第11話 欲シカッタモノ
その日の夕刻、ジェフリーは町へ出た。
留守中に心配して家を訪ねて来てくれた、友人のビルに会うため、学校の寄宿舎へ行くという理由に、マーチンは渋々ながらも辻馬車を手配してくれた。
寄宿舎の手前で馬車を降りたジェフリーは、宿舎へは向かわずに、通りを越えて町なかへと歩いて行く。
辺りは夕闇に沈みはじめ、薄暗くなっていたが、ジェフリーは帽子を
できる限り人に会うのを避けたかった。
知り合いに行き会って、大げさに心配されたり、興味本位で事件の事を聞かれるのも嫌だったし、何より自分の命を狙う者が、町のどこかに潜んでいると思うと恐ろしかった。
とはいえ、家で使用人たちの気遣いの中に居ても、心は休まらない。
灯されたばかりのガス燈の下で、懐中時計を開く。
そろそろデイジアが帰宅する時間だ。
寄宿舎のビルの部屋へ行く理由なら、朝まで帰らなくても家の者は心配しない。
寄宿舎内の大学寮には、ビルの他にも友人らが部屋を持っていて、集まっては朝まで呑明かすのが定番だったからだ。
もっとも、それを口実にして、こうしてデイジアの部屋へ行く事も多かったが・・・。
ビルを筆頭に、長年の悪友たちもきっと心配しているだろう。
だけど・・・今は・・・。
ジェフリーは時計を上着のポケットにしまって、デイジアのアパートへ向かった。
町なかの繁華街から外れた裏通りに、デイジアのアパートがある。
印刷店と馬車修理店との間に挟まれた、間口が狭くて奥行きの深い、薄っぺらい箱のような建物の本来の姿は、安いホテルだ。
15ほどある客室の半数くらいが、デイジアのようにアパート代わりとして長期滞在をしている。
一応はホテルなので、ささやかなエントランスホールには
夕方の6時を過ぎて、馬車修理店は店を閉めていたが、印刷店はまだ仕事が続いているらしく、輪転機が動く音が聞こえている。
だがそれも、奥の工房での事で、
通り沿いとはいえ、ガス燈の数もまばらで、歩いている者は無く、薄暗い道を空の荷馬車が遠ざかって行くのが見えるだけだ。
ジェフリーは通りに人が居ないのを見計らって、アパートの玄関扉を細く開いた。
正面に見える受付には誰もいない。
夕方から朝にかけては、家主でもある
ジェフリーがデイジアの部屋へ通い始めた頃、家主は良い顔を向けなかった。
だが、ジェフリーが気前良く酒だの菓子だのを持って来るものだから、今ではすっかり打ち解けて、帰宅する彼女を待つ間、受付で話し込むほどになっていた。
けれど今夜は、その姿が無い事にホッとして、ジェフリーは中に入る。
足早に受付の横を抜けて、階段を上がろうとした時、
「ジェフリーじゃないか!」
と、呼び止められた。
恐る恐る振り返ると、自分の部屋から出てくる家主が見えた。
痩せて、少し腰の曲がった老爺は、驚いた顔のままジェフリーに駆け寄った。
「や、やあ・・・親父さん」
ジェフリーは努めて、いつものように笑顔を作る。
「親父さんじゃあ無いよ、お前さん大変な目にあったそうじゃないか。新聞を読んだよ。デイジアがそりゃあ心配してなぁ・・・」
しわだらけの手が、ジェフリーの肘の辺りに触れた。
乾いた喉がゴクリと鳴る。
家主はどれほど心配していたかを熱心に語っていたが、ジェフリーにはよく聞こえない。
ただ、自分に触れている老人の枯れたような手が、なぜだか無性に気にかかって、ただ、それを見つめる。
乾いた喉がまた、ゴクリと鳴った。
「ジェフリー?」
家主の声に我に返る。
「えっ!・・・あ・・・心配かけて悪かったよ。とにかくもこうして無事だからさ」
そう取り繕った。
家主は目を細めて、ポンポンとジェフリーの肘を叩く。
「そうさな、良かった。本当に良かった。早く彼女に元気な顔を見せてやるといい。部屋に帰っているから」
「ありがとう」
と、だけ言って、ジェフリーはその場から自分を引き剥がすように、階段を駆け上がった。
3階の突き当たりがデイジアの部屋だ。
小さくノックをして、ドアに顔を寄せ、声をかける。
「俺だよ」
と。
途端、勢い良くドアが開かれた。
驚いた顔のデイジアが現れる。
これ以上無いという程に大きく目を開いて、ジェフリーを見る。
「ジェフ・・・」
みるみるデイジアの瞳から涙があふれ出た。
「デイジア・・・」
その泣き顔を見て、ジェフリーは心から安堵する。
ああ、彼女だ・・・。
その身体を押し戻すようにして、デイジアの部屋へと入る。
「ジェフ・・・本当に?」
デイジアの手が、ジェフリーの頬に触れる。
その涙に濡れた目が、まっすぐにジェフリーを見た。
トクン、と、ジェフリーの胸が鳴った。
「本当なのね・・・ジェフなのね・・・ああ、帰って来てくれたのね・・・」
「デイジア、会いたかった」
「ジェフ・・・ジェフ!」
胸に飛び込んで来た恋人の身体を、ジェフリーは抱きしめる。
ああ・・・デイジアだ。
本当に帰ってきたんだ・・・。
伝わる感触、確かな温もり、彼女の匂い・・・。
その存在を確かめるように、もう一度強く抱きしめる。
トクン、と、また胸が鳴る。
喉が・・・焼けるように渇いている・・・。
「・・・ごめん、デイジア。水飲ませて。急いで来たから喉が渇いて・・・」
ジェフリーの困ったような声に、デイジアは顔を上げた。
そして涙に濡れた顔で笑う。
「良かった、いつものジェフね。・・・良かった」
ふふっ、と笑う彼女が、可愛らしくて愛しくて・・・。
「ずっと帰りたかった・・・君のところへ・・・」
そう言ってまた、抱きしめた。
差し出された水を一気に飲んで、ジェフリーは息をついた。
空になったコップに、デイジアが水を注いでくれる。
「あなたのお宅へ行ったの・・・土曜日の新聞を見て・・・」
二人は並んでベッドに腰をかけていた。
ホテルの一人部屋は、さほど広くはない。
ベッドと机とクロゼットが置いてあるだけで、ふたりはいつも、ベッドを長椅子代わりにして座っていた。
「ごめんなさい、勝手に行って。隣の馬車屋さんに来ていた辻馬車で行ったの。岬の方のウィルトンさんのお宅って言っただけで、連れて行ってくれたわ・・・」
二杯目の水を飲みながら、ジェフリーは顔を上げる。
そこにはデイジアの、なぜか悲しげな微笑があった。
「驚いちゃった。立派なお屋敷で・・・。応対に出て下さった方も立派な紳士だった。あなた、そんな人からご主人様と呼ばれる立場だったのね・・・」
何と返事して良いか分からないジェフリーは、ただじっとデイジアを見るしかなかった。
デイジアは手にある水差しを傾けて、ジェフリーのカップに水を足す。
「・・・私たち、もう少しお互いの事を知らないといけないと思うの」
そう言って、まっすぐに見つめてくる彼女の顔は、とても大人びて見えた。
彼女の方が年上だけれど、少女のような顔立ちで、可愛らしいとばかり思っていた。
でも・・・今夜は・・・。
ジェフリーは思わず目を逸らす。
「私ね、今度の事であなたがすごく大切だって、分かったの」
デイジアの手がジェフリーの手に重なる。
コクリと・・・ジェフリーの喉が鳴った。
「だから、あなたの事をもっと知りたい。・・・そしてね、私の事も知ってほしいの。・・・恐れずに・・・」
恐れずに?
振り返ったジェフリーを、デイジアの眼差しが射抜く。
ピキッ・・・と、ジェフリーの身体の真ん中を冷気が走った。
音を立てて血が凍っていく、あの感じが・・・
スウェイによって起こされた、あの感覚が・・・
再びジェフリーを襲う。
身体が凍って行くのに反して、喉は渇く。
あんなに水を飲んでも、癒されない渇き。
「う・・・」
たまらずに、ジェフリーは喉を押さえた。
「ジェフ?どうしたの?」
様子がおかしい恋人を、デイジアの心配顔が覗き込む。
ジェフリーは大きく息を吐いた。
「恐れずに・・・って言ったね、デイジア・・・」
凍って行く。
冷たくなって行く。
固まって行く。
ドクンと、全身が脈打った。
変わってしまう。
・・・変えられてしまう。
「・・・ジェフどうしたの?大丈夫?」
ああ・・・君の声。
それが凍り付こうとする俺を溶かす。
春の陽の光のように・・・。
「デ、デイジア・・・だったら俺の事も・・・恐れないでくれるか?・・・どんな俺でも・・・抱きしめてくれるか・・・?」
震えながら、ジェフリーは声を絞り出す。
ふっと、ジェフリーの身体が、温かいものに包まれる。
「・・・抱きしめているわ、ずっと・・・」
耳元から彼女の声。
背中に回された手が、ギュッとジェフリーを抱きしめる。
ああ・・・欲しかったのはこれだ。
ずっと足らなかったもの・・・。
苦しいほどに渇いた喉を潤すもの・・・。
デイジアの唇に、自分の唇を重ねる。
これまで何度となく口付けを交わしたけれど・・・。
こんなにも甘かっただろうかと・・・思う。
もっと・・・満たされたくて・・・。
もっと・・・欲しくて・・・。
彼女を・・・欲しくて・・・。
彼女の柔らかい耳元に口付ける。
「あ・・・ジェフ・・・」
ため息にも似た艶やかな甘い声が、彼女の唇から放たれた。
うっとりと目を閉じて、デイジアは身を任せてくる。
ああ・・・デイジア・・・。
君はなんて・・・柔らかくて・・・温かくて・・・。
ああ・・・潤される・・・満たされる・・・。
欲しかったのはこれだ・・・。
俺が・・・君で満たされる・・・。
ジェフリーの背中に回された彼女の手が、
ずっと抱きしめると言った彼女の手が、
パタリと・・・落ちた。
「・・・デイジア?」
ジェフリーの肩に乗っていた彼女の頭が、カクンと後ろにのけぞる。
「デイジア?」
ジェフリーが腕の力を抜くと、ズルリと彼女の身体はベッドへ崩れ落ちる。
え・・・?
「デイ・・・ジア?」
今まで口付けを交わしていた、彼女の唇に触れる。
けれど、閉じた目を開いてくれない。
投げ出された手を握る。
けれど、握り返してくれない。
え・・・?
「デイジア!デイジア!」
ジェフリーは恋人の身体を抱き上げて、何度も揺さぶった。
けれど・・・
けれど・・・
「・・・う、嘘だろ?・・・どうして・・・!」
動転したジェフリーの顔が、ガラス窓に映った。
それを見て・・・震え上がる。
眼が・・・自分の眼が・・・
朱色に光っていた。
「あ・・・あ・・・あ・・・」
朱色に光る瞳。
癒された喉の渇き。
動かない彼女。
「あ・・・ああ・・・ああああああ」
汝の願いを諾し、盟約を結ぶ。
「うあああああああああああっ!!!!」
絶叫を放って、窓を打ち破る。
ジェフリーの姿は、夜の闇へと消えて行った。
To be continued.
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