「さて・・・と」
ゆっくりと立ち上がったジェフリーが、拳銃を握り直す。
刃物傷の男は、弾かれたようにバルコニーへ向かって跳び出した。
ガラス戸を突き破る勢いの身体は、そこに届く前に床へと引き倒される。
男の足には、あの
「まあ、待てよ。せっかく来たんだ、そんなに急いで帰る事は無いだろ?」
ニヤリと笑うジェフリーが、倒れた男へと近づいて行く。
その眼が朱色に光っていた。
「ひぃやぁああっ!」
悲鳴を上げて、足の鎖から逃れようと刃物傷の男がもがく。だが、
「ぎゃっ!」
その肩をジェフリーに踏みつけられて、床に仰向けに固定されてしまった。
「頭は撃たない約束だったよなぁ?・・・さて、何発で死ねるかな?」
ジェフリーが真上から、男へ銃口を向ける。
ガチリと、撃鉄を下ろす音が重く鳴った。
「かまわないから、弾が尽きるまで撃ちこめばいい。この部屋は私の結界の内だ。何が起きても、
ガラス戸の前に立つスウェイが、端麗な微笑みを浮かべて事も無げに言う。
「へぇ、そりゃあ便利だ。・・・じゃあ、遠慮なく」
ジェフリーの指が引き金にかかった。
「ま、待てっ!待ってくれっ!俺は頼まれただけだっ!」
「知ってるよ」
必死の言葉も意に介さず、ジェフリーは男のわき腹に狙いを定める。
「は、話を持って来たのは仲介屋で、依頼人とは顔を合わせない決まりだが、俺は見たんだよ、偶然、依頼人の顔を!」
ハッと、ジェフリーが目を見張った。
その反応に、男は早口で話を続ける。
「上等な
ジェフリーは拳銃を持たない方の手で、男の胸倉を掴んだ。
「他には?他には何か見ていないのか?」
銃口をわき腹に押し込まれて、男は震えながらも懸命に思い出す。
「
「それは本当か?」
グイと、ジェフリーは掴んでいた胸倉に力を込めて引き寄せる。
男が苦しげにうめいた。
「ほ、本当だ。金でできた大きな飾りだったから・・・あれが
「はっ、いかにもな答えだな」
呆れたジェフリーは、口元に薄く嘲笑を浮かべる。
だが、殺人を請け負うほど金に執着がある者なのだ。
おそらく見間違いでは無いのだろう。
そしてそれは・・・。
ジェフリーは拳銃を下ろして、刃物傷の男を掴んでいた手を緩めた。
「・・・よく話してくれた。あんたを撃ち殺すのは止めにするよ」
男の肩をポンポンと叩いて、ジェフリーが穏やかに言う。
恐怖と緊張が貼り付いたような男の顔が、少しだけ崩れた。
「よく考えてみればさ、あんたの血で俺の部屋が汚れるのは嫌だしなぁ」
肩を掴んで、男を間近に引き寄せる。
刃物傷の男は、喉の奥で声にならない悲鳴を上げた。
「てめぇはパットナムを殺した。だから絶対に許さない」
地の底から湧き出たかというような声。
冷徹な光を放つ朱色の瞳。
人では無い者を目の当たりにする恐怖に、男はただ全身を引きつらせた。
「杖の飾りが金無垢か気になっていたんだろう?いいさ、確かめに行こう。俺と一緒に」
言って、ジェフリーは男の首元に歯を立てる。
男は何かを叫ぶように口を開いたが、声ひとつ上げずに・・・こと切れた。
バルコニーから、男の遺体と拳銃を海に投げ捨てて、ジェフリーは北の方角へと顔を向ける。
「どうした?」
その後姿に、スウェイが声をかけた。
「杖の持ち手に付いていた、輪っかと獅子の飾り。輪っかは糸車だ。『糸車を持つ獅子』はウィルトン家の紋章だ」
北の空を睨み付けたまま、ジェフリーが
にわかに風が出てきて、重く垂れ込めていた雲をゆっくりと動かし始める。
「その杖は見た事がある。あいつが持っていた。ケインの持ち物だ」
ケインとは、ジェフリーにとって叔父にあたる人物だ。
ジェフリーの亡き父親に代わって、ウィルトン家の事業を継いでいるのだが、ジェフリーが成人となった今、ウィルトン社内では本来の後継者であるはずのジェフリーを、次期当主に推す声が上がっているのだ。
「あいつは元から、ウィルトン家の全てを手に入れる腹だったんだ。俺の両親の死も、ジェーン叔母さん夫婦の死も、全部あいつが仕組んだに違い無い。パットナムを殺して、俺を殺して、そして次は・・・!」
ジェフリーは怒りに震えて、両の拳を握り締めた。
雲が風に解かれて、切れ間から淡い月明かりが漏れる。
風は冷たく、北から吹いてくるようだ。
「あいつを狩る!」
言って、ジェフリーはバルコニーを飛び降りた。
「待てクソガキ!貴様はまだ紋章が・・・」
シャラの声を背中で聞いて、ジェフリーは駆けた。
北へ、北へ・・・。
自分の故郷へ向けて、ひたすらに駆けて行った。
To be continued.
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