第17話 黒い嵐
その街は大きな街だった。
中心地には汽車の駅があり、立派な市庁舎、郵便局や銀行、繁華な商店街に百貨店、豪奢なホテルなどが立ち並ぶ、豊かで賑やかな街であった。
街の経済を支えているのが、紡績業を主軸として
鉄道もホテルも百貨店も、ウィルトン社の経営であり、街はずれにある巨大な紡績工場では、街の人間が大勢雇用されている。
現在、そのウィルトン社を束ねているのが、ケイン=ウィルトン。
ジェフリーの亡き父親の弟、叔父であった。
彼の住む屋敷を目指して、ジェフリーは駆けていた。
馬車を使えば、半日近くかかる道のりを、建物の屋根から屋根、木々の枝から枝へと跳んで、ジェフリーは一心に、ケインの住まいである池屋敷に向かっていた。
雲が風に払われ、空には弓を張ったような半月が浮かんでいる。
すでに日付が変わって、夜の一番深い時刻となった頃、ジェフリーはケインの屋敷を見下ろす森に居た。
葉の茂る木の枝に身を隠し、荒い息を整えながら、屋敷を眺める。
池屋敷と呼ばれるその屋敷は、付いた名の通り、屋敷裏に大きな池が造られていた。
元々、ジェフリーの祖父が夏の別邸として整えた古い屋敷を、祖父の後妻であったケインの母親が譲り受け、息子のケインが受け継いで、現在の住まいとしている。
ジェフリーは一度胸をさすると、大きく息を吐いてから、屋敷目がけて力強く枝を蹴った。
「・・・えっ?」
飛び込もうとした屋敷の周囲に、霧のようなものがかかっているのが見えた。
「ちっ!」
ジェフリーは手から鎖を放ち、木の枝に巻きつけて落下する身体を止める。
地面へと降り立ち、充分な距離を置いて、改めて正面から屋敷を見た。
確かに薄く、霧か
「何だ?」
ジェフリーは自分の眼に意識を集中して、その霧の向こうを見据えた。
すると屋敷の壁の内側、暗い部屋内が見えた気がした。
いや、見えたと言うよりも、感じたと言うべきか。
何かが・・・居る。
何だ?
人・・・の、ような?
誰だ?あれは・・・
暗くぼんやりとして、正体がはっきりしない。
ジェフリーはそれに触れてみようと、手を伸ばす。
途端、それは鮮やかな朱色に変わり、くっきりとした人影を形作る。
「ヴァン・・・パイア・・・!」
そうと分かった瞬間、その朱色の何者かが振り返ろうとした気がして、ジェフリーは
そしてすぐに、森の中へと跳び
近づいてはいけない。
近寄ってはいけない。
お前にはまだ早い。
そんな声が、どこからか聞こえた。
だから後ろを振り向かずに、逃げる。逃げる。
気が付くと、森を抜けて、建物が並ぶ街のなかに入っていた。
何かが追ってくる気配は無い。
ジェフリーは建物の屋根の上で、大きく息をついた。
あれが本当にヴァンパイアだとするのなら、なぜケインの屋敷にいるのか・・・。
「まさか・・・ケインを狩った奴が居ついているとか?」
だが、確かめるには屋敷に入らなければならない。
用心しながら、そっと後ろを振り返ってみる。
街なかの家込みの中からでは、遠くはなれている池屋敷の様子は全く分からない。
ジェフリーは軽く頭を振った。
冷静になって考えてみれば、あの池屋敷に、今もケインが住んでいるのかさえ不確かなのだ。
そもそもケインと疎遠になって、かなりの年月が経っている。
祖父の・・・ケインにとっては父親の、病が重いのだ。
祖父が住むウィルトン家本邸に、居を移している事も考えられる。
うん、とひとつ頷いて、ジェフリーは結論を出した。
今、わざわざ危険の中に飛び込む事は無い。
命を狙った自分がまだ生きているとなれば、何かまた別の手を打ってくるかもしれない。
それまでは、
祖父の、現ウィルトン家当主の命があるうちは、まだ。
頭のなかを整理して、肩の力を抜いた。
そして改めて、自分が立っている周辺を見渡してみる。
どうやら無意識に、自分の実家へ向かって駆けていたようだ。
街の
それが完成したのは、ジェフリーが街を離れてからの事だが、おかげで道に下りて居場所を確認しなくても済みそうだ。
夜目が利くとはいえ、こうやって屋根の上から街を眺めるのは初めてなのだから。
そう言えば、祖父の容態はどうなのだろう?
ウィルトン家本邸は、ここからそう遠く無い。
夜中である事だし、こっそり窓からでも様子を見られれば・・・。
そう思い立って、本邸へ向けて跳ぼうとした時だった。
ジェフリーの身体にビリッと痺れが走る。
「何・・・?」
それは荒れ狂う嵐の海にも似て、あの岬の館が震えるほどの強風を思い起こさせる。
何もかもをなぎ倒し、近づくものを打ち砕く圧倒的な威力。
思わず立ちすくみ、両足に力を込める。
そうしなければ吹き飛ばされてしまいそうな、そんな圧力。
池屋敷のヴァンパイアか?
いや・・・違う。
もっと黒くて・・・。
もっと強大で・・・。
ジェフリーはその正体の無い威力に
半月を横切る黒い影。
短めのクロークの裾をはためかせて、屋根から屋根を跳んで行くその男。
ジェフリーは眼を見開く。
まさか・・・。
その男を知っていた。
うんざりするほどに。
背の高い細身の身体。
夜に溶ける黒い髪。
端正な顔にある藍色の瞳が、今夜は深い
「テレンス・・・」
名を呟くが、男は気づきもしないで跳び去って行った。
その方向には、祖父が住むウィルトン家本邸がある。
ジェフリーは呆然として、その姿を見送った。
「あいつ・・・あいつ・・・まさか・・・」
あの男テレンスは、ジェフリーが物心付いた頃にはすでに、祖父のそばに居たように思う。
特に叔母夫婦が営んでいた食堂にはよく現れて、
叔母夫婦が亡くなった後、祖父がアメルを寄宿学校に放り込んだと同時に、テレンスもその学校の講師になった。
アメルが学校の夏休みに、岬の館に遊びに来る時も、頼みもしないのに付いて来ていた。
だから祖父の命を受けて、自分たちを監視している者だと思っていた。
愛想も遠慮も無い、いけ好かない奴だと・・・。
それが・・・
それが・・・!
「
突然の声に、ハッとジェフリーは我に返る。
見ればいつの間にか、シャラが
その事よりも何よりも、ジェフリーが驚いたのは・・・。
「盟主だってぇ!あいつがか?」
思わず叫んだ声が裏返る。
その
「盟主テレンスは、ご主人様と古くからご
と、さらりと言った。
「は・・・」
ジェフリーは驚きすぎて、言葉が続かない。
「・・・それにしても、全く気配を隠されていなかった」
低く呟いたシャラは、池屋敷の方角へと視線を向ける。
ハッとして、ジェフリーはシャラを見た。
その視線の意味を理解したからだ。
「貴様、駆ける力は残っているか?・・・どうも
「気配を隠すって、どうやるんだ?俺も・・・」
「気づかれるほどの気配など、貴様にあるわけ無かろうが」
あっさりとシャラに言われて、ジェフリーはがっくりとうな垂れる。
「・・・で、あればこそ、貴様はあの森から無事に出られたのだ」
言われて、ジェフリーは顔を上げた。
「やっぱり、屋敷にヴァンパイアが居たのか?」
シャラはこっくりと頷く。
「詳しい話はお屋敷に帰ってからだ。もったいなくもご主人様は、貴様をいたくご心配されておられる。何事も無くここを立ち去らねば・・・」
いつもと変わらず平坦な物言いではあるが、シャラはしきりに池屋敷の方を気にしていた。
「分かった。遠回りになるが違う道を行こう」
ジェフリーは、ヴァンパイアが居るという池屋敷とも、テレンスが向かったウィルトン本邸とも違う方向を指差す。
シャラが頷いて、ふたりは同時に足元の屋根を蹴って駆け出した。
行く先に、鉄柵の塀に囲まれたいくつかの白い建物が並ぶのが見えた。
アメルが入っている寄宿学校だ。
ジェフリーはそこに視線を残しながらも、足を止めずに駆け抜けて行った。
To be continued.
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