第5話 盟約



「私を呼んでいたのは、君か・・・」


 ジェフリーの目にその姿が映る。


 自分よりもいくつか年上だろう、若い男だ。

 華やかで美しい顔立ちをしている。

 肩まである淡い金髪が柔らかく風に揺れて、男はつややかな微笑みを浮かべていた。


 何者であれ、人では無いのはすぐに分かった。

 自分を見下ろすその瞳が、深紅に輝いていたからだ。


 とうとうあの世から迎えが来たのか、と、ジェフリーは薄く笑う。

 天国へ導く天使なのか・・・

 それとも地獄へいざなう悪魔なのか・・・


 だがそのどちらにしても、男の姿はとても現実的だった。

 銀灰色の上品なフロックコートに、豪奢なレースが付いたクラバットを締めた装いは、どこぞの青年貴族だとでも言われた方がしっくりと来る。


 ・・・と、そこまで思って、ジェフリーはある事に気づく。

 新月の闇夜なのだ。

 灯りひとつない暗闇のなか、なぜか彼の姿は、その髪の毛の先、胸のレースの細かい模様さえもはっきりと見る事ができる。


 それに、自分が転がっている地面は狭いはずなのに、この男はどこに立っている?

 背に翼があるようには見えないが・・・。


 男の足元を見ると、ピンと張られた赤い紐のようなものの上に立っているようだ。

 いつそんなものが張られたのか、この絶壁のどこから張られているのかは分からない。


「・・・あんたさっき、俺に呼ばれたとか言ったな?」

 男は、深紅の瞳を少しだけ見開いた。

「まだそれだけの口が利けるとは、大したものだ」

 言いながら微笑を浮かべる。

「でも・・・残念だね。君の命はもうすぐ尽きる」

 微笑みを口元に乗せたまま、よく通る柔らかな声で、男は冷酷な事実を告げた。


「私は、君の強い意志に引き寄せられた。なるほど、それに見合うだけの者と言う事かな?」

 優雅な語りを聞いているうち、咳き込んだジェフリーの口から、血の塊が吐き出される。

 それを見て男は驚く様子もなく、クスクスと笑った。


「おやおや・・・思ったより時間が無いようだ。わずかながらでも、意識と命が残っているうちに、話を済ませてしまおうか」

 優雅と言うよりも、暢気のんきなその態度に、ジェフリーは悪態のひとつでもついてやりたいと思うのだが、声が上手く出てくれない。


「私が君にしてやれる事はふたつ」

 男は、白いサテンの手袋に包まれた指を二本立てて見せた。

「ひとつは、今すぐ君に安らかな死を与える事。もうひとつは・・・安らかならぬ永遠の生を与える事だ」


 は・・・やっぱり悪魔の方か。

 ジェフリーは、遠のいて行く意識の尾ひれをどうにか掴んで、必死で声を上げた。

「俺は生きる!何になったっていい!生き抜いてやる!」


 血と共に吐き出した言葉に、男は目を細めて、その美しい顔に笑みをく。

 その時初めて、ジェフリーはゾクリとした寒気を感じた。

 もしかして自分は、途轍とてつもない者に魅入られてしまったのだろうか・・・。

 けれど・・・。


「・・・よろしい」

 うなずいた男の背後に、夜の闇とは全く別の、重くうねりのある暗黒が開いて行く。

 男は左の手袋を外し、手のひらを高く天に向けた。


「汝の望みをだくし、盟約を交わす」

 ドン!という地鳴りが響いて、天に向けた男の手のひらから、稲妻のようなあかい光が放たれる。

 紅い稲妻は辺りに風を巻き起こし、男とジェフリーを取り囲むように、轟音を立てて渦巻き始めた。


 風と光は壁となって、半円形のドームのように空間を覆う。

 紅い光はその円い天井へ集結し、複雑な紋様を描きだす。


「鳥・・・」

 その中央に浮かびあがったのは、翼を広げた大きな鳥だった。

 孔雀のような冠羽かんうと尾羽根があり、翼はまるで燃え上がる炎のように見える。

 その真下で、男は朗々たる声を響かせた。


「我が名はシンケールスの盟主めいしゅスウェイン。なんじ下賜かしするは永劫えうごうなる眷属けんぞくの誉れ。汝が献ずるは無窮むきゅう恭順きょうじゅん。汝の名をもって宣誓し、ここに盟約を結ぶ。汝の名は・・・」

「俺は・・・ジェフリー・ライオネル=ウィルトン!」


 それはすでに、声になっていなかったかもしれない。

 けれどジェフリーは残った命の全てを吐き出すように、自分の名を叫んだ。


 見下ろしていた男が、満足そうに微笑む。

 炎のような鳥を頭上に置きながら、その笑みは割れた薄氷のように冷たくて鋭利だ。


 この男が悪魔でも天使でも、あるいはそのどちらでも無かったとしても、もうどうでも良い。

 無情に閉ざされようとする人生の扉を、こじ開ける事ができるのであれば、何者の力だって借りてやる。

 決してこのまま終わらせはしない。


「・・・盟約は成せり。新しきしもべジェフリーに、証を刻する」

 男はジェフリーに覆いかぶさると、その首筋に顔を寄せた。

 その時、ジェフリーはこの男の本性を知る。


「ヴァン・・・パイア・・・」

 では俺は・・・俺は・・・?


 何かが首筋から身体の中に流れ込む。

 ひどく冷たい。

 身体の内側から凍りついて行く。

 ピシピシと音を立てて、全身の血が凍って行く。

 意識が、紅く染められて行く。


「・・・永遠の生の始まりだよ、ジェフリー。それは安らかならぬものだというのを、選んだのは君だというのを・・・決して忘れないでくれたまえ」

 その言葉が遠くに聞こえて、ジェフリーの意識は凍りついた。


 もうどこも、心さえも・・・動かす事はできなかった。

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