第2話「オタクの少女」
「……は?」
私は漫画雑誌を握ったまま硬直してしまった。最後のページの端に記された呑気な煽り文。そして突き付けられた無慈悲な現実。私の正常な思考を狂わすには十分だった。思わずメガネをカチカチと揺らしてしまう。
「え? いやいやいや……うん……え?」
どれだけ心を落ち着かせようとも、目の前に広がるのはユキテル君が死んだという事実だけ。目の錯覚を疑おうが、自分がまだ夢の中にいる可能性を考慮しようが、変わることはない。
間違いない。ユキテル君は崖から突き落とされて、死んでしまった。
「ユキテル君……嘘だよね……嘘だと言ってよ……」
私は言葉にしても意味のないことを呟く。漫画雑誌は喋らない。嘘だと言ってくれない。そんなことは分かってる。分かっているのだ。それでも、私の感情は残酷な現実に従順になることはない。
「いっ、嫌ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!」
そして、私は泣き叫んだ。大好きなユキテル君の死に、自分の命よりも大切だと言っても過言ではないユキテル君の死に、今まで感じたことのない深い悲しみに暮れる。
信じられない。でも信じるしかない。でも信じられない。でも信じるしかない。でも……以下略。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!! ユキテル君が死ぬなんて、嫌だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
「
お母さんが一階から注意する。私の名前は
でも、とりあえず大事なことを一つ言っておく。私の大好きな漫画『シュバルツ王国大戦記』のキャラクター、ユキテル・コーツェンバルク君は、私の“推し”だ。
推しという言葉が分からない人に簡単に説明すると、とにかくそのキャラクターのことが大好きだという意味だ。
いや、私がユキテル君に対して使う『推し』は、そこら辺の人間が使う並大抵の大好きではない。彼は至高の中の至高で、私の人生を支える尊い存在なのだ。
彼のためなら死んでもいいと、本気で思っている。彼のためなら、丼で50杯は軽くご飯をおかわりできる。一晩で万里の長城を建てられる。
私はユキテル君という人類の英知が生み出した究極の存在に、心から酔いしれている。全身全霊で“推し”ているのだ。
「あっ……あぁ……」
言葉にならないうめき声を上げる私。そう、大好きなものに人生を捧げ、命を潤わせる私は、俗に言う『オタク』だ。
一つの作品や人物などの対象に没頭し、凄まじく豊富な知識を持っており、異常なほどの愛情を注ぐ存在、オタク。みんなも一度は聞いたことがあるだろう。聞いたことがない人はごめんなさい。
例えばカッコいい男性の音楽グループを応援している人や、可愛い人形やフィギュアをコレクションしている人、とにかく何でもいいから好きなものに物凄く夢中になっている人のことを、オタクと呼ぶ。
「痛っ!」
ユキテル君が死んだショックで暴れたことで、床に山積みにしていた漫画に手をぶつけた。人や時代によって定義は曖昧だが、私は間違いなくオタクと呼ぶにふさわしい人種に属するだろう。今床に散らばっている漫画の数を見れば明らかだ。
私は漫画やアニメなど、二次元の文化をこよなく愛するオタクだ。架空のキャラクターが織り成す摩訶不思議な物語が大好きなのだ。多分世間一般的な印象では、私のような存在をオタクと呼んでいると思う。
数ある漫画の中でも、私は『シュバルツ王国大戦記』が一番大好きだった。
私は毎月雑誌を買って読み続けている。単行本だって、全巻余すことなく買っている。それぞれ鑑賞用、保存用、抱き枕用の三つに分けて。
あっ! しまった! 何呑気に私の自己紹介を再開してるんだ! トイレに流した糞溜まりなんか掘り起こしてどうするの!
私のことなんかより、ユキテル君のことだ! 『シュバルツ王国大戦記』にハマった理由はもちろん、ユキテル君という最高の推しに出会ってしまったから。
彼の負け知らずの剣術の腕、誰に対しても情の深い人間性、落ち着いているように見えて男らしい熱い心、そして甘いルックス……。私の心は一瞬にして鷲掴みにされた。
「うっ……うぅぅ……」
そんな彼の残酷な最後を、漫画雑誌は堂々と見せつけてきた。私のメンタルなんか知るよしもない。ラスボスであろうイワーノフの不気味な笑みに、私の涙の雫が染みる。彼の野望がじわじわと実現に近付いているような気がして、更に悲しみが積もっていく。
「ユキテルくぅぅぅぅぅぅん!!! あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
バンッ
「夢、うるさい」
「あ、すんません」
お母さんが私の自室のドアを開け、鬼の形相で注意してきた。流石に騒ぎすぎたわ。ごめんなさい。
いやいやいや、落ち着くなんて無理だから! 私の一生の生き甲斐だったユキテル君が、あまりに呆気なく殺されたのよ!? こんな仕打ちある!? 推しが殺される悲しみは、想像するに足りないんだから。
私、明日から生きていけるのかな……。
「……」
オタクになってから、ずっと二次元の世界が生きる糧だった。学校のテストで0点を取っても、仕事でストレスが溜まった親に八つ当たりされても、大好きなものがあるだけで乗り越えられた。
どれだけ辛い現実に打ちのめされても、素敵な物語の世界に没頭するだけで、私の心は救われていた。私にはユキテル君がいるからと、歯を食い縛りながらも明日を迎えることができた。
それが、今はどうだろう。彼の命が消えてしまっただけで、この世から希望が一欠片もなくなってしまったような喪失感に襲われた。ユキテル君のいない私の人生は、お先真っ暗だ。
「ユキテル君……さようなら……」
私はせめて最後にユキテル君の温もりを味わおうと、単行本を読み返して彼の軌跡をなぞった。死んでしまった以上、彼の出番は激減することだろう。悲しみに慣れないうちに、彼の活躍を振り返ろう。
うひょぉぉぉぉぉ~!!! ユキテルきゅんめためたカッコいいぃぃぃぃぃ!!! ヤバすぎる!!!!! 最高ぉぉぉぉぉぉぉぉ~!!!!!!!!
「……ふぅ」
ハァ……ハァ……マジ無理。死ぬ。最高。ユキテル君のヤバ味に興奮しながら、私は漫画の山に埋もれて絶頂した。
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